第一日目⑤
夕食が終わる頃には雨音も少し穏やかになっていた。
リツカは湯呑みを両手で持ちながら、
ぼんやりと湯気を見つめていた。
温かい。
身体の奥までゆっくり熱が広がっていく。
こんなふうに落ち着いて座っている時間が、
自分にあっただろうか。
思い出そうとしてやめた。
思い出すと胸の奥が少し痛む。
「……眠そう」
奈緒の声にリツカははっと顔を上げた。
「い、いえ……」
否定しかけて大きな欠伸が漏れる。
奈緒が吹き出した。
「正直だね」
リツカは耳まで赤くなった。
フミが立ち上がる。
「風呂、沸いてるよ」
また知らない言葉だった。
リツカが首を傾げると、
奈緒が説明する。
「身体洗うとこ。お湯入るやつ」
……お湯に入る?
リツカは混乱する。
湯浴み文化は異世界にもあった。
でも貴族や大きな街の施設くらいだ。
辺境では桶で身体を拭く方が多かった。
まして家で温かい湯に浸かるなんて。
「そんな顔しなくても食われないから」
奈緒が呆れたように言う。
リツカは小さく頷いた。
案内された脱衣所でリツカは固まっていた。
鏡。
見慣れない棚。
並んだ瓶。
何もかも初めて見るものばかりだ。
「……」
異世界の薬瓶に少し似ている。
そう思って、一本を手に取る。
透明な容器の中にとろりとした液体が入っていた。
その時。
「それシャンプー」
後ろから奈緒の声。
「ひゃっ!」
リツカは飛び上がった。
「す、すみません!」
「だからなんで毎回謝るの……」
奈緒は苦笑する。
そして瓶を指差した。
「髪洗うのがこれ」
「はい」
「身体はこっち」
「はい」
「少しで泡立つから」
「少し」
「少し」
リツカは真面目な顔で頷いた。
奈緒は少し不安になった。
でも、たぶん大丈夫だろう。
たぶん。
浴室へ入る。
湯気。
温かい空気。
白い浴槽。
リツカは思わず息を呑んだ。
魔力を感じない。
なのにこんな大量のお湯がある。
本当に不思議な世界だった。
そして。
髪を洗おうと、シャンプーを手に取る。
透明な液体。
薬液みたいだ。
香りも良い。
少し手に出す。
髪へなじませる。
すると。
もこっ。
泡が立った。
「……!」
驚く。
すごい。
異世界の洗浄薬よりずっと強力だ。
ならば。
もう少し使えば、
もっと綺麗になるかもしれない。
少し追加。
さらに少し。
念のためもう少し。
結果。
「……?」
泡が増えた。
増えた。
増えた。
肩まで白い。
腕まで白い。
床まで白い。
「なぜでしょう」
真剣に考える。
流せば減るはずだ。
そう思ってシャワーを当てる。
しかし。
泡は減るどころか、さらに広がった気がした。
十分後。
「奈緒さん」
浴室の外へ、
遠慮がちな声を掛ける。
「なにー?」
居間から返事が聞こえる。
「助けてください」
奈緒の動きが止まった。
「え?」
「泡が増えます」
数秒の沈黙。
「は?」
浴室の扉が開く。
そして。
奈緒は固まった。
泡まみれのリツカがいた。
髪も。
肩も。
床も。
全部白い。
「何したの……」
「洗いました」
「それは見れば分かる」
リツカは本気で困っていた。
「止まりません」
奈緒はボトルを見る。
「半分減ってるんだけど」
「少しずつ入れました」
「少しじゃない」
とうとう奈緒は吹き出した。
笑いを堪えられない。
「ほんと目離せないなぁ……」
リツカは真剣な顔のままだ。
それが余計におかしかった。
「目閉じて」
「はい」
奈緒はシャワーを手に取る。
温かい湯が、
リツカの髪を流れていく。
少しずつ。
少しずつ。
泡が消えていく。
「痛かったら言って」
「大丈夫です」
静かな時間が流れる。
雨音だけが聞こえる。
リツカは小さく呟いた。
「ありがとうございます」
奈緒の手が少しだけ止まる。
「別に」
そう答えながら、
どこか声は柔らかかった。
やがて泡は流れ切る。
リツカは浴槽へ身体を沈めた。
温かい。
身体の奥まで、
じんわり熱が広がっていく。
窓の外では雨が降っていた。
遠くで波の音もする。
知らない世界。
知らない町。
でも。
今だけは、
少しだけ怖くなかった。




