逆行令嬢、勝負に出る
デクラン様篭絡作戦はこのように着々と進められていたが、婚約解消のほうはというと、こちらは放っておいても勝手に準備が整っていく。私は婚約解消後の生活の為に社交界で味方を作っているだけでいい。
というのも、これには貴族の結婚観とその暗黙のルールがあるからだ。
貴族の結婚は商家とよく似ている。家同士の結び付きを深める業務提携の結婚。社交界で人気者になるだけの社交力のある女性を生活の保障と引き換えに妻にする契約結婚。
どちらも好意を抱ける相手なら最良。そうでなくとも、跡取りさえできれば互いに愛人を作って互いの生活に干渉せずに好き勝手生きられる。
だからこそ、婚約破棄や離婚といった事柄は嫌われる。
政治的な理由から婚約が解消されることは高位貴族にはよくあることでも、私的な感情でおこなわれる契約の解除は人間性を疑われて信用を無くす。
それを回避する為におこなうのが、婚約者が前におこなった私の瑕疵を断罪することだった。
遣り方によっては、それで婚約者のいる殿方と恋仲になって奪い取ることなど、まともではない女性をまともに見せることができる。前の婚約者のように。
前の時に調べ上げた婚約者の浮気相手は、今回も同じで、まともではない女性は社交界で人気のある独身の殿方にダンスに誘われる私に嫉妬しないはずがなかった。これが前と同様にお兄様のお友達だけなら歯牙にもかけなかっただろうが、婚約者よりも好条件の独身の殿方が婚約者に見向きもされていない私と踊っているのだ。見下している相手がチヤホヤされるのを見て、黙っていられるはずもない。
黙っていられるなら、慰謝料や賠償金が発生する婚約破棄をおこなわずに愛人で我慢できたはずだ。婚約している殿方だろうが気にしないわ、愛人も嫌だというなら、誰かの下になることは我慢できないことだろう。
私が手を出さなくても、あっちから婚約解消できる口実を作ってくれる。
そう、このように。
「きゃっ。ひどいわ、カサンドラ様。わたしのことが気に食わないからって、あんまりですわ!」
私にぶつかってよろけたふうを装う婚約者の浮気相手。赤毛は気が強いと聞くけど、可愛らしい系でも略奪を厭わない彼女は確かに気が強い。
交代で傍に付き添ってくださっているケイレブ様が何かおっしゃろうとするのを目配せで止める。
一緒にいるのがお兄様ならこうはいかない。偶然を装ったとはいえ、ソーントン家を中傷されてそのままにしておくなどするわけがない。私を攻撃するということは、ソーントン家に攻撃をするということだ。逆にソーントン家の評判にもかかわるから、私の言動にも煩い。
徹底的に噂が立たないようにするお兄様の判断は間違っていない。
しかし、それではいけないのだ。
女性はこれくらい自分で対処できなくてはいけない。水害や天候不順などで力を合わす必要がある隣り合う領地のパーティーならともかく、社交界のパーティーは仲良しこよしでは済まされない。女性にとっては戦場だ。
「あら? 私、何かしたかしら?」
「わたしにワインをかけたじゃありませんか!」
ぶつかり事件ではなく、白ワイン事件だったらしい。
椅子エスコートのおかげで、ダンスで髪型が崩れたり、ドレスのレースやフリルが取れかかったことを口実に休憩に行かないので、人気のないところで苛められたと騒ぎが起こせず、飲み物を手にしているここで騒ぎを起す白ワイン事件しかない。
「私がいつかけたとおっしゃるの?」
「今ですわ。その手にしているワインをわたしに――」
彼女はドレスのスカートの裾を持ち上げて、濡れていることを示す。
「このグラスの中身をかけたのなら、床も濡れているのではなくて?」
私の指摘した通り、床はまったく濡れていない。手に持ったグラスの中身だけを床に零さないようにかけるなら、どうしても手に取って落ちないように少量ずつ垂らすしかないだろう。
グラスを投げつけたのならまだわかるが、手に持ったままだ。飛び散る範囲も広くなる。
