第一日目⑥
風呂から出ると廊下は少しひんやりしていた。
けれど、
身体は芯まで温まっている。
リツカは借りた衣服の袖をそっと握った。
柔らかい。
異世界の服よりずっと軽い。
髪からは花みたいな匂いがした。
「……いいにおい……」
不思議な香りだった。
廊下を歩いていると居間の方から話し声が聞こえた。
「……警察?」
奈緒の声。
リツカの足が止まる。
「でもなぁ、悪い子には見えないんだよ」
フミの声が続く。
「見えないけど、身元不明は困るでしょ」
「記憶喪失とかかもしれないし」
記憶喪失。
リツカは小さく目を伏せた。
違う。
覚えている。
全部。
薬草の匂い。
燃える街。
血の色。
助けられなかった人達。
忘れたことなんて一度もない。
ぎゅっと袖を握る。
その時。
足元へ、白い塊がぬっと現れた。
「ひゃっ」
ハクだった。
リツカの濡れた髪を、ふんふんと嗅いでいる。
「……ハクさん」
思わず小声になる。
ハクは満足したように尻尾を振ると、
廊下へ寝そべった。
まるで、
“ここにいればいい”
と言うみたいに。
リツカは少しだけ肩の力を抜いた。
そのまま居間へ戻ると、
奈緒が振り返った。
「あ、お風呂入れた?」
「はい……とても、その……」
言葉を探す。
うまく出てこない。
けれど。
「温かかったです」
奈緒は少し笑った。
「それなら良かった」
机の上には、
湯気の立つ湯呑みが置かれていた。
「ほうじ茶、飲める?」
「……はい」
本当は、何なのか分かっていない。
でも、湯気の匂いは落ち着いた。
木みたいな、草みたいな香り。
リツカはそっと口を付ける。
温かい。
少し苦い。
でも、後から甘みが残る。
「……不思議です」
「お茶だからね」
奈緒は当たり前みたいに言った。
リツカは湯呑みを両手で包み込む。
その熱が妙に安心した。
時計が、かち、かち、と鳴っている。
外では雨。
窓へ打ち付ける音。
遠くで電車が走るような低い音も聞こえた。
この町は静かだった。
静かなのにちゃんと人が生きている音がする。
それが、
リツカには少し不思議だった。
異世界の静けさは、
“死”に近かったから。
でもここは違う。
温かい。
ご飯の匂いがして、
誰かの声がして、
犬が眠っている。
静かなのに安心できる。
「眠かったら、もう寝ていいよ」
奈緒が言う。
リツカは小さく頷いた。
けれど。
立ち上がる前にふと窓の外を見る。
雨雲の切れ間から少しだけ夜空が見えていた。
黒い空。
そこに、
小さな星が瞬いている。
リツカは息を止めた。
星だ。
この世界にも星はある。
当たり前のことなのになぜか少し泣きそうになる。
「……綺麗」
ぽつりと零れた声に、
奈緒が隣へ来る。
「ああ、今日は雨だったからね。
晴れるともっと見えるよ」
もっと。
リツカは静かに空を見上げた。
知らない世界なのに。
その星空だけは、
少しだけ優しかった。




