十一月のアイスキャンディー
黒磯駅前のロータリーに、季節を間違えたような屋台が出ていた。
銀色の保冷箱。
木の棒を束ねた古い筒。
赤いのぼり。
そこには太い筆文字で、こう書かれていた。
手作りアイスキャンディー
十一月の風が、のぼりをぱたぱたと揺らしている。
琴美は足を止めた。
そして、口には出さず、心の中でだけ静かにつぶやいた。
――十一月だぞ……。
真平はその横顔を見て、首をかしげた。
「どうした、琴美。昭和っぽいぞ」
「……今は図書館が先よ」
「お前が昭和を後回しにした?」
真平が本気で驚いた顔をすると、琴美はぷいと顔をそむけた。
「巫鈴ちゃんの用事が先。文化人として当然でしょ」
前を歩いていた巫鈴が、振り返らずに言った。
「お兄ちゃん、琴美さん。置いていきますよ」
「はいはい」
真平は返事をしながら、もう一度だけ屋台を振り返った。
十一月のアイスキャンディー。
どう考えても変だった。
だが、変なものほど、あとで面倒なことになる。
真平は経験上、それをよく知っていた。
那須塩原図書館は、駅前の喧騒から少しだけ切り離されたような静けさを保っていた。
巫鈴は慣れた足取りでカウンターへ向かい、予約していた資料を受け取る。分厚い本が三冊。さらに郷土資料の棚から数冊を抜き出し、内容を確認していく。
真平はその後ろで、完全に荷物持ちの顔になっていた。
「巫鈴、これ全部借りるのか?」
「はい」
「重いぞ」
「お兄ちゃんがいます」
「俺は図書館の台車じゃないんだが」
巫鈴は平然とページをめくった。
「お兄ちゃんには得意分野があります」
「それ、褒めてるようで雑用認定してるよな」
一方、琴美は郷土資料コーナーの端で、古い観光パンフレットを見つけて目を輝かせていた。
「見て真平! 昔の那須塩原温泉のパンフレット! この色使い、完全に昭和よ!」
「お前、さっき昭和を一回スルーしたくせに」
「それはそれ、これはこれ」
巫鈴が横目で琴美を見た。
「琴美さん、さっきの屋台が気になっているでしょう」
琴美の肩がぴくりと動いた。
「べ、別に」
「琴美さんが『昭和食堂』と書かれたのぼりを見て素通りする確率は、かなり低いです」
「巫鈴ちゃん、私を統計で追い詰めないで」
真平は本を抱えながらため息をついた。
「妹よ、兄の友人をデータで刺すな」
「事実です」
巫鈴は淡々と資料を閉じた。
「用事は終わりました。帰りましょう」
琴美は何でもない顔をしようとした。
「そ、そうね。帰りましょうか」
だが、その足取りは明らかに駅前ロータリーの方へ向いていた。
真平は小さく笑った。
「やっぱ気になってんじゃねえか」
「うるさい」
図書館を出て、三人は再び黒磯駅前へ戻った。
そして、足を止めた。
さっきは誰もいなかった屋台の前に、学生の列ができていた。
「ミルク二本!」
「あずきまだあります?」
「ソーダください!」
「え、百円? 安っ!」
「俺、みかん!」
「寒いけど逆にうまそうじゃね?」
帰りの電車を待つ学生たちが、屋台の周りで笑っている。
黒い学生鞄を肩にかけた男子。
マフラーを巻いた女子。
部活帰りらしいジャージ姿の中学生。
皆、白い息を吐きながら、アイスキャンディーを受け取っていた。
琴美は固まった。
「……売れてる」
真平も目を丸くした。
「めちゃくちゃ売れてるな」
巫鈴は値札を見た。
厚紙に、黒いマジックで大きく書かれている。
アイスキャンディー
一本百円
琴美が小さく息を呑んだ。
「……百円」
真平は思わず財布に手を伸ばしかけた。
「これは買うな。寒くても買う」
