豆ダッシュ、襲来
放課後の那須塩原学園は、音がほどける。
廊下の反響が弱くなり、遠くの運動部の掛け声だけが、薄い膜みたいに残る。
文化棟の端、日ノ本文化部の部室のドアは、開ける前から分かる。
中で誰かが、すでにやっている。
「――見て! これよこれ!」
琴美の声。
真平は、今日という一日が終わるはずだった予定表を、心の中で静かに破った。
ドアを開ける。
室内の机が寄せられ、床に段ボール。
その上に、やたら大きいプルバックカーが鎮座していた。
金属の光り方が、妙に古い。新品の艶じゃない。時間の艶だ。
沙羅が腕を組んでいる。
勇馬は目を細めて品定め中。
美優は端っこでお茶を淹れていて、シャオは目を丸くしている。
巫鈴は椅子に座ってノートを開いたまま、ただ眺めていた。
「おかえり、真平。いいとこよ」
琴美が振り向く。緋色の髪が揺れて、本人だけが勝ちを確信している顔。
「いいとこって何」
「昭和が届いたの!」
琴美は言い切り、段ボールを叩いた。
どう見ても、誰かが倉庫の奥から引っ張り出してきた古い物だ。
「それ、どこから」
真平が聞くと、沙羅が淡々と答えた。
「旧校舎の元倉庫。『整理対象』の山。琴美が勝手に救出した」
「救出って言い方がもう怪しいんだけど」
琴美は気にしない。
「だってさ、廃棄よ? 昭和が廃棄されるの、許せないでしょ」
「昭和を生き物扱いするな」
真平が言うと、勇馬が静かに補足した。
「でも、あながち間違いじゃないです。文化は捨てれば死にますから」
「お前まで乗るな」
萌香がいないのが惜しい。
この瞬間にいれば、必ず雑な一言で状況を崩してくれたのに。
代わりにシャオが、プルバックカーを覗き込む。
「パォ……これ、かわいい。走るの?」
「走るわよ!」
琴美が即答する。
「これで昭和の遊びを再現するの。今の子どもたちってさ、痛みが足りないじゃない?」
「やめろ。何を言ってる」
真平は反射で止めたが、琴美はさらに笑う。
「保健室のお世話になるのが青春でしょ? 昭和は、そういう教育よ」
「教育の意味を辞書で引け」
沙羅が眉間に皺を寄せる。
勇馬は真顔で頷いた。
「痛みは学習装置です」
「お前も辞書引け」
勇馬はプルバックカーの側面を指で撫でる。
「……これは豆ダッシュですね」
「え、チョロQじゃないの?」
沙羅が眉をひそめる。
勇馬は少し誇らしげに言った。
「チョロQは軽い。豆ダッシュは鉄。質量がある。つまり――」
「つまり?」
美優が湯呑みを持ったまま、きょとんとする。
「当たると痛い」
勇馬は淡々と言った。
沈黙が一秒。
その沈黙の中で、真平だけが確信していた。
今日、誰かが必ず怪我をする。
「じゃ、試走いくわよ!」
琴美が床に置いた。
金属が床に触れる音が、いやに重い。
「待て待て待て」
真平が前に出る。
「大丈夫。安全確認はしたわ」
「お前の安全確認、信用ならないんだよ」
沙羅が一歩前に出て、床を見た。
「椅子の脚、机の角、カバン。障害物だらけ。やるなら片付けてから」
琴美は唇を尖らせた。
「片付けたら昭和の雑さがなくなるじゃない」
「昭和の雑さを美化するな」
真平が言い切る前に、シャオが挙手した。
「パォ! 私、カバー行く!」
「その言い方、どこで覚えた」
真平が聞くと、シャオは胸を張る。
「ズーハン。右入る、って言ってた!」
「右入るってなんなんだよ……」
琴美がニヤッと笑った。
「ほら、今の子は遊びにもスポーツ用語を使う。昭和と融合。最高!」
巫鈴がノートにさらさら書く。
口は開かないが、ペンだけは止まらない。
琴美は構えた。
「よーし。三、二――」
「待て!」
真平が叫ぶ。
しかし琴美は止まらない。
「一!」
バチン、と手が離れる。
豆ダッシュは低い音を鳴らしながら走り出した。
速度が速い。質量があるから、音が重い。
小さな玩具のはずなのに、鉄の塊として来る。
「……速っ」
沙羅が思わず呟いた瞬間。
豆ダッシュは椅子の脚に当たって跳ねた。
跳ねた角度が、最悪だった。
「真平、避け――」
沙羅の声は途中で切れた。
真平の足に、鉄の塊が突っ込む。
ガツン、と鈍い音。
一瞬、声が出ない。
次の瞬間、遅れて痛みが追いついてきて、呼吸が詰まった。
「っっっ……痛ぁ!!」
真平は片足で跳ね、床に座り込む。
足首の辺りが、熱い。熱いのに、冷たい。
痛みってこんなに理不尽だったか、と変に冷静になる。
琴美は両手で口を押さえ――次の瞬間、目を輝かせた。
「すごい! これが昭和!」
「感動してる場合じゃないだろ」
沙羅が冷たく言う。
勇馬が頷く。
「言った通りです」
「お前も反省しろ」
真平は足を押さえたまま呻く。
美優が慌てて立ち上がり、鞄を探る。
「えっと……えっと……絆創膏……」
シャオがオロオロしながら、豆ダッシュを拾い上げる。
「パォ……ごめん……私、カバー失敗……」
「お前は悪くない。全員悪い」
真平は言った。
沙羅が即答する。
「琴美が七割」
「え、ちょっと!」
「八割」
「増えた!」
巫鈴が静かに口を開いた。
「結論。危険物の管理責任者を定めるべきです」
「危険物って言うなよ」
巫鈴は目も動かさない。
「鉄の玩具は危険物です。定義上、質量がある」
「定義って便利だな」
巫鈴はさらに書き足す。
「それと、活動計画書に負傷リスクを追記するべきです」
琴美が胸を張る。
「ね? こうやって学びが生まれるのよ!」
「お前の学び方、毎回誰かが犠牲になるんだよ」
沙羅が言う。
美優が真平の前にしゃがんで、そっと絆創膏を差し出した。
「大丈夫ですか……? 痛いの……飛んでいけ、って……言っても、飛ばないですよね……」
「飛ばない」
真平は小さく笑った。
笑うと痛い。なぜ笑う。
「でも……まあ、いつものことか」
琴美がキラキラした目で言った。
「よし! 決めた! 明日は昭和救急箱を作るわよ!」
真平の顔から笑いが消える。
「……原因がお前なのに、対策だけ作るな」
沙羅がため息。
「それ、学校の改革と同じ構造だよね」
「沙羅、それ言うと巫鈴が燃える」
真平が言う。
巫鈴は、すでにノートに新しい項目を書いていた。
「事故は制度の穴から生まれる」
勇馬が豆ダッシュを撫でながら、ぽつりと言った。
「……昭和は、強いですね」
「強いっていうか、硬いんだよ」
真平が言う。
琴美は満足げに頷いた。
「硬い。痛い。だから忘れない。これが昭和魂よ!」
シャオが元気よく拳を上げた。
「パォ! 明日、救急箱! 私、包帯係やる!」
「包帯係って何だよ」
美優がふわっと笑う。
「でも……楽しそうですね~」
部室の外では、夕暮れの音がさらに薄くなっていく。
そして琴美は、もう次の段ボールのガムテープに指をかけていた。
真平はそれを見て、痛む足を押さえたまま思った。
――明日の救急箱、まず必要なのは消毒じゃない。
部長を止めるための、誰かの手錠だ。




