そして部長は幼虫を食べた
黒磯・那須塩原学園、昼休み。
日ノ本文化部の部室の前まで来たところで、真平は思わず足を止めた。
ふわっと、衣の香ばしい匂いが廊下まで流れ出している。
(……え、なにこの匂い。うちの学校で許されるレベルじゃなくない?)
ドアを開けた瞬間、さらに濃厚な香りが押し寄せた。
「……は? この香り……店? 老舗?」
靴のまま固まる真平。
すぐ後ろから来た沙羅も、眉をひそめて鼻をひくつかせる。
「ちょっと待って……これ本当に部室の匂い? 完全に旅館の厨房じゃない?」
その横で、すでにテンションのギアを上げている人間が一名。
「来たわね……昭和の揚げ物サウンド……!!」
琴美が、なぜか胸の前で拳を握りしめていた。
「パォォォ!? おいしい匂い!! 絶対おいしいやつ!!」
シャオは目をきらきらさせて飛び跳ねる。
「衣が……カラッと揚がったとき独特のピシッって音……これ……プロのやつ……」
勇馬は、もはや職人の目で揚げ鍋を見つめている。
視線の先、部室中央の机の上には、揚げ待ちの素材がずらりと並んでいた。
海老、舞茸、さつまいも、ししとう、カボチャ、大葉、そして白身魚のキス。
その前に立つのは――エプロン姿の花村美優だった。
ボウルには特製ブレンドらしき天ぷら粉。横には那須塩原の軟水。さらに、自家製のごま油が少量混ざった油が静かに湯気を上げている。
「いや旅館の女将じゃん……」沙羅がぼそっと漏らす。
「これ……百パーセントプロだろ。うちの家庭料理とレベル違うぞ……」真平も、現実逃避気味に呟いた。
当の美優は、いつもの調子でにこにこと笑っている。「えへへ……みんなぁ……よかったらどうぞ……」
「……ちょっと待って、美優。まさかとは思うけど」琴美が恐る恐る問う。
「きょうは……揚げたてを一人ずつ出したいので……順番に呼びますね~」
「……は? コース料理方式!?」琴美の声が裏返った。
「……これは優勝です」巫鈴が机の端で腕を組み、真顔でつぶやく。
「文化部史上、昼食の革命……」
まず油に落とされたのは、ピンと伸ばされた大きな海老だった。
衣をまとったそれが、静かに油へと滑り込む。
ジュワアァァ――ッ!
部室に、ひときわ甲高い音が響く。
「音が……音が良すぎてもう負けた……」琴美が、胸を押さえて崩れ落ちそうになる。
「泡の細かさ……温度管理が完璧……美優ちゃん……君は一体……」勇馬が真顔で分析しているのが、逆に怖い。
「はーい、真平さんどうぞ~。揚げたてです~」美優が紙の上に一尾をのせ、箸ごと差し出してきた。
「え、俺が一番なの?」文句を言う暇もなく、みんなの視線が突き刺さる。(試食係を押し付けられた……)
真平は覚悟を決め、一口かじった。
衣は薄く、驚くほど軽い。中の海老は、ぷりっと弾力を残したまま、甘みがふわっと広がる。
言葉が出なかった。
「どうしたのよ。熱かった?」沙羅が覗きこんでくる。
「……うまくてベロが沈黙した」ようやく出てきた言葉がそれだった。
シャオにも揚げたての海老が一本渡される。
一口かじった瞬間、彼女の目がまん丸になった。
「パォォ~~!! サクサクが口の中で跳ねてる!!これ……国際問題レベルうまい……!」
「比喩が成長してる……シャオさん……」巫鈴が、なぜか感心したように頷いている。
「うちの部活……なんで天ぷら専門店ができてんのよ!! 昭和の名店みたいじゃない!!」琴美は半ば叫び声だ。
美優は少しだけ照れたように首を傾げる。