「でしょうね」
巫鈴は列を眺めながら、静かに言った。
「二百円なら迷います。でも百円なら、話題料として払える。特に電車待ちの学生にはちょうどいい金額です」
「話題料?」
琴美が聞き返す。
巫鈴は、アイスを受け取って笑っている学生たちを指さした。
「彼らはアイスだけを買っているわけではありません。『十一月に駅前でアイスを食べた』という、友達との小さな出来事を買っています」
その言葉に、屋台の奥でアイスを渡していた男が、にやりと笑った。
白い割烹着。
ねじり鉢巻き。
日に焼けた顔。
年齢は五十代半ばくらいだろうか。声は大きく、手つきは早い。
「嬢ちゃん、賢いな」
巫鈴は軽く会釈した。
「観察しただけです」
「観察できるやつは強ぇよ」
男は保冷箱からミルク味のアイスを取り出し、男子学生に渡した。
「はいよ、ミルク二本。二百円」
「安っ。ありがとうございます」
「寒いうちに食えよ」
「いや、もともと寒いっす」
「だからうまいんだよ」
男子学生たちは笑いながら去っていった。
琴美は、まだ納得しきれていない顔で屋台を見つめていた。
「あの……」
「ん?」
「どうして十一月にアイスなんですか?」
男は琴美を見て、楽しそうに笑った。
「お嬢ちゃん、アイスは夏だけのもんだと思ってるのかい」
「普通はそうじゃないですか」
「普通はな」
男は保冷箱の蓋を閉め、腕を組んだ。
「だから売れるんだよ」
「え?」
「十一月にアイス屋台なんて、普通は出ねえ。だから目立つ。目立てば足が止まる。足が止まれば、値段を見る。百円なら買う」
真平が思わずうなずいた。
「なるほど……」
琴美は悔しそうに眉を寄せた。
「でも、寒いですよ」
「寒いからいいんだよ」
男は駅の方を見た。
「学生ってのはな、電車待ちの十五分がいちばん暇なんだ。腹も少し減ってる。友達と喋ってる。そこに百円のアイスがあれば、誰か一人が買う。そしたら隣のやつも買う」
巫鈴が静かに続けた。
「同調消費ですね」
「難しい言葉は知らねえ。でも、そういうこった」
男は笑った。
「ひとりから二百円取るより、三人が百円ずつ出す方が、屋台の前は賑やかになる」
琴美の目が少し変わった。
「三人が……百円ずつ……」
「大儲けはできねえよ。でもな、学生が帰り道に笑いながら買える値段ってのは、百円なんだよ」
男は、古びた木の棒を一本つまんだ。
「百円ってのはな、財布から出す金じゃねえ。友達と笑うために、ポケットから落とせる金なんだよ」
琴美は黙った。
真平も黙った。
巫鈴だけが、少しだけ目を細めた。
「かなり合理的です」
男は笑った。
「嬢ちゃんは冷静だな」
「事実を言っただけです」
琴美は、屋台の値札をじっと見つめていた。
十一月。
寒い風。
百円のアイス。
電車を待つ学生たちの笑い声。
それは、彼女が思い描く華やかな昭和とは少し違っていた。
もっと地味で。
もっと図太くて。
もっと生活に近いものだった。
「……一本ください」
琴美が言った。
「味は?」
「ミルクで」
「あいよ。昭和食堂名物、冬ミルク」
「冬ミルク……!」
琴美の目が輝いた。
真平がすかさず突っ込む。
「ネーミングだけで寒い」
「お兄ちゃん、私はあずきで」
「俺に買わせる前提か」
「付き添いですから」
「付き添いの意味、広すぎないか」
結局、真平は自分の分も含めて三本買った。
琴美はミルク。
巫鈴はあずき。
真平はみかん。
三人はロータリーの端に立ち、アイスキャンディーをかじった。
冷たい。
当然だ。
十一月の風の中で食べているのだから、冷たさが余計に身にしみる。
