第32話 治療神器だった少女は、四百年かけて病そのものになりました
「一人が目を覚ましたなら、エイルも放ってはおけないはずだ」
通信が切れたあと、俺は第六収容区画の立体図を見ながら言った。
区画内に残っている生命反応は二百八十六。
先ほどまで存在していた一つの反応は、死亡の兆候を示すことなく、監視範囲から消えている。通信の向こうから聞こえた若い男の声を考えれば、生命維持装置から自力で抜け出した可能性が高い。
「だからといって、扉を開けるのは反対だぞ」
デニスが念を押す。
「開けない。まず、通信を直す」
「エイルは自分で切ったんだろう。直すというより、勝手に繋ぐことにならないか?」
「そこは俺も気になってる」
「今さらか?」
「今さらじゃない。だから、こちらから呼び出す方法じゃなく、向こうが応答するかどうかを選べる通信機を作る」
「そんなことができるのか?」
俺はアリアへ目を向けた。
「第六区画の外壁に、隔離患者用の診療鏡があります」
アリアが立体図の一部を拡大する。
「物理的な空気経路を持たず、光と魔力振動のみで映像と音声を送受信する装置です。外部側の機構が破損していますが、修復可能と推定します」
「病が光や魔力を通して感染する可能性は?」
デニスがすぐに尋ねる。
「《灰紋病》の正確な感染経路は不明です。しかし、診療鏡には十二層の遮断術式があり、患者側の魔力情報を無害な光へ変換して表示します。設計上、感染物質が外部へ移動することはありません」
「設計どおりなら、だろ」
「はい」
「四百年壊れていた物を直すんだ。見落としがあるかもしれない」
「その可能性は否定できません」
「どれくらいだ?」
「現時点では算出できません」
「数字が出ないなら、安全とは言えないな」
「デニス」
ミラが心配そうに呼びかける。
「最初から全部に反対するつもりなの?」
「反対するために聞いてるんじゃない」
デニスは苛立った顔で答えた。
「安全だと言われたら、どう安全なのかを聞いてる。俺が聞かなかったから、あとで子供に何かあっても仕方ないとは思えないんだ」
「でも、その聞き方だと、アリアを責めているみたいに聞こえるわ」
「責めてない。危ないかもしれないって言ってるだけだ」
「責めていないつもりでも、毎回答えを疑われれば、言われた側は責められていると感じることもあるでしょう?」
「じゃあ、どう聞けばいいんだよ。信じて黙ってろっていうのか?」
「そうは言ってないわ」
「二人とも、少し待ってくれ」
俺が割って入る。
ミラはアリアを庇いたい。デニスは村を守りたい。どちらも相手を黙らせたいわけではないのに、言葉だけが互いの怖いところへ刺さっている。
「アリア。デニスに聞かれて、責められていると感じたか?」
「不快感に近い反応はありました」
正直な答えに、デニスの顔が強張った。
「悪かった。そんなつもりじゃ——」
「ただし、質問は必要です」
アリアが続ける。
「私の記録と人格には欠損があります。私自身が安全と判断しても、その根拠に不足がある可能性は否定できません。デニスが疑問を提示することで、見落としが判明することもあります」
「では、このまま聞いていいのか?」
「はい。ただし、私の回答を疑う場合は、可能であれば疑う根拠も提示してください。すべてを疑われると、どの部分を再検証すればよいか判断できません」
「……わかった。気をつける」
「私も、答えを急がず再確認します」
ミラが二人を見比べた。
「私が口を挟んだせいで、余計に話が長くなったかしら」
「いや」
デニスは後頭部を掻いた。
「自分の言い方がきついことには、たぶん一人じゃ気づかなかった」
「私も、あなたが何でも反対したいわけではないとわかっているつもりだった。でも、アリアが責められているように見えて、腹が立ったの」
