第47話 おじいちゃんの嘘つき
アナとシグレが、孫のリカナを連れ出した頃。
つい先ほどまで響いていたリカナの声は廊下の向こうへ消え、村長の家には静けさが戻る。
村長ダイクはしばらく扉を見つめていた。
「話の続きを頼む」
ユキが言うと、ダイクは小さく頷く。
「……はい」
膝の上に置いた手を握り、老人はゆっくりと言葉を探す。
「屋敷に現れる人影ですが、最初に見たのは村の老婆でした。もう十年ほど前に亡くなった夫が、二階の窓辺に立っていた、と」
「見間違いではなく?」
「本人は、そう言っております。夜で、距離もありました。ですが、あれは間違いなく夫だったと。若い頃によく着ていた上着まで同じだったそうです」
「他にもいるのか」
「ええ。病で妹を亡くした若者が、その妹を見たと言いました。数年前に母を亡くした子供も、屋敷の窓に母親がいたと泣きながら訴えてきたことがあります」
ダイクの声は重かった。
ユキは窓の外へ視線を向けた。
昼間の屋敷は、古びているだけの廃屋だった。
だが、夜になると、死んだはずの者が現れる。
しかも、誰にとっても同じ人物ではない。
「見る者によって、姿が違うのか」
「……そうなのだと思います」
「死人そのものが出ているというより、見る者が会いたい相手を見ている可能性があるな」
ユキが淡々と言うと、ダイクは苦しげに目を伏せた。
「村でも、そう言う者はおりました。あれは幽霊ではなく、願望が見せている幻だと。ですが、幻だとしても……人は行ってしまうのです」
「行方不明になった連中もか」
「はい」
ダイクは頷いた。
「最初に戻らなくなった男は、妻を亡くしておりました。屋敷の窓にその妻を見たと、何度も言っていたそうです。皆で止めました。夜に近づくなと。ですが、ある夜、姿が見えなくなり……そのまま」
「探しに行った三人も戻らなかった」
「はい。昼間に入った時は、何もなかった屋敷です。だから、少人数なら大丈夫だと思ったのでしょう。ですが、夜に入った三人は、誰一人戻りませんでした」
アイファが壁際から口を開いた。
「……足跡は」
「途中まではありました。屋敷の扉の前まで。ですが、中は埃がひどく、床も崩れている箇所が多い。何人分の足跡か、どこへ向かったのかまでは分からなかったそうです」
「血は」
「ありません」
「争った跡は」
「それも、見つかっておりません」
アイファは黙り込んだ。
斬った、殺した、連れ去った。
そういう分かりやすい痕跡がない。
だからこそ厄介だった。
ユキは指先でテーブルを軽く叩く。
「夜だけ反応する魔装か。あるいは、屋敷そのものに何か仕込まれているか」
「魔装、ですか」
ダイクの顔がまた強張る。
ユキは頷いた。
「断定はしない。だが、人の記憶や未練を利用する類なら、幽霊よりはよほどあり得る」
「……未練」
ダイクが、その言葉だけを噛むように繰り返した。
その時、廊下の方から足音が近づく。
扉が静かに開かれる。
戻ってきたのは、アナとシグレだった。
「……戻りました」
二人とも先ほどより声が小さい。特にアナは、分かりやすく表情を曇らせていた。
「リカナは」
ダイクが立ち上がりかける。
アナは慌てて首を振った。
「あ、大丈夫です。遊び疲れて、寝ちゃいました。お部屋で横になっています」
「そうですか……」
ダイクはほっとしたように息を吐く。
だが、アナの顔は晴れない。
ユキはそれを見て、目を細めた。
「どうした」
「……ユキさん」
アナは迷うように視線を揺らした。
それから、ぎゅっと両手を握りしめる。
「リカナちゃんの、ご両親のことなんですが……」
その瞬間、ダイクの顔色が変わった。
「リカナが、何か言ったのですか」
「はい」
アナは小さく頷く。
