営業日:火曜と水曜
昨日の団体戦の余韻が、部室の空気にまだ残っていた。
机の上にはプリント、ノート、そして――昨夜から琴美の脳内を占拠している固いプリンの幻影。
ついでに、釜めし器の底に残ったデミグラスの艶まで、ありありと浮かんでいる。
「……よし。今日こそ決着をつける」
琴美が謎に闘志を燃やしていた。
昭和食堂と戦うな。
沙羅が冷たく言う。
「昨日の時点で全員負けてるけどね」
真平はため息をつく。
「プリンは追撃だぞ。追撃してくる店に行くな」
美優はにこにこ。
「えへへ……でも、固いプリンって、いいですよね~」
勇馬が眼鏡を押し上げる。
「確認しないと落ち着きません。固さの度合い、カラメルの苦味、銀皿の温度……」
「お前も義務側に堕ちたな」
真平が小声で言った。
そこへ、遅れて部室の戸が開いた。
「真平ちゃん、昨日変な店行ったんだって?」
――萌香。
スマホ片手、好奇心100%、トラブル100%。
その後ろに、静かに入ってくる影。
伊勢野巫鈴。
今日も背筋が真っ直ぐで、目が冷たい。世界を採点している目。
そして最後に、ガバッと入ってきた少年。
「よっしゃ!昭和食堂?任せて。現地検証する。ワンチャン当たり引く」
ズーハン。
短め直球、eスポーツ脳、テンションは常に開幕。
萌香が腕を組んで言った。
「で?昭和食堂でビーフシチューって何それ。盛ってるでしょ」
琴美が即答する。
「盛ってない。むしろ現実が盛ってきた」
ズーハンが笑う。
「GG。そういうの好き。動画回るやつじゃん」
萌香はもうカメラアプリを開きかけていた。
「ね、行こ行こ!店の外観から撮りたい!」
巫鈴が淡々と言う。
「……結論。真偽は観測で確定します。行きましょう」
真平が頭を抱える。
「巫鈴まで、こういう時だけノリいいのやめろ……」
沙羅が立ち上がる。
「どうせ止めても行くでしょ。なら監督する」
美優が笑う。
「えへへ、みんなで行くの、遠足みたいですね~」
こうして、昨日いなかった三人を伴い、
日ノ本文化部・第二次出撃が決定した。
黒磯の道を歩く。
琴美が先頭。
真平はその横で、嫌な未来を想像している顔。
沙羅は最後尾で全員の暴走を警戒。
勇馬は周囲の建物の古さを観察。
美優は鼻歌。
萌香は撮影モード。
巫鈴は無言の観測者。
ズーハンはワンチャンを連呼。
そして――角を曲がった。
あるはずの場所。
油で曇ったガラス戸。
色褪せた暖簾。
看板の文字。
……ない。
そこにあったのは、低い建物の正面に下りた灰色のシャッターだけだった。
赤い錆の筋が、縦に一本。貼り紙はない。営業終了の札もない。
ただ、閉まっている。
琴美が止まった。
真平も止まった。
全員が、まるで見えてはいけないものを見たみたいに止まった。
萌香が最初に声を出す。
「……え?ここ?」
琴美が、ゆっくり頷く。
「……ここ」
ズーハンがシャッターに近づいて、叩く寸前で止まる。
「マジ?昨日やってたんだよな?」
沙羅が眉をひそめる。
「閉店じゃない閉まり方。……急に消えた感じ」
勇馬が下を覗き込む。
「中、暗い。電気はついてない」
美優が小さく言った。
「昨日の匂い、すごかったのに……」
巫鈴だけが、静かに周囲を見る。
左右の店、道路、電柱、看板。誤差を探す目。
そして、短く結論を落とした。
「……存在条件が、安定していません」
萌香が即ツッコむ。
「何それ怖いこと言うのやめて!」
真平が低い声で言った。
「逃げたとか言うな。昭和は……消える」
ズーハンが笑いながらも声がちょい硬い。
「レア湧きだろ。出現条件あるやつ」
沙羅が嫌そうに言う。
「ゲーム用語で説明するな。リアルで起きてる」
萌香はスマホを構えたまま、急に声が小さくなる。
「……ねえ、これ撮っていい?なんか撮ったらまずいやつ?」
巫鈴が即答する。
「撮影は自由です。結果は責任を伴います」
「怖い!」
萌香が反射でスマホを下ろした。
琴美がシャッターを見つめたまま、拳を握る。
「……私たち、昨日勝ったと思ってた。違う。
あの店に、行かせてもらってただけだったんだ」
