第17話 壊す数
ミアレ村を出る頃には、朝靄が低く地を覆っていた。
森は静まり返り、昨夜の気配だけが奥に沈んでいる。
見送りに出る者はいない。
それでよかった。
己がために壊した者へ、感謝も激励も必要ない。
しばらく無言で歩いたのち、アナが小さく口を開く。
「……あれが、《魔女の置き土産》なんですね」
「ああ」
「なにかもっと、兵器のようなものだと思っていました」
ユキは視線を前に据えたまま答える。
「今回は、運が良かっただけだ」
アナが顔を上げる。
「持ち主も、操られていた村人も素人だった。統率もなければ、訓練も受けていない。ただ糸に引かれて動いていただけだ」
あれでは、脅威になりきれない。
腰の刀が穏やかに声を重ねる。
(昨日は、まだ軽い方だったね)
責めも誇張もない声音。
(使い手が違えば、結果も違ってたよ)
アナの耳が、わずかに伏せられる。
「……どれくらい、違うんですか」
ユキの声が、少しだけ沈む。
「想像してみろ」
朝靄の向こう、まっすぐに続く街道を見たまま言う。
「持ち主が、あの青年ではなく、軍の指揮官級だったら」
「操られていたのが村人ではなく、訓練を受けた兵士だったら」
短い間。
「それが数百、数千と連なっていたら」
空気が、静かに重くなる。
シグレが続ける。
(合図一つで、全員が同時に動く)
声音は穏やかなままだ。
だからこそ、その想像は余計に冷たく響いた。
(躊躇も迷いもなく、ね)
アナは息を呑む。
「……止められない」
「戦闘の規模は、昨日の比じゃないな」
ユキは淡々と言う。
「そうして戦争は引き起こされる」
救いのために生まれた力は、やがて勝利の札として数えられる。
奪われ、奪い返され、疑いがまた次の疑いを呼ぶ。
火は広がり、誰も止め方を知らないまま燃え移っていく。
アナはしばらく黙り込み、やがて小さく言う。
「でも……セラさんは」
「セラは、夫婦を救うために作っただけだ」
ユキは迷わず断言した。
遠い昔の記憶のはずなのに、その言葉だけは揺らがない。
シグレも静かに言う。
(セラは、目の前の二人をただ歩かせたかっただけ)
(身体の動かない夫と、その隣に立ち続けた妻のためにね)
やわらかな声だった。
(でも力は広がる。持ち主の手を越えていく)
アナはゆっくりと息を吐く。
「元は……優しいだけの魔装だったんですね」
「ああ」
ユキは短く頷く。
そして、少しの間を置いて言った。
「トモエで四つ目だ」
アナの足が止まる。
「……え?」
「俺たちは、既に三つ壊している」
事実だけを置く声音だ。
「残りは八つだ」
朝靄の中で、その数字だけが妙にはっきりと響いた。
アナは何も言えない。
やがて森が途切れ、街道が開ける。
道の脇には、森へ入る前に預けておいた馬車が静かに待っていた。
御者はこちらに気づくと、軽く顎を上げる。
「お早いお着きで」
「ああ」
それ以上の言葉は交わさない。
アナが荷台へ乗り込み、木枠に手を添えて腰を下ろす。
ユキも続き、やがて車輪がゆっくりと回り始めた。
森が後方へ流れていく。
朝日が揺れに合わせて差し込み、三つの影を長く引き伸ばした。
しばらく、誰も口を開かなかった。
昨夜の夜気も、糸の感触も、壊れる音も、まだ身体の奥に残っている。
馬車の軋みだけが、その沈黙をゆっくり運んでいく。
「……八つですか、」
揺れに紛れるような、小さな声だった。
ユキは窓の外を見たまま答えない。
壊した数。
残っている数。
どちらも変わらない事実として、そこにある。
シグレが静かに言った。
(あと八つ、ね)
ほんのわずかな間。
(ちゃんと最後まで壊すんだよ)
「分かってる」
返答は短い。
だがそれは、迷いを押し込めるようでもあり、すでに決めきっている者の声でもあった。
馬車は一定の速度で町へ向かう。
森の気配は遠ざかり、代わりに人の営みの音が少しずつ混じり始めた。
遠くの話し声。
家畜の鳴き声。
朝の生活が目を覚ます気配。
終わりは、まだ遠い。