「それは量が少なかっただけで――」
「それに、このグラスに入っているのは、レモネードですけど? レモネードと白ワインの区別がつかないほど、お酒を召しておられるなら、休憩なさったほうがよろしくてよ」
前の時、白ワインをかけられたと小さな騒ぎを起こしては私に虐められたとおっしゃったから、今は家から従者に持たせたレモネードで喉を潤すことにしている。
まだ一回目だからレモネードだけど、次からは水を持ってくるつもり。だって、次は「レモネードを~」って言われかねないもの。
折角、休憩と称して人気のない所に行って白ワインで裾を濡らしてきても、自作自演だとバレては効果などまったくない。
婚約者の糾弾の時もこの珍騒動を目撃したり、聞いた人々は笑いを噛み殺すのも大変だろう。
白ワイン事件がいつだったか忘れたけど、社交界で人気のある殿方とダンスしている姿に触発されて、婚約者たちの動きも早まったようだ。
招待客でありながら酔っぱらうなんて主催者に無礼を働いて、白ワインとレモネードの匂いも分かっていないのかと、あてこすればクスクスと笑いが起こり、彼女はキッと声の主を見るけど、相手はいい歳した社交界の実力者たち。すぐに虐められたとばかりの弱々しい表情をして去って行った。
社交の集まりでも、デビュタントが参加できるのは口を湿らす程度にお酒を嗜むものだ。
赤ら顔になっても許されるような集まりは、殿方や既婚婦人、未亡人しか許されてはいない。デビュタントは出席したと噂になっただけで、結婚相手が見つからないほどの悪い評判になる。
浮気相手の彼女も、この一件だけで明日から招待は減る。酒癖が悪いデビュタントなど最低限の社交術すら身に付けていない厄介者だとしか認識されないからだ。
都に住んでいない者も含めた社交の一環として、結婚相手探しができる場にしているのだ。結婚市場に出せる基準が満たせない未婚女性を招いて結婚でもされたら、次の年からあの家は人を見る目がないから招待されたデビュタントと結婚するぐらいなら、悪魔と結婚したほうがましだと悪評が立つ。
悪評が立てば、結婚しようと考える優良物件の殿方が別の家の夜会に行き、デビュタントもそちらに流れ、特別な催しなど、別の手段で招待客の参加意欲を掻き立てなければ参加者がまばらで失敗に終わる。
これを避ける為に、スキャンダルを起こしたデビュタントは即刻、招待を撤回されたり、招待状が来なくなるのだ。
「大丈夫か?」
「ええ。大丈夫です。私には皆様がいましたから、負けませんわ」
ケイレブ様ににっこり答えてしばらくしていると、デクラン様がやって来た。
「大丈夫ですか、ミス・ソーントン?」
離れたところにいたというのに、あの騒ぎに気付いて来てくれたようだ。お兄様は・・・気付いていないらしく、まだ歓談しているのが見える。
日和見主義でも見るところは見ていてくれて、こうして気遣ってくれるデクラン様とは大違いだ。
「取るに足らないことですわ、デクラン様」
感じたままに答えれば、デクラン様はケイレブ様に目を移す。
「テンプルトン?」
「ミスター・コールリッジの連れが喧嘩を吹っかけて来ただけだ」
ケイレブ様は私の婚約者の浮気相手に紹介されていないのか、連れとおっしゃった。
「ミスター・コールリッジか。あいつにも困ったものだ。いくら家同士の取り決めとはいえ、婚約者の顔は立てておかなければ、ソーントン家の心証も悪くなるというのに」
お義理の対応でも結婚するまでは家族同様に親しい間柄だと周囲にアピールする必要がある。難しい話をする間、女性を退屈させない為に離れているのは仕方ないとして、浮気相手といるなど言語道断だ。
政略結婚ならある程度が許されるといっても、結婚する前からこれでは相手の家に対する非礼になる。
それに目を瞑るだけの旨味がなくては婚約の存続は難しい。
問題は我が家にとって、この婚約が私を蔑ろにしていいほどの旨味があるのか?
