白ウサギ、穴
正門を出て坂を下り、丁字路を右に折れる。
なんだかぼうっとして頭がうまく回らない。
今日は昔のことを想起させる出来事が多かった。
川沿いの道に出ると、正面にそびえる山が嫌でも目に入った。
天狗の山。神隠しの山。
ほんの気まぐれからだった。
たぶん歩幅が合わなかったのが一番の理由だと思う。
本来なら道をそれて住宅地に入るべき分岐点で、私はまっすぐ堤防の上を進んだのだ。
やがて川は分岐し、対岸を歩く人の顔さえ認められそうな狭さになる。
私は何かに導かれるように、その支川沿を歩いた。
この道を辿っても、行き着く先は山の麓だとわかっているのに、歩みを止めることも踵を返すこともしなかった。
二十分ほどで山の麓に辿り着く。
私は携帯を取り出し時刻を確認した。
日が暮れる前には戻ってくることができるだろう。
充電が残り少ないことに心細さを感じたが、結局私は山に足を踏み入れることにした。
辺りに人の気配はなく、自動車の音すら聞こえてこなかった。
もともとが裏道のような様相の本道からさらにそれて、人ひとりがようやく通れるような隘路に足を踏み入れる。
当然未舗装で、もうほとんど獣道だ。
少し肌寒い。
道はさらに狭まり、枝葉が迫ってくるような圧迫感に苛まれる。
引き返そうかと迷い始めた時、川のせせらぎが耳に届いた。
道を間違えていないことに胸を撫で下ろし、さらに奥へ奥へと進んだ。
しばらくすると、木立が途切れてぱっと視界が開けた。
そこは川原だった。
唯が一枚目の背景のモチーフに選んだ場所。
流れの急な川が目の前を横断し、足元にはごつごつとした石が転がっている。
川幅は五メートルほどだろうか。
最近雨が降っていないせいか、記憶の中にあるそれよりも少し狭い気がした。
そして川原には、周囲の木々よりも二回以上大きな立派な木が一本、屹然と佇んでいた。
桂の木だ。
株立ちはしておらず、巨人の足のようなどっしりとした幹がずんと伸びている。
独特な甘い香り。
その木は『恋愛永樹』と呼ばれていた。
曰く、その木の下で実った恋は永遠に続く——らしい。
昭和の初期に、その桂の木の下で逢瀬を繰り返していた男女が、身分の違いや時代の趨勢に引き裂かれそうになりながらも全てを乗り越えて結ばれた、というどこかで聞いたような逸話が元になっているそうなのだが、真偽のほどは定かではない。
ハートの形をした特徴的な葉や、花言葉の『不変』から言い伝えが生まれ、そこから創作されたのではないかと私は睨んでいる。
恋愛永樹、という呼び名が定着したのは最近のことだ。
数年前に雑誌で取り上げられ、そこでその呼称が使われたのだ。
恋愛永樹の伝説は、地元の中高生の一部で話題になった。
が、話題になっただけで、実際にこんな辺鄙な山の中に意中の相手を呼び出してまで告白しようとする奇特な人は、ほとんどいなかった。
そもそも『永遠に続く』なんて中高生には重すぎるのだ。
それでも、中には変わった感性の持ち主がいて、そのうちの一人が私だった。
私は中学の卒業式の日に、波戸を連れてここに来た。
彼は恋愛永樹の伝説を知らなかったみたいで、道中ずっと不思議そうにしていた。
もちもん、私は彼に告白するつもりだったのだ。
私と波戸は幼いころ、お互いのことを下の名前で呼び合っていた。
ハジメ、有子。
それはとても自然なことで、意識することもなく当然のこととして受け入れていた。
小学生になったころから、そのことを周りから冷やかされるようになった。
夫婦だとかカップルだとか言われて恥ずかしい思いをした。
だから私たちは人前では、お互いのことを名字で呼び合うことにした。
下の名前で呼ぶのは、周りに誰もいない二人きりの時だけ。
示し合わせたわけではなくて、自然とそういう取り決めになっていたのだ。
彼が周りから『愛ちゃん』と呼ばれるようになってからも、それは変わらなかった。
私は彼を『波戸』と呼び、二人きりのときだけ『ハジメ』と呼んだ。
学校生活を送りながら二人きりになることなんてあまりなかったけれど、それがかえって二人の仲を深めていたように思う。
周りの目を盗んで下の名前で呼び合うたびに、私たちはより親密になっていった。
少なくとも、私はそう思っていた。
波戸は中学三年になったころから身長が急激に伸びて、ぐっと男らしくなった。
