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魔法をなくした薬師  作者: 灯野 しおん
第一日目

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第一日目⑦

案内された部屋は二階の角部屋だった。


畳。

押し入れ。

丸い照明。


窓の向こうには、

雨に濡れた夜の町が少し見える。


「布団、使って」


奈緒が押し入れから布団を出す。

リツカはその動きをじっと見ていた。


床へ寝具を敷く文化は、

自分がいた世界にも少し似たものがある。


でも。


こんなに柔らかそうなものは、

見たことがなかった。


「何その顔」

「……雲みたいです」


奈緒が吹き出す。

「布団にそんな感想言う人初めて見た」


リツカは真面目だった。

本当に雲みたいに見えたのだ。


奈緒は布団を整え終えると、

立ち上がる。


「何かあったら呼んで」

「……はい」


「あと」

奈緒は少し迷うように言葉を止めた。


それから。

「ここ、鍵とか掛けなくて平気だから」


リツカは目を瞬いた。


鍵を掛けない。

つまり、

警戒していない。

それが少し信じられなかった。


奈緒はそのまま部屋を出ていく。


扉が閉まる。

静かだった。


リツカはしばらく立ち尽くしてから、

ゆっくり窓際へ近付く。


窓を少し開ける。


潮風。

雨の匂い。

濡れた土の香り。

遠くで波の音がする。


それから。


カン、カン、カン——

踏切の音。


リツカは肩を跳ねさせた。


けれど、

昼ほど怖くはなかった。


しばらくすると、

ごう、と低い音が夜へ流れていく。

電車だ。

あの鉄の箱は、夜でも走るらしい。


不思議な世界だと思う。


窓の外には、

ぽつぽつと家の灯りが見える。


誰かが起きている。


誰かがご飯を食べて、

誰かが笑って、

誰かが眠る準備をしている。


そんな当たり前の気配が町全体に広がっていた。


リツカは胸元を押さえる。

静かだった。


でも。


怖くない。


それが、

少しだけ不思議だった。


異世界では、

夜は警戒する時間だった。


眠っている間に誰かが苦しむかもしれない。

薬が足りなくなるかもしれない。

助けを呼ばれるかもしれない。


だから、

深く眠ることなんてなかった。


けれど。


この町の夜は違う。


雨音がして、

波の音がして、

どこかで犬が吠えている。


それなのに。


全部が穏やかだった。


その時。


ふす、と足元へ柔らかい感触が触れた。


リツカが驚いて振り返る。


白い。

大きい。


ハクだった。

「……ハクさん?」


いつの間に入ってきたのか。


ハクは当然みたいな顔で、

布団の横へ丸くなる。


「ここで寝るんですか……?」


尻尾が一度だけ揺れた。


どうやらそのつもりらしい。


リツカは少し困ったように笑う。


今日初めて、

自然に出た笑顔だった。


布団へ座る。

柔らかい。

身体が沈む。


その感覚だけで、

眠気が押し寄せてくる。


リツカは窓の外をもう一度見た。


雲の隙間から、

星が少し見える。


知らない世界。


知らない町。


でも。


今日、

温かいご飯を食べた。

名前を呼ばれた。

笑われた。


湯に浸かった。

星を見た。


それだけで、

胸の奥の冷たさが、

ほんの少しだけ溶けた気がした。


リツカは静かに目を閉じる。


波の音。

雨の匂い。

ハクの温かさ。


そして。


この世界で初めて、

誰にも呼び起こされない夜が、

ゆっくり更けていった。

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