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客の顔が、メニューです

 その日の夕方。

 磯貝亭。

 鉄板の熱とソースの匂いが、いつもの日常を作っていた。

 店の奥で大吾が腕を組んでいる。豪快な体格、職人気質の眼。

 沙羅がカウンター越しに言った。

「父さん、ちょっと聞きたい」

「なんだ沙羅。焼き方なら今教えてやるぞ」

「焼き方じゃない。……黒磯の、あの昭和食堂」

 大吾の手が一瞬だけ止まった。

 ほんの一瞬。だが、沙羅は見逃さない。

「……知ってるの?」

 大吾はフッと鼻で笑った。

「お前ら、行ったのか」

 真平が小さく言う。

「行きました。火曜水曜限定でした。ビーフシチューは……峠の釜めし器でした」

「だろ」

 大吾は当然のように言う。

 琴美が前のめりになる。

「でも、ありえないんです!週二営業なのに、全部がちゃんと美味しくて!しかも、テレビの下に1982年のジャンプがあって!」

 大吾は鉄板にヘラを置き、腕を組み直した。

 そして、まるで当たり前の話をするみたいに言った。

「あの店のご主人はな――」

 全員、息を止めた。

「あの辺一帯の大地主だ」

「……は?」

 琴美の声が抜けた。

 大吾は続ける。

「食堂はな、ご夫婦の道楽みたいなもんだ」

「道楽……?」

 真平がゆっくり復唱する。

「そうだ。金がある。時間もある。だから、採算じゃなくて、気分でやってる」

 沙羅の眉がピクリと動く。

「……じゃあ、あのビーフシチューも」

「ああ。趣味だな。峠の釜めし器で出すのもな」

 萌香が震え声で言う。

「趣味で……釜めし器……?」

「昔ホテルで洋食やってたって話もある」

 大吾はさらっと言う。

 九人の脳内で、昨日の香りが蘇る。

 欧州貴族の気配が、現実になった。

 琴美が呟く。

「道楽の本気……」

 勇馬が真顔で言う。

「最も怖いタイプです。好きでやってる」

 巫鈴が静かに結論を落とす。

「つまり。週二営業は、怠惰ではなく、最適化です」

 ズーハンが笑う。

「GG。金持ちの道楽、最強」

 シャオが泣きそうに言う。

「パォ……金持ちって、逃げ場ない……強すぎ……」

 美優がにこにこして言う。

「でも……素敵ですね。好きなことを、ちゃんとやってるって」

 その言葉だけが、やけに温かかった。

 沙羅は腕を組んだまま、父親を見る。

「……でも、なんでそんな人が昭和食堂やってるの?」

 大吾は少しだけ目を細めた。

 職人が、同業の異物を評するときの目。

「さあな。ただ――」

 大吾の声が落ちる。

 鉄板のパチパチだけが、やけに大きく聞こえた。

「あの店は、料理で遊んでる。しかも、遊び方が真面目なんだよ」

 真平が低い声で言った。

「最悪……やっぱり反則じゃん……」

 琴美がガッツポーズをする。

「よし!勝てない理由が分かった!勝てないなら――通う!」

「お前、学習しろ」

 沙羅が即ツッコむ。

 萌香がスマホを握りしめる。

「道楽の大地主がやる昭和食堂……タイトルだけで伸びる……」

 巫鈴が淡々と言う。

「撮影は許可を得てください」

「巫鈴、そこだけ現代法治国家」

 真平がぼそっと言う。

 大吾は最後に、面倒くさそうに一言だけ足した。

「ただし、行くならマナー守れ。道楽でも店は店だ」

 沙羅が小さく頷く。

「……分かった」

 琴美も真面目に頷いた。

「うん。昭和に礼を尽くす」

 真平が心の中で呟く。

(礼を尽くす相手が昭和って何だよ)

