第16話 朝の匂い
夜がほどけるように、森の色がゆっくりと変わっていった。
濃い紺だった空は次第に薄まり、木々の輪郭が朝の光に縁取られていく。湿った土と露の冷たさが、昨夜の緊張を静かに洗い流していた。
黒界千刃はすでに消えている。
地に横たわっていた村人たちは、やがてひとり、またひとりと目を覚まし始めた。互いの顔を見て、無事を確かめ、戸惑いながらも立ち上がる。
身体に傷はない。
ただ、何かに縛られていた感覚だけが、曖昧に残っている。
青年はその場に座り込んだまま、動かなかった。
女性はアナに支えられ、静かに呼吸を続けている。瞳は開いているが、言葉はない。焦点はまだ定まらず、ただ生きているという事実だけがそこにあった。
青年はそっと彼女の手を握る。
昨夜のように強くはない。
確かめるように、包むだけだ。
ゆっくりと、彼女の身体を起こす。
無理に立たせない。
急がせない。
時間をかけて、重さを受け止める。
今度は操られてではなく、ただ支えるために。
その様子を、アナは少し離れた場所から見つめていた。
胸の奥に、じんわりとした熱が残っている。
壊したはずなのに、終わったわけではない。
失われたものは確かにある。
それでも、残ったものもある。
「……不思議ですね」
思わず、呟く。
ユキは荷をまとめながら、視線を上げない。
「何がだ」
「壊したのに、終わった感じがしません」
ユキは少しだけ手を止め、それからまた紐を締めた。
「終わらせただけだ」
それ以上は言わない。
アナは、そっと横顔を見る。
昨夜のことを思い出す。
刃が振り下ろされた瞬間。
光がほどけた瞬間。
そして――
頬を伝った、あの一筋。
「……」
見間違いだったのかもしれない。
夜露が光っただけかもしれない。
そう思えば、それで済む。
それでも、胸のどこかで確かに思う。
この人は、壊すために旅をしている。
でもきっと、一番壊したくないのはこの人自身なのだと。
「行くぞ」
短い声。
ユキはもう歩き出している。
青年は振り返らない。
引き止めもしない。
ただ、深く頭を下げた。
ユキは足を止めなかった。
アナだけが、小さく会釈を返す。
森を抜けると、朝日が差し込んだ。
柔らかな光が大地を包み込み、昨夜の出来事が遠い夢のように感じられる。
しばらく無言で歩いたあと、刀の中から小さな声が響いた。
(……疲れた?)
「少しな」
(嘘)
ユキは小さく鼻を鳴らす。
「うるさい」
(泣いてたくせに)
「泣いてない」
アナがきょとんと振り向く。
「え?」
「なんでもない」
ユキは即答する。
シグレがくすりと笑う気配がした。
(ちゃんと終わらせたね)
「……ああ」
それだけは、否定しない。
風が吹く。
今度は、ただの朝の匂いだ。
二人の影が、長く伸びる。
壊したものは、確かにあった。
それでも、残ったものはある。
そして、まだ壊していないものがある。
ユキは歩く。
次の置き土産へ向かって。