だが、甘かった。
安っぽいのに、妙に懐かしい。
ミルクは素朴で、あずきは少し硬く、みかんはどこか駄菓子めいた味がした。
琴美は悔しそうに言った。
「……おいしい」
真平は笑った。
「負けを認めた顔してる」
「負けてない」
巫鈴があずきをかじりながら言った。
「琴美さんは、昭和を愛しているわりに、昭和の商売人の図太さを過小評価していましたね」
「うっ」
「昭和は雰囲気だけではありません。安さ、立地、時間帯、客層。かなり実戦的です」
「巫鈴ちゃん、アイス屋台を経済学の教材にしないで」
真平はみかん味をかじりながら、屋台を見た。
次の電車まで、まだ少し時間があるらしい。
学生たちは屋台の前で笑っていた。
寒い寒いと言いながら、それでもアイスを食べていた。
男は休む間もなく、百円玉を受け取り、アイスを渡している。
「でもさ」
真平はぽつりと言った。
「なんか、わかるな」
「何が?」
琴美が聞く。
「電車来るまでの時間って、微妙に暇なんだよ。コンビニ行くほどでもない。座るほどでもない。でも、何かしたい。そこに百円のアイスがあったら、まあ買うよな」
巫鈴がうなずいた。
「短い空白時間に入り込む商売です」
「お前が言うと途端に難しくなるな」
「お兄ちゃんが感覚で済ませすぎなんです」
琴美は、ミルクアイスをもう一口かじった。
そして、ふっと笑った。
「電車を待ってる時間を、ちょっと楽しくする……」
屋台の男が、ちょうど近くを通りかかりながら言った。
「そういうこった。寒い日にアイスを売ってるんじゃねえ。電車を待ってる時間を、ちょっと楽しくしてんだよ」
琴美は完全に黙った。
その顔を見て、真平はにやりとする。
「琴美、今かなり感動してるだろ」
「してない」
「いや、してる顔だ」
「してない!」
巫鈴は淡々と言った。
「今回は琴美さんの負けですね」
「何に!?」
「十一月のアイスキャンディーに」
琴美は反論しようとして、言葉に詰まった。
そして、小さくアイスをかじった。
「……昭和、深い」
真平は吹き出した。
「都合よく昭和に回収するな」
琴美は胸を張った。
「決めたわ」
「嫌な予感しかしない」
「日ノ本文化部でも、冬アイス企画をやる!」
「やめろ」
巫鈴が即座に言った。
「食品販売には許可が必要です」
「じゃあ試食会!」
「お前の試食会は、だいたい誰かが倒れる」
「今度は倒れないわよ!」
「その根拠のない自信、どこで売ってるんだ」
琴美は屋台の方を振り返った。
「場所、時間、客、値段……。四つ揃って初めて売れるのね」
真平は少し驚いた。
「珍しくちゃんと学んでる」
巫鈴も小さくうなずいた。
「今日の図書館より、こちらのほうが収穫だったかもしれません」
「巫鈴ちゃん、それは図書館に失礼じゃない?」
「知識は本からだけ得るものではありません」
琴美は最後の一口をかじった。
冷たさで少し肩をすくめる。
けれど、その顔はどこか楽しそうだった。
「十一月のアイス……奥が深いわね」
真平は空を見上げた。
夕方の黒磯駅前に、冷たい風が吹いた。
ロータリーでは、まだ学生たちが笑っている。
百円玉が屋台の箱に落ちる音がした。
琴美はそれを聞いて、ぽつりと言った。
「これが昭和魂……」
真平はすかさず言った。
「いや、たぶん商売魂だ」
巫鈴が静かに補足した。
「少なくとも、琴美さんの昭和魂よりは実用的です」
「巫鈴ちゃん!?」
琴美の声が、黒磯駅前のロータリーに響いた。
その横で、屋台の男が豪快に笑っていた。
十一月のアイスキャンディーは、まだしばらく売れ続けそうだった。