それに伴い女子からの評価も格段にあがり、私は卒業までの一年間を気が気じゃなく過ごすはめになった。
他の女に取られる前に告白しようと何度も思ったけれど覚悟が決まらず、今度は波戸の方から告白してくるように仕向けようと画策したが、それも不発に終わってしまった。
海外では手紙の最後にバツマークを三つ書くのが、愛しているのサインだと古い洋画で知り、決死の覚悟でメッセージの末尾に打ち込んだりもしてみたのだが、文字化けしているだけだと思われてしまった。
そもそもあれはバツではなくエックスだと、ずっと後になって知った。
何もかもが上滑りしていたけれど、当時の私は真剣だったのだ。
そうこうしているうちに受験で忙しくなり、気づけば卒業が間近に迫っていた。
私は「卒業式の日に告白するために先延ばしにしたんだ」と自分に言い聞かせ、中学と共に幼馴染というもどかしい関係を卒業するんだと息巻いた。
そして、ちょうどそのころ話題になっていた恋愛永樹の下で、彼に想いを告げようと考えたのだ。
告白しようと思い立ってから一年近くが過ぎていたから、それくらいシチュエーションにこだわらないと、引っ込みがつかなくなっていたんだと思う。
あと彼と同じ高校に合格できた安堵感が、それに拍車をかけていたような気がする。
私は頑張ったのだ。本当に。
普段は寄り付かないような繁華街の洒落た雑貨店に赴き、私の小遣いからすればかなり奮発したプレゼントを購入して告白に備えた。
けれど告白は失敗に終わってしまう。
振られたわけではない。
成立すらしなかったのだ。
「有子も、俺を馬鹿にして……」
波戸の怒った顔と、小魚が跳ねるような音。
あれ以来だ。
彼は私を『有子』と呼ばなくなった。
私も彼を『ハジメ』と呼べなくなった。
今まで当たり前だと受け入れていたことが、当たり前だと思えなくなってしまったのだ。
どうしたらいいのかな、とずっと悩んできた。
でも、いつからだろう。
どうしたらよかったのかな、と考えるようになったのは。
あれからもう、一年以上が経っている。
「…………」
なんだか無性に叫びたくなって、私は思いっきり息を吸い込んだ。
そして何かを叫ぼうと思ったんだけど、咄嗟にいい言葉が思い浮かばなかった。
「バカヤロー」だと海だし「ヤッホー」は今の気分に似つかわしくない。
いろいろ迷っているうちに、呼吸が苦しくなってくる。
結局、私が選んだのは、
「ああ、もう退屈っ! 何かおもしろいことでもないかしらぁ!」
という、何度も繰り返した劇の台詞だった。
はぁはぁ、と肩で息をする。
呼吸が整うにつれ虚しさが込み上げてくる。
「何やってんだろ、私」
大きなため息。
もう世界は黄昏時だ。
「帰ろ」
踵を返したその瞬間、視界の端を何かが横切った。
振り返ると、デパートの屋上で風船でも配っていそうな、あのウサギの被り物をした誰かがいた。
その人の服装には見覚えがある。
波戸が昔着ていたベストだ。
もしかして波戸が――と思ったけれど、そうじゃない。
彼はもっと身長が高い。
「だ、誰?」
ウサギの被り物は何も答えずに、足場の悪い川原をぴょんぴょんと跳ねながら移動していく。
そのまま恋愛永樹の後ろに回り、こちらから視認できなくなった。
——変質者?
そう思ったけれど、あの被り物をしているということは二年四組の誰か、少なくとも関係者ではあるはずだ。
私はそろそろと近づいて、そっと恋愛永樹の後ろを覗き込んでみる。
「……あれ?」
そこには誰もいなかった。
きょろきょろと周囲も確認してみたけれど、身を隠せるような場所はどこにもない。
頭が真っ白になりかけた時、ふと木の根元に何かが転がっていることに気がついた。
直径一メートルほどの黒い球体だ。
(なんだろう、これ?)
恐る恐る手を伸ばしてみたけれど、触れることができなかった。
前のめりになってみても、それでも届かない。
距離感がうまく掴めなくて、騙し絵でも眺めているような、奇妙な感覚に見舞われた。
変だなと思い、いっそう身を乗り出した時、その正体に気がついた。
それは穴だった。
それも、質感が伴うほどの完璧な穴だ。
慌てて体を起こそうとして――足元が滑る。
「わぁっ!」
そうして私は、頭から真っ逆さまに穴の中に落ちてしまった。
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