1.プロローグ
電車を降りたら、雨だった。今朝、見たニュース番組では、一日を通して晴れると言っていたのに、私が駅を出るのを待ち構えていたかのように、ザーッと降り出した雨は、まだしばらくやむ気配がない。
仕方なく私は、鞄の奥から折り畳み傘を取り出すと、それをさしてアパートの部屋を目ざす。途中、スーパーに寄って、半額の総菜弁当を買った。中華弁当とサラダ。夕飯に食べるには少し重たかったが、部屋に帰ってから冷蔵庫の中身とにらめっこをして、何かを作る気力はなかった。
スーパーを出て五分ほど歩いて、アパートが見えてくる頃には、雨はだいぶ弱まっていた。通り雨なので、駅でやむのを待っていればよかったと思った。濡れた傘を乾かすだけでも大変なのだから。
アパートの明かりが、雨で濡れた地面に反射して、いつもよりも明るく周囲を照らしている。
ふと、アパートの前の道路の真ん中に、何か塊のようなものが見えた。白いゴミ袋のような塊。最近、アパートのゴミ置き場に、収集日とは関係なくゴミを放置していく入居者がいて、どこからともなくやってきたカラスたちが、袋をつついているのをよく見かける。人を少しも恐れないあの獰猛な黒い生き物は、離れたところから見ているだけでも、恐ろしくもある。
見て見ぬふりをしようかと目を逸らそうとしたとき、その白い塊が動いたような気がした。「えっ?」と思わず呟いて、目を凝らしてみると、長い尻尾を持ったそれは、ゴミ袋ではなくて猫だった。
降りしきる雨の中、ずぶ濡れになって道路にうずくまっている。私の気配に気づいた猫は、雨に濡れて小さくすぼんだ顔を私の方に向けて、必死に何かを訴えていた。ケガでもしているのだろうか。考えてみれば、この住宅街の道路は、ときおり仕事帰りの車が通る。「もしかして、轢かれたのかしら?」と思った私は、恐る恐るその白い猫に近づいてみた。
全身、びしょ濡れになった猫は、私が近寄るのに気づいてゆっくり立ち上がると、そのまま私の足元に近づいてくる。歩き方を見ていると、どうやら轢かれたのではないらしい。そして、お決まりの足元にすりすり。人慣れした猫だった。だけど、この雨の中、こんなところに丸まっていたなんて、一体どうしたのだろう。
そう首を傾げた次の瞬間に、私はその猫を抱きかかえると、アパートの部屋に連れて行っていた。他の入居者に見られないように、周囲に細心の注意を払いながら。『ペットの飼育禁止』の貼り紙の横を通り過ぎると、郵便ポストの中から無造作に入れられた大量のチラシを取り出して、一階の一番奥の部屋へと向かう。
そして、玄関の三和土に猫を降ろすと、私は急いでタオルを取って戻ってきた。タオルで拭くだけでは心もとなかったので、ドライヤーで乾かしてあげた。吹き出し口から出る温風が気持ちいいのか、猫はうっとりと目を細めている。
「猫って、何を食べるんだったかな」
そう自分に訊いた私は、レンジで温めた牛乳をあげた。初めは、不審そうに鼻を近づけてクンクンと匂いを嗅いでいたが、それが飲み物だとわかったのか、ペロペロと舌をうまく使って飲み始める。よほどお腹が空いていたのか、まだもの足りなさそうにしていたので、冷蔵庫の中に残っていたソーセージをあげてみる。匂いを嗅ぐのはさっきと同じだったが、今度はすぐに食べてくれた。
「あぁ、よかったぁ」
と、胸を撫で下ろす私。
改めて体を観察してみると、全身のほとんどを白い毛で覆われた猫だった。ちぎれかけた赤い首輪をはめているということは、誰かに飼われていたのだろうか。背中の部分に、黒い大きな円の模様がある。半径二センチメートルほどのきれいな形の丸。
「丸い模様だから、『まる』だね」
私は、背中をさすりながら、話しかけていた。まるは、安心したかのように仰向けに寝そべると、尻尾を揺らせながら、いつまでも私に優しいまなざしを見せていた。