「パパとママは、お仕事で帰ってこられないんだって言っていました。でも、そのあと……」
言葉が詰まる。
代わりに、シグレが静かな声で続けた。
「あの屋敷にいるって言ってたよ。嬉しそうに」
「なんと……」
ダイクは椅子に崩れるように腰を下ろした。
まるで、隠していた傷を突然開かれたような顔だった。
ユキは短く問う。
「村長。リカナの両親は」
ダイクは、すぐには答えなかった。
皺だらけの手が、膝の上で強く握られる。
先ほどリカナの頭を撫でていた手と同じとは思えないほど、弱々しく震えていた。
やがて、老人は絞り出すように答えた。
「……一か月前に、亡くなっております」
アナが息を呑んだ。
アイファの長い耳が、わずかに動く。
「リカナには」
ユキが問うと、ダイクは目を伏せる。
「話せておりません」
その声は、老人というより、ただ一人の祖父のものだった。
「父と母は仕事で遠くへ行っている。そう言ってしまいました。最初は、一日だけのつもりだったのです。あの子が泣き疲れて眠れるように、その場をしのぐために……ですが、一日が二日になり、三日になり、一週間になりました」
誰も口を挟まなかった。
「言わなければならないことは、分かっております。あの子だけが知らないままでいることが、どれほど残酷かも。ですが、あの子が笑っていると、どうしても……言えなかった」
ダイクは両手で顔を覆った。
「私は、祖父失格ですな」
「……そんなこと」
アナが思わず声を出しかける。
だが、途中で止めた。
慰めだけで済ませていい話ではないと、分かったのだろう。
それでも、アナは一歩前に出た。
「でも、リカナちゃんは、待っていました」
小さな声だった。
けれど、震えてはいなかった。
「お仕事で帰ってこられないんだって、そう信じていました。でも、本当は違うなら……ちゃんと、話してあげた方がいいと思います」
ダイクは顔を上げる。
アナの犬耳は少し伏せられている。
けれど、その目はまっすぐだった。
「リカナちゃん、寂しいって言ってました。でも、知ってるんだって。パパとママは屋敷にいるんだって。あのままだと、きっと……」
屋敷へ行ってしまう。
その言葉は、誰も口にしなかった。
けれど、全員が同じことを考えていた。
ダイクは長く黙っていた。
膝の上の手が、何度も握られ、開かれる。
やがて、老人は小さく頷いた。
「……そうですな。今夜、話します」
その声は頼りなかった。
けれど、逃げるための声ではなかった。
ユキは椅子から立ち上がる。
「なら、俺たちは一度休む。夜になったら屋敷へ行く」
「今夜、ですか」
「ああ。人影が出るなら、昼間に眺めていても意味がない」
ダイクは深く息を吐き、頷いた。
「分かりました。部屋がいくつか余っております。よろしければ、夜までお使いください」
「助かる」
そうして、一度話は切られた。
案内された部屋は、客間として使われていたものらしい。
簡素な寝台と机があるだけだったが、休むには十分だった。
日が落ちるまで、そう長くはない。
アナは窓の外を見つめていた。
村の向こうに、問題の屋敷がある。昼間はただの廃屋にしか見えなかった場所が、夕暮れの影を浴びるにつれて、少しずつ別の顔を見せ始めていた。
「リカナちゃん、大丈夫でしょうか」
「分からない」
ユキは正直に答えた。
アナは唇を引き結ぶ。
シグレも珍しく茶化さなかった。
◇
夜が深まった頃。
がしゃん、と何かが割れる音がした。
続いて、小さな悲鳴。
アナが弾かれたように立ち上がる。
シグレの表情からも、いつもの笑みが消えていた。
ユキは即座に刀へ手を伸ばす。
廊下の向こうから、泣き声が響く。
「嘘だ!」
リカナの声だった。
「おじいちゃんの、嘘つき!」