真平が乾いた笑いを漏らす。
「最悪の気づきだな」
美優がぽつりと言う。
「……でも、また食べたいですね。ビーフシチュー」
その一言が、静かな空気を揺らした。
全員が、同時に思った。
(――また、来る)
巫鈴が淡々と付け足す。
「……次の観測は、条件を変えるべきです。
昨日と同じでは、同じ結果は得られません」
沙羅が顔をしかめる。
「つまり、昭和食堂の出現条件を探れってこと?」
巫鈴は静かに頷く。
「はい。……これは実験です」
ズーハンがニヤッとする。
「GG。イベント発生。やるしかない」
真平は頭を抱えた。
「やるな。イベント起こすな。俺の胃が死ぬ」
琴美が振り返って笑う。
「――よし。昭和食堂、追跡開始よ!」
翌週。
日ノ本文化部は、もう一度現場に集結した。
今度は万全だ。人数も、気合いも、胃袋も。
琴美、真平、沙羅、勇馬、美優、シャオ。
そして追加メンバー――萌香、巫鈴、ズーハン。計九人。
「今日は全員で確認する」
琴美が宣言した。
真平が低く言う。
「確認って言葉を便利に使うな……」
巫鈴が淡々と補足する。
「再現性の確認です。科学的です」
沙羅が即ツッコむ。
「どこが科学だよ」
萌香はスマホを構える。
「今日は絶対撮る。伝説の短冊、撮る」
ズーハンがうなずく。
「ナイス。証拠残そう。ワンチャン、プリンも撮れる」
シャオは青い顔で歩いていた。
「パォ……また出るの……?」
美優だけが相変わらずにこにこ。
「えへへ……遠足みたいですね~」
そして角を曲がった。
そこに――あった。
油で曇ったガラス戸。
色褪せた暖簾。
看板の文字。
九人、同時に止まった。
琴美が震える声で言う。
「……ほら。嘘じゃなかった」
真平が呻く。
「出たり消えたりすんな……」
沙羅が目を細める。
「……腹立つな。店がこっちの反応見てる感じがする」
勇馬は看板を見て真顔で言った。
「塗装の劣化具合が……昨日より自然です。時間の流れが不連続」
「怖いことを理屈で言うな」
真平が止める。
萌香が興奮する。
「うわー!撮れる撮れる!この感じ、絶対バズる!」
シャオが泣きそうに言う。
「パォ……バズらせるな……呪われる……」
巫鈴が静かに言った。
「入店します。観測開始」
ズーハンが拳を握る。
「よっしゃ。開幕。GG」
琴美がガラス戸を押した瞬間、空気が一段、昔に戻った。
――湯気と油。
――傾いた床と時計。
――テレビは再放送。
――短冊メニュー、壁一面。
そして、あった。
「ビーフシチュー」
萌香が叫ぶ。
「ほんとにある!!」
沙羅が静かに言う。
「最悪……ほんとにある……」
ズーハンが笑う。
「ワンチャンじゃなくて確定湧きじゃん」
シャオが小さく鳴く。
「パォ……」
美優が感動している。
「わぁ……」
その瞬間、奥から声。
「いらっしゃい!決まりましたぁ?」
厨房の入り口に、おばちゃん。
割烹着、ペン、審判の目。今日も年齢は不可能。
琴美が一歩前に出る。
「全員で来ました」
おばちゃんは何も感じていない顔で言った。
「そう」
真平が小声で言う。
「対応が雑だ……」
沙羅が恐る恐る尋ねる。
「先週来た時、シャッター降りてましたけど……?」
おばちゃんは注文票を持ったまま、あっさり言った。
「うちは火曜と水曜のみ営業なの」
――沈黙。
テレビの再放送だけが、妙に陽気だった。
九人の視線が、同時に真平へ向いた。
巫鈴が淡々と言う。
「……先週の私たちの訪問日は、木曜です」
真平が崩れた。
「そりゃ閉まってるわ……」
「「「「「「「「「ズコォーーッ!!!」」」」」」」」」
琴美の拳がゆっくり下がる。
沙羅の目がゆっくり死ぬ。
勇馬の眼鏡がゆっくり曇る。
萌香のスマホがスッと下がる。
巫鈴の理屈が静かに崩壊する。
ズーハンが「マジ?」とだけ言う。
シャオは「パォ……」すら出ない。
美優の笑顔だけが、取り残された。
琴美が叫ぶ。
「じゃあ!先週!私たちが来た日!何曜日よ!」
巫鈴が、淡々と返す。
「……木曜です」
真平が肩を落とす。
「二回言うな。余計刺さる」
沙羅が机に突っ伏す。