婚約者を蔑ろにすることは相手方の家を蔑ろにすることでもある。私だけでなく、ソーントン家自体を蔑ろにして、信頼できると思っているのだろうか?
前は婚約者に婚約破棄されて、お父様はあっさりと受け入れたが、今度はどうだろう。
修道院送りにした私を呼び戻してデクラン様のところに嫁がせてくれなかっただけに、悪評のあるなしでお父様がどのような判断をするか、その心中が読めない。
「案外、ミスター・コールリッジはこの婚約を嫌がっているのかもな。親に決められる気持ちはわからなくもないが、安直すぎる。相手の家と結びついてもコールリッジ家にメリットはないんだろ?」
「ああ。ソーントン家とは比べ物にならない。・・・――ソーントンはコールリッジ家に不信を抱いているが、ソーントン卿はコールリッジ卿と親しいからな」
「なら無理か・・・」
ケイレブ様はそう言って意味ありげにデクラン様を見た。ケイレブ様もお兄様のお友達ですから、デクラン様のお気持ちもご存じなんでしょう。
修道院に送られてからのデクラン様の求婚の許可は断られても、今の時点ではどうなのか。婚約者が浮気していると明らかで、私にまったく非がないと思われている今なら。
デクラン様は何もおっしゃらないし、ケイレブ様もそれ以上、この話題を続けずに、帰るまでもどかしいほど長い時間を過ごすことになった。
結果から言えば、この日の嫌がらせを聞いたお兄様のおかげで婚約解消ができた。私の婚約者の浮気についてはお父様も耳にしていたが、我が家を甘く見た嫌がらせを許すほどお兄様のプライドは低くない。
今回は社交界の実力者たちに気に入られていたことで、婚約者の家との繋がりを作るより、彼らの顰蹙を買った婚約者と縁を切ったほうが賢明だと思ったのだろう。事実、お茶会でお父様に「ミスター・コールリッジと結婚させるなんて、ご子息に跡目を譲られたほうがよろしいわよ」と助言したとマダムの一人がこっそり教えてくれた。
お兄様とは相変わらずだけど、お兄様のお友達が来られた時はお茶に呼ばれるようになった。
そして挨拶回りが終わればお兄様のお友達に椅子にエスコートされる。今日はデクラン様だ。
「ねえ、デクラン様。どうして、いつも私を椅子に座らせるの?」
「君は体力がないようだからね」
「え?」
「デビューする前に庭でよく転寝していただろう?」
病弱だと思われていたらしい。
「それは・・・デクラン様の目に留まりたくて・・・」
「え・・・?」
今度はデクラン様が言葉に詰まる。
畳み込もう。
驚いているところに畳み込んでしまおう。
「私、デクラン様のことが好きなんです。幸せにしたいんです」
ここは私とデクラン様だけじゃなく、椅子に座るマダムたちもいる。こんなところで告白するなんて自殺行為だ。修道院送りにはならなくても、何年もここの語り草になるだろう。
それに私のほうからの告白だ。すぐに領地に帰って大人しくしていなければ、恥ずかしくて表に出られないし、お兄様がまた怒るだろう。
聞き耳を立てられているのを承知でデクラン様の返答を待つ。
「それじゃあ、体力がないわけではないんだ」
「休憩しながらなら一晩中踊れます」
フフッとデクラン様が笑う。
「ミス・ソーントン。手始めに三曲続けてお相手していただける幸運をくださいますか?」
三曲続けて踊るということは婚約していることを意味する。つまり、お父様に求婚の許可を取る前に婚約していると周りに思われる状況になるということだ。
後でお父様たちのお叱りを覚悟しなければいけないけど、婚約をなかったことにしたら、お父様たちがデクラン様と私に出し抜かれたことになる。面子がすべての貴族の世界では、娘の手綱を握れない父親は面目丸つぶれだ。女性は父親に従い、夫に従うものだから。
「はい」
もう、デクラン様も子どもたちも日陰を歩くことはない。私たちは胸を張って、この日の当たる場所で生きていける。
最後までお読みいただきありがとうございました。