「だったら、次はもっと早く言ってくれ。あとから機嫌を悪くされるほうが困る」
「言えば、面倒そうな顔をするでしょう?」
「する。でも、聞かないとは言ってない」
「そういうところが面倒なのよ」
「ミラにだけは言われたくない」
「夫婦喧嘩は、区画の修理が終わってからにしな」
ハンネ村長が杖で床を鳴らす。
「夫婦じゃありません!」
二人の声が揃った。
近くで聞いていたニコが、不思議そうに首を傾げる。
「でも、いつも一緒にいるよ?」
「ニコ。その話は外でしよう」
ミラが息子の肩を押し、管制室の外へ連れ出す。
デニスは何か言いたそうにしていたが、結局、黙って立体図へ向き直った。
「診療鏡を直した場合、区画側で応答するかどうかはエイルが選べるんだな?」
「はい。外部から一方的に映像を取得することはできません」
「空気も水も通らない?」
「通りません」
「修理中に扉や換気機構へ触れる必要は?」
「ありません」
デニスはしばらく考え、頷いた。
「なら、通信機の修理までは反対しない」
「許可を出すのはデニスじゃないけどな」
「わかってる。俺は反対しないと言っただけだ」
「そういう細かいところを言うから、話が長くなるんだよ」
「細かいところを曖昧にすると、あとで俺が決めたみたいに言われるだろ」
「二人とも似ていますね」
セラの感想に、俺とデニスは同時に顔をしかめた。
◇
第六収容区画へ続く通路は、地下居住区のさらに下にあった。
長い階段を降りるほど空気が冷たくなり、壁に灯る導光石の数も減っていく。これまで足を踏み入れた区画と違い、床にも壁にも埃がほとんどなかった。
「どうして、ここだけきれいなんだ?」
ガルドが尋ねる。
「隔離用の清浄術式が、低出力で現在も稼働しています」
アリアが答える。
「埃や微生物を外壁へ定着させない設計です。ただし、内部側の清浄機能は停止しています」
「外はきれいで、中だけ汚れてるってことか」
「表現は適切ではありませんが、おおむね正しいです」
「エイルは、四百年もその中にいるんだよな」
「はい」
通路の最深部には、黒い金属で作られた巨大な隔離扉があった。
高さは五メートル以上。中央には両開きの扉があり、その外側を何重もの封印環が覆っている。
扉の周辺だけ、壁へ無数の傷が残っていた。
「内側からついた傷か?」
ガルドが指を伸ばしかける。
「触るな」
デニスが止めた。
「外側の傷だろうと、病が残っているかもしれない」
「さすがに四百年も外にあった傷から感染しないだろ」
「わからないなら触るな」
「……わかったよ」
「意外と素直だな」
「お前の子供に何かあったら、俺だって寝覚めが悪いんだよ」
「自分が感染する心配をしろ」
「それもしてる。最初に子供を出したほうが、聞き分けがいいと思っただけだ」
「やり方が汚い」
「効いただろ?」
「効いたから腹が立つんだ」
診療鏡は扉から十メートルほど離れた壁へ埋め込まれていた。
表面は曇り、周囲の術式板は三分の一以上が割れている。俺が触れると、診療鏡が見てきた最後の記憶が流れ込んできた。
外側に立つ白衣の治療師。
鏡の向こうで泣いている患者。
『すぐに迎えに来る』
『嘘をつかないで。みんな、同じことを言って帰った』
『私は必ず戻る』
治療師は戻らなかった。
外側から診療鏡の術式が壊され、映像も音声も途絶えた。
「誰かが故意に壊した」
「教会ですか?」
マティアス司祭が尋ねる。
「記憶に残ってる服装だけではわからない。白い治療服だった」
「教会の医療神官も白衣を着用します。しかし、フェルムの治療師も同じ服装だった可能性があります」
「教会がやったことにしたくないの?」
ネフェルが冷たい声で尋ねる。