「私たち、怪異だと思ってたけど……ただの定休日だ……」
勇馬が真面目に言う。
「出現条件は曜日でした。最も単純です」
巫鈴が静かに言った。
「……観測不足でした」
萌香が泣きそうになる。
「私、シャッター動画撮っちゃった……ただの休みの日のシャッター……」
ズーハンが笑う。
「GG。負け方が一番ダサい」
美優がにこにこしながら言う。
「えへへ……じゃあ、今日は食べられますね~」
その一言で、全員が顔を上げた。
――そうだ。今日は火曜だ。
だから開いている。つまり。
ここからまた、黙らされる。
真平が低い声で言った。
「最悪……本番が始まる……」
琴美が立ち直るのが早い。
「よし!じゃあ頼むわよ!全員でビーフシチュー!」
沙羅が即座に止める。
「やめろ!団体戦にするな!胃が死ぬ!」
シャオが震える。
「パォ……」
おばちゃんは何の感情もなく言った。
「ビーフシチュー、人気だよ」
九人が同時に思った。
(――それは知ってる)
そして、おばちゃんが去り際に、さらっと追撃を置いていく。
「プリンはね……火曜は固いよ」
――沈黙。
真平が、声にならない声で言った。
「……曜日で固さ変わるの、やめろ……」
琴美が拳を握る。
「決まりね。今日こそ、決着よ!」
沙羅が顔をしかめる。
「決着って言うな」
巫鈴が淡々と告げる。
「観測を開始します」
萌香がスマホを構える。
「撮る。固さも撮る」
ズーハンがうなずく。
「ナイス。ワンチャン、伝説の銀皿だ」
美優がにこにこ。
「えへへ……楽しみですね~」
シャオが泣きそうに。
「パォ……いやだ……でも……ちょっと気になる……」
真平は心の中でだけ叫んだ。
(やめろ。
プリンに曜日を持たせるな)
しばらくして、厨房から煮える音がした。
鍋の音。じゃがいもの崩れる音。
匂いが、油の層を突き破って上がってくる。
甘くて濃くて、反則の匂い。
真平が嫌そうに言う。
「……香りで納得させにくるな」
琴美が笑う。
「もう遅い。胃が観測開始してる」
そして運ばれてきた。
コトン。
深い器。どっしりした茶色。
湯気の向こうで、デミグラスが艶を持って光っている。
牛肉は角が丸くなっていて、にんじんとじゃがいもが家庭の顔で沈んでいる。
横にライス。量が多い。
スプーンは給食のやつ。
――ここまでは、想定内だった。
だが。
萌香が器の縁を見て、目を見開いた。
「……え、ちょ、待って」
ズーハンが一瞬で覗き込む。
「なに?」
萌香は指で縁の文字をなぞる。
刻印が、はっきり読める。
「……『峠の釜めし』……?」
九人の空気が、一段止まった。
琴美が、勝った顔をして言う。
「ほら。言ったでしょ」
沙羅が頭を抱える。
「器まで反則かよ……」
真平が、低く唸る。
「ビーフシチューを……釜めしの器で……?」
勇馬が真顔で頷く。
「合理的です。保温性が高い。シチューの温度保持に最適――」
「合理で世界観を壊すな!!」
沙羅のツッコミが炸裂する。
巫鈴が器を観察して淡々と言う。
「刻印の摩耗から推測して、長期運用。つまり偶然ではない。確信犯です」
萌香が叫ぶ。
「確信犯って言い方が怖い!」
ズーハンが短く言った。
「運営が強い」
美優が感動している。
「わぁ……冷めない器……すごい……」
シャオが震え声で言う。
「パォ……これは……罠……」
おばちゃんが通りがかり、何でもない顔で言った。
「冷めないからいいのよ」
真平が即答する。
「そういう問題じゃない」
一口。
九人の表情が止まった。
琴美がぼそっと言う。
「……うまい」
沙羅が悔しそうに言う。
「……うまい」
萌香が負けた声で言う。
「……うまい」
ズーハンが短く。
「ナイス」
巫鈴は、少しだけ眉を動かして言った。
「……味は、合理を正当化します」
「名言っぽく言うな!」
真平が叫ぶ。
全員、無言で食べ進める。
釜めし器は本当に冷めない。
シチューの温度が落ちないぶん、逃げ場もない。
真平が箸を置いて呟く。
「……昭和、胃に居座るな」
琴美がニヤッとする。
「これが昭和魂よ」
沙羅が即座に切る。
「昭和魂を器で語るな」