 ――一度、話が収束しかけた。

 なるほど、そういう店だったのかと、納得の形に落ちかけた。

 そのときだった。

 大吾が、へらを置いた。

 言うか言わないか、迷う間みたいな沈黙。

 職人が余計な情報を足す時の沈黙。

 沙羅が気づく。

「……父さん。まだ何かあるでしょ」

 大吾は面倒くさそうに鼻で笑った。

「ただな」

 全員が自然に黙った。

 この人がただなと言う時は、だいたい本質が来る。

「店主の趣味は、料理じゃねぇ」

 琴美が固まる。

「……え」

 真平の喉が鳴った。

「……まさか」

 大吾は鉄板の向こうを見ながら続ける。

 遠い昔から知ってるあの夫婦を思い出すみたいに。

「客の反応だ」

 一瞬、磯貝亭の空気が止まった。

 萌香が小声で言った。

「……え、反応……?」

 巫鈴が静かに言う。

「観測者、逆転……」

 勇馬が真面目に呟く。

「……料理は手段。反応が目的」

 シャオが震え声で言う。

「パォ……最悪……」

 ズーハンが乾いた笑いを漏らす。

「なるほど。煽り性能、MAX」

 美優だけが、困ったように笑った。

「えへへ……それ、ちょっと意地悪ですね~」

 沙羅が父を見る。

「……つまり?」

 大吾は短く言った。

「わざとだよ。ラーメンの隣にビーフシチュー置くのも、峠の釜めし器で出すのも、給食のスプーンで出すのも、食後にちゃんとしたコーヒー出すのも」

 大吾の口元が、ほんの少しだけ上がった。

「客がズコッってなる顔が好きなんだ」

 ――九人、完全に黙った。

 昨日の審判の目が、脳裏に浮かぶ。

 感情のない顔で「人気だよ」と言う、あの声。

 あれは冷たさじゃない。

 慣れでもない。

 見てたんだ。最初から。

 真平が、胃の奥から声を絞り出す。

「……最悪だな……」

 琴美が震える声で言った。

「……昭和、怖い……」

 沙羅が呆れたように笑う。

「……道楽の上に、趣味が悪いって最悪じゃん」

 勇馬が妙に感心した顔で頷く。

「完成されたエンタメです」

 萌香はスマホを見つめて、ゆっくり言った。

「……動画にしたら、怒られるやつだ」

 巫鈴が淡々と結論を出す。

「こちらは、実験材料です」

 ズーハンが肩をすくめる。

「了解。俺たち、釣られてる」

 シャオは泣きそうに言う。

「パォ……もう行かない……」

 美優が、優しく言った。

「……でも、また行きたくなっちゃうんですよね~」

 その一言が、全員の胸に刺さった。

 悔しいのに、否定できない。

 真平は最後の抵抗を口にする。

「……次は、やられない」

 琴美が即答する。

「やられるよ」

「言い切るな」

 沙羅が肩をすくめた。

「どうせまた火曜か水曜に集まって、九人でズコるんでしょ」

 大吾は鉄板に戻り、何でもない声で言った。

「そういうことだ。……腹が減ったら、いつでも来い。磯貝亭にもな」

 沙羅が小さく頷く。

「うん」

 九人は店を出た。

 外の風は現代の匂いだった。

 車の音。遠くのコンビニ。看板のLED。

 でも――頭の中だけは、まだあの店の湯気の中にいた。

 峠の釜めしの熱と、テレビの下の1982年が、しつこく残っている。

 琴美が歩きながら言う。

「ねえ真平。次、何でズコらされると思う?」

 真平は嫌な未来を想像して顔をしかめる。

 そして、負けた声で言った。

「……こっちの顔、見てから決めてくる」

 琴美がニヤッとする。

「最悪」

 沙羅も笑った。

「最悪だね」

 美優が楽しそうに言った。

「えへへ……でも、ちょっと楽しみです~」

 その瞬間、全員が思った。

――火曜か水曜が、少し怖い。

そして少し、楽しみだった。


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