8.ナシルの誘惑
「待てよっ、ミルドレッド」
そそくさと歩いて行ってしまうお嬢様に追いついて、肩に手を伸ばせば、するりとすり抜け、先に回れば立ち止まってしまう。声をかけても知らぬ振りばかりで、キースは、仕舞いには面倒臭くなって、追いかけるのを止めてしまった。
仕方なしに、ため息混じりにパトラッシュの頭をなぜる。ミルドレッドは、そんな彼にちらりと目を向けたものの
「ナシル、食事に行きましょうよ。あんな貧乏画家なんて放っておいて」
中東の王族は、そんな二人の様子を苦笑しながら見ていたが、
「おやおや、未来の僕の”婚約者”と”共同経営者”が喧嘩なんて、あまり見たくない光景だね」
キースは、えっと声をあげてしまった。
「それ本気?」
いつもは、時めくはずの琥珀色の瞳が、今日は、やけにちくちくと痛い。……が、ミルドレッドはぷいと、そっぽを向いてしまった。
「そうなればいいねって、ミリーとずっと話をしてたんだ」
ご満悦そうなナシルの声音が、ただでさえ良くなかった青年画家の気分を逆なでる。
ミリーがこいつと婚約? 冗談じゃないよ。危険な香りする奴が好きなら、イヴァンの方がまだまし……いや、あいつは危険な香りなんて生優しいもんじゃないか……それと比べりゃ、ナシルはセレブ度は、天下一品だし物腰は柔らかいし……でも、俺が共同経営者? どうせ贋作村の”一番の贋作者”とやらとしてなんだろ。ああ……まったく、もう、
ふざけんなって声を大にして言いたい!
「俺、用事を思い出した。一人で列車で帰る」
憮然とした彼に、今度はミルドレッドが戸惑う番だった。
「えっ、列車で? 3時間以上かかるわよ。それにここからじゃ、駅までだって行くのに大変なのに」
「ナシルと町で食事するんだろ。そこまで車に乗せていってくれたら、駅はすぐ近くだから」
「ちょっと、何もそんなに拗ねなくても……」
「……どうして俺が拗ねるんだよ! 以前から、スコットランドの知り合いの所へ寄りたいと思ってたんだ。こんな機会でもない限りは、なかなか、行きたくても行けないし」
スコットランドの知り合い?
ミルドレッドは、思わず顔をしかめてしまう。
まさか、それってグレン男爵のこと? キースが、フェルメールの絵に入り込んでしまった彼の息子を絵の外に出してあげた返礼に、シティ・アカデミアに贋作村の覇権をすべて譲り、スコットランドの田舎へ引っ越していった画商。そのグレン男爵の館にキースは行こうとしてるんじゃ?
この時の彼女の勘は、100%正しかった。
胡散臭い商売で一財産を成したグレン男爵のことだ。裏も表も知ってる彼なら、東洋マフィアやアンナの肖像画のことももっと詳しく知っているに違いない。キースはそう考えていたのだ。
すると、ナシルが、
「せっかく、ここまで来たのに、喧嘩別れなんて良くないな。せめて、食事だけでも一緒にしていかないか。これからのことも、君とは、もっと話がしたいと思っていたんだ。だから……ね」
そこはかとないオーラを放ちながら、優しげな笑みを浮かべて、顔を覗き込んでくる中東の王族が、今更ながらに怪しい。
止めろよ。俺はあんたの取り巻きの女の子とは違うんだから。
「婚約……いや、共同経営者なんて俺は御免だ」
「おや残念。君って随分、ここのアトリエにある少女の肖像画を気に入っていたみたいじゃないか。話によっては、譲ってもいいと思っていたのに」
「え、それ、本当?」
「君が専属の贋作師として来てくれたら、1枚と言わず、ここにある、あの少女の肖像画を“全部”、無償で進呈してもいいんだよ」
キースはかなり驚いてしまった。無償で肖像画を進呈するということの他に、この男……アンナの肖像画が何枚もあのアトリエにあるのを知ってやがる。
「贋作師の件はお断りだって言ってるだろ! あの肖像画は……俺が買い取るよ。でも、全部は今は無理だから、まずは1枚から。それからは、ローンでも何でも組んで」
「ローン? ははっ、君って随分、面白いことを言うんだね。ここにある絵は、そんなに安値では売ろうと思ってないんだけど……で、最初に買い取ってくれる、1枚にはどのくらいの値を考えてるの」
どのくらいって言われても……あの絵はいい絵だけど、作者は無名の画家だから……。
「1000ポンド(約13万円)くらいでどう?」
ナシルはそれに、切れ長の瞳をさらに細めて答えた。
「なら、僕はあの絵にその10倍の値をつけよう。君がそれを払うといのなら、さらにその倍だ。それでも、キース君は、あの絵を全部、買い取れるっていうのかい? 君は才能のある画家だけど、オリジナルじゃ、それだけの金額を稼ぐのは到底無理だろ。だから、贋作村へ来い。ここの贋作師になるのなら、肖像画どころか、破格の契約金で君を歓迎するよ」
してやったりの王族の表情に、青年画家は憮然と口を噤む。
畜生、人の足元を見やがって……。だから、金持ちっていうのは嫌なんだ。
けれども、今、自分がシティ・アカデミアからもらっている契約金だけでは、ハン爺さんのアトリエにあるアンナの肖像画をすべて、手に入れることは絶対に出来そうにもない。キースは迷った。
「ちょっと……考えさせて。今はとりあえず、俺は一人でスコットランドの知り合いの所へ行って来るよ。返事は帰ってきてからする。それでもいいだろ」
チェックメイトを宣言した棋士みたいに、余裕の表情で頷くナシルと、まだ戸惑った様子のキース。
一方、ミルドレッドは、腑に落ちない思いで、二人のやり取りを聞いていた。
いくら腕がいいからって、あそこまで贋作師としてのキースにこだわる、ナシルって、どうなっちゃてるのよ。それに、あんなにきっぱりと断っていたくせに、“女の子の肖像画”の話を出されたとたんに、曖昧な態度を取るキースだって……。
彼が大事にしている“女の子の肖像画”
駄目……。考えるだけでもムカつく。
「ねぇ、食事に行くなら、早く行きましょ。もう、私、お腹が空いて死にそう!」
ミルドレッドは、わざとキースの前で大袈裟にナシルの腕をとってみせた。勝手に、グレン男爵の館でもどこにでも行けばいいんだわ。私は私で好きにするから。
けれども、この時のミルドレッドには知る由もなかった。この先、キースと彼女が会えなくなってしまうことなんて。