「そう聞こえたのであれば、申し訳ありません」
「あなたは、すぐに謝るのね」
「今は何を言っても、言い訳に聞こえると思いますので」
「それも言い訳に聞こえるわ」
「では、どう答えればよいのでしょう」
「自分で考えて」
「……努力します」
診療鏡の修復に必要なのは、透明な導魔結晶と銀線だった。
幸い、扉の外側にある予備保管庫は封鎖区画と分離されており、未使用の部品が残されている。結晶の欠けた部分を補い、切れた銀線を繋ぎ直す。
ヘスティアが割れた術式板を火で温めながら、鼻を鳴らした。
「この子、まだ生きてるね」
「診療鏡が?」
「うん。怖がってる」
「道具が怖がるの?」
ネフェルが尋ねる。
「最後に話した人が泣いてたから、その続きを聞くのが怖いんだと思う」
「でも、聞きたいのでしょう?」
「そうみたい」
ヘスティアは診療鏡の縁を撫でた。
「怖くても、話を繋ぎたいんだね。面倒だね」
「誰かに似たのかもしれないな」
「ラウル?」
「俺じゃなくて、ここにいた人たちだよ」
修復を終え、診療鏡へ魔力を流す。
曇っていた表面が、ゆっくりと透明になった。
最初に映ったのは、暗い部屋だった。
壁際へ並んだ無数の透明な寝台。その中で、人影が眠っている。
手前には、白い髪の少女が座っていた。
見た目は十四、五歳ほど。白い医療衣をまとい、細い腕で自分の身体を抱えている。肌の右半分には、灰色の植物の蔓を思わせる紋様が広がっていた。
「エイル?」
俺が呼びかける。
少女が顔を上げる。
左目は淡い緑色だったが、灰色の紋様に覆われた右目は、濁った銀色へ変わっていた。
『診療鏡を直したのですか』
「ああ。扉には触れてない。応答するかどうかは、エイルが決められる」
『応答しないこともできます』
「できる」
『それでも、あなたたちは呼びかけ続けるのでしょう?』
「一人が目を覚ましたことまで、なかったことにはできないからな」
『目を覚ました者はいません』
「さっき声を聞いた」
『診療鏡の故障による雑音です』
「人の声を雑音扱いするなよ」
ガルドが口を挟む。
『外部の者には関係ありません』
「関係あるかどうかは、話を聞いてから決める」
『あなたは勇者ですか』
「元勇者パーティーの荷物持ちだ」
『記録と一致しない肩書きです』
「最近変わったんだよ」
『ならば、さらに関係ありません』
「どうして、そこまで目を覚ました相手を隠す?」
俺の問いに、エイルは目を逸らした。
「その人は病を持っているのか?」
『ここに病を持っていない者はいません』
「エイル自身も?」
『私が最も危険です』
彼女は灰色の紋様に覆われた右手を持ち上げた。
『私は本来、患者の病、毒、呪いを治療核へ移し、浄化炉へ送るための神器でした』
「病を自分へ移すのか?」
『正確には、一時的に治療核へ保存します。保存した病は浄化炉で分解され、無害な魔力へ変換されます』
アリアが、第六医療区画の古い構造図を投影する。
「本来、治療核と浄化炉は二重の循環経路で接続されています。しかし現在、浄化炉に該当する設備が存在しません」
「持ち去られました」
エイルが言った。
「誰に?」
『教会です』
マティアス司祭が息を呑む。
『四百十二年前、教会の医療神官が第六区画へ来ました。灰紋病の治療を支援すると言い、浄化炉の状態を確認した。その夜、浄化炉だけが区画から切り離されました』
「浄化炉を持ち去ったら、どうなる?」
『私が吸収した病を、外へ出せなくなります』
「それでも治療を続けたのか?」
『止めれば、目の前の患者が死にました』
エイルは、何でもないことのように答えた。
『一人目から病を移しました。次に二人目。その次は四人。日ごとに患者が増え、私は受け入れ続けました』
「浄化できないとわかっていて?」