「えへへ……旅館ではいつもこんな感じで……揚げたてを急いで出すのが一番の愛情って、おばあちゃんが……」
「花村家……強すぎるだろ……」真平が、どこか遠い目で呟いた。
次に出されたのは、薄い衣をまとったキスの天ぷらだった。
美優がそっと皿を差し出す。
「沙羅さんは……キス、お好きですよね?」
沙羅の目が一瞬、丸くなる。「……覚えてたの?」
「うん。旅館で一緒にお料理手伝ったとき……白身魚は塩をふるタイミングが命って教えてくれましたから……」
そんなことを言われて、平静でいられるほど沙羅は鈍感ではない。
頬がじわっと赤くなり、視線を逸らす。
「……美優ちゃん…………そんなこと言われたら美味しくないわけないじゃない……」
一口食べた途端、目を閉じて小さく息をつく沙羅の横顔に、全員が妙に気まずくなる。(はいはい、今のはちょっとズルいな、と真平は心の中で突っ込んだ)
終盤、低温でじっくり揚げられたさつまいもが、黄金色に輝きながら皿に並ぶ。
甘い香りが部室を包み込んだ。
「さつまいもは……甘みが一番出る揚げ方があります……大学芋とは違うんですよ~」
美優はいつもの調子で穏やかに説明する。
「……これ文化部の名物にしていい?」琴美が、さつまいもを口に運んだまま、真剣な顔で言う。
「生徒会の食レポ広報に出しましょう。これは学校の資産です」すかさず巫鈴が、行政官みたいなコメントを挟んでくる。
「いや待て、これ文化祭の目玉でいいだろ……」真平は現実的な(でも夢のある)案を出すが、
「いいけど……美優の体力が死ぬわよ……」沙羅が即座に釘を刺した。
「だいじょぶです~。揚げ物はリズムですよ~」美優がさらっと言う。
「名言出たぞ……」勇馬が、妙に感動したように呟いた。
食べ終わったあと、部室にはしばし幸福な沈黙が流れた。
満腹と満足で、誰もが言葉を失っている。
「美優……これ文化部の伝統行事にしてもいい……?」琴美が、半分本気の目で尋ねる。
「えへへ……みんなが喜んでくれるなら……毎週水曜でもいいですよ~」
「……いや……」
真平は、部員たちの顔と、彼らのお腹まわりの未来を思い浮かべる。
「毎週だと誰かの体重が魔王化する気がする……」
「主に……琴美」沙羅が即死級の一言を投げた。
「えっ」琴美のフォークが止まる。
その日の放課後。
誰もいなくなった部室で、まだ油は火を落とされずに残っていた。
シャオが、油の表面をじっと見つめながらぽつりと言う。
「パォ……ねぇズーハン……ひょっとしたら……天ぷらにしたら何でも食べられるかもです」
「その発想、嫌いじゃない」ズーハンは即答した。
「じゃあこの花、揚げてみる?」
「パォッ! いきましょう!!」
校庭に咲いていた小さな花が衣まみれにされ、油へダイブする。
ジュワァァァァ!!
「パォォ~! いい音です!」
シャオが拍手する。
「味は……?」
ズーハンが一口かじる。
「……いける」
「パォー。何でも天ぷら説検証続行です!」
その言葉が、悲劇(というか喜劇)の始まりだった。
「ズーハン……外の草……揚げてみません?」
「草のかき揚げ……それ天才の発想」
二人はそのまま校庭へダッシュし、両手いっぱいに雑草を抱えて戻ってきた。
「持ってきた」
「全部揚げましょう!!」
ジューーーーーー!!!
部室中に、何とも言えない未知の山菜フェアみたいな匂いが立ちこめる。
見た目だけはそれっぽい雑草かき揚げが完成した。
「パォ~~……見た目は……かき揚げ……?」
「緑の線が多いけど……たぶん食える」
二人が箸を構えた、その瞬間。
バァァンッ!!
部室の扉が勢いよく開いた。
「ちょーーーっとアンタらぁ!!」
琴美が仁王立ちになっている。
「部長を差し置いて何おもしろいことしてんのよ!! それ寄こしなさい!!」
「えっ、部長……これは……」ズーハンが慌てて止める間もなく、
「雑草かき揚げ……天つゆ……」琴美は天つゆにざぶっとくぐらせ、そのまま迷いなく口へ運んだ。
一口、もぐもぐ。
沈黙。
ごくり、と誰かの喉が鳴る。
「ど、どうですか……?」ズーハンがごくりと聞く。
「………………うまっ!!? なにこれ!?普通に天ぷら屋で出せるレベルなんだけど!?アンタたち天才!? 緑の魔術師!?!?」
雑草かき揚げは、まさかの高評価を受けた。
「パォ~~~!」シャオは天使の笑顔で飛び跳ねる。
「姉貴……俺ら……才能あったんだ……」ズーハンも調子に乗り始める。
「よし!! もっと取ってきて!! 今すぐ!!文化部草天ぷらフェスよ!!」
「了解!! 草狩り隊、発進!!」
「パォ~雑草の時代きましたねぇ~~」
「はぁ〜……でもさ……昨日の草のかき揚げさ……やっぱ美味しかったわよね〜……」
琴美が、机に突っ伏しながら言う。
「だって〜美味しかったんだもん♪ あの小エビみたいなサクサク感、最高よ!」
その一言に、二人の台湾人姉弟が同時に固まった。
「……パォ?」シャオの顔から、すっと血の気が引く。
「姉貴……小エビって……どれ指してる……?」ズーハンが震え声で聞く。
「ほらこのカリッとした細っこい茶色いの。エビだと思ってたけど……もしかして川エビかな?」
巫鈴の目が、氷のように冷たく光る。
「……琴美さん。昨日、エビはひとつも使ってません」
「え? でもこのプリッとした……」琴美が、記憶をたどろうとして――
「それ……足が六本ありませんでした……?」美優がおずおずと口を挟んだ。
「え? 六本? エビって足多いんじゃないの?」
「いや多いけど!! それ昆虫の足の本数だろ!!」
ズーハンが思わず叫ぶ。
「……まあ落ち着け」
沙羅が深呼吸しながら言う。
「琴美、昨日あれ食べたときのことよく思い出して?」
「うん……」
琴美は目を閉じ、あのカリッとした何かを思い浮かべる。
「胴体の真ん中……なんか白いツブツブがあったような——」
「パ、パォォォ!!! や、やめてください琴美先輩!!!それ完全に幼虫の脂身です~~~!!」
「…………え? ……え? ……え?」琴美の目が、完全に虚ろになる。
「昨日ズーハンくんが採ってきた草の中に……ヨモギの葉に寄生する昆虫の幼虫が混じっていたのを確認しています」巫鈴が、静かにとどめを刺した。
「………………は?」琴美の口がぱくぱくと魚のように動く。
「つまり琴美さんが『小エビ』と言っていたものは——百パーセント昆虫の幼虫です」
部室に、重い沈黙が落ちた。
「エ……ビ……じゃ……な……い……の……?」琴美の声は、もはや魂が抜けかけている。
「GG……もう無理……」ズーハンが机に突っ伏した。
「パオオオオオオ!! 琴美先輩ごめんなさい~~~!」シャオは半泣きで叫ぶ。
「でも……でも琴美さん……美味しいって言ってましたよね……?」
美優が、恐る恐る事実を突きつける。
「言ってない!!!!いや言ったけど!!違うの!!! 違うのよ!!!!エビだと思って!! エビのテンションで食べたから!!今思い出すと……っうわぁぁぁぁぁぁ!!!!」
琴美は部室をぐるぐる走り回り、頭を抱えて叫んだ。
「……琴美、もう腹くくりなさい」沙羅が冷静にとどめを刺す。
「あんた昨日、昆虫天ぷらを絶賛したのよ」
「やめろォォォォォォ!!!!!」悲鳴が黒磯の空に突き抜けた。
「ちなみに——」
巫鈴は、何事もなかったような顔で続ける。
「昆虫食はタンパク質が豊富で環境にも優しいので、栄養学的には正しい判断です」
「フォローになってないわよ巫鈴!!!」琴美が泣きながら突っ込む。
「……琴美、お前だけ新たな食の扉開いちゃったな……」真平が、どこか同情を込めて呟いた。
「開きたくなかったわよォォォォ!!」
こうして、「日ノ本文化部・草天ぷら事件」と、「部長、昆虫天ぷらを絶賛する」の二つの伝説が、静かに学園史に刻まれたのだった。