『わかっていました』
「治療核が限界になることも?」
『はい』
「どうして止めなかった?」
『止める患者を選べなかったからです』
エイルは背後に並ぶ寝台へ目を向けた。
『最初に運び込まれたのは、人間の兵士でした。次に負傷した魔族兵。そのあとに獣人の避難民、教会から異端指定を受けた薬師、戦場から逃げた兵士、盗賊、子供、老人が来ました』
「魔族もいるのか?」
デニスが低い声で尋ねる。
『はい。収容記録では、人間百四十三名、魔族七十九名、獣人とその他の亜人四十一名。種族不明が二十四名です』
「敵同士を、同じ区画へ入れたのか?」
『病は種族を区別しません』
「患者同士で争わなかった?」
『争いました。寝台を奪おうとした者も、過去の戦いを理由に治療を拒否した者もいます。人間を先に治せと言う者も、魔族を見捨てるなら自分も治療するなと言う者もいました』
「エイルは、どうしたの?」
ネフェルが尋ねる。
『全員を治療しました』
「それのどこが悪いの?」
『正しい人間だけを救べませんでした』
「正しい人間?」
『教会の医療神官は、人間の民間人と教会兵を優先し、魔族と異端者の治療を停止するよう命じました。従えば、浄化炉を返すと言われました』
「それで拒んだのか?」
『私は患者を分類できませんでした』
エイルの声には、誇りではなく後悔が滲んでいた。
『昨日まで誰かを殺していた兵士。子供を守って負傷した盗賊。敵兵へ水を与えた魔族。病人から薬を盗んだ母親。誰が正しく、誰が間違っているのか、私には判断できなかった』
「だから全員を救った」
『違います。全員を区別せず、私の病を広げたのです』
「どういうことだ?」
『治療核へ蓄積された病は、やがて混ざり始めました。一人の毒が、別の者の呪いへ反応した。人間の祝福術式と魔族の強化魔術が結合し、新しい症状を作った。私が患者へ触れるたび、治療ではなく別の病を渡すようになりました』
灰色の紋様が、エイルの頬で脈打つ。
『《灰紋病》という単独の病原体が存在するわけではありません。ここに集められた病、毒、呪い、術式が、私の治療核の中で一つになったものです』
「だから、自分が病を作ったと思っているのか?」
『思っているのではありません。事実です』
「浄化炉を持ち去られなければ、混ざらなかったんじゃないか?」
『それでも、処理できないと理解した時点で治療を停止すべきでした』
「止めれば、患者が死んだ」
『はい』
「続ければ、病が混ざる」
『はい』
「どっちを選んでも、誰かが死んだんだろ」
『だからといって、私の選択が正しくなるわけではありません』
ネフェルが診療鏡へ近づいた。
「エイル。あなたは、自分で選んだと思っているの?」
『選びました』
「ほかに選べる道がなかったのに?」
『選択肢はありました。教会の命令に従い、魔族と異端者を治療対象から外せばよかった』
「それを選べなかったのでしょう?」
『選ばなかったのです』
「同じことよ」
『違います』
エイルの声が、初めて強くなる。
『私が被害者だったことにすれば、患者をこの状態にした責任まで消えるのですか。教会に浄化炉を奪われたから仕方なかった。患者を選べなかったから仕方なかった。そう言い続ければ、私は何も悪くないことになる』
「何も悪くないとは言っていないわ」
『では、何が言いたいのです』
「全部自分が悪いことにするのも、責任から逃げる方法になると言いたいの」
エイルが黙った。
「自分だけが悪いことにすれば、ほかの人が何をしたか考えなくて済む。浄化炉を奪った教会も、治療する人を選べと言った神官も、あなたへ全部押しつけて逃げられる」
『私は逃げていません』
「自分をここへ閉じ込めて、一人で終わらせようとしているでしょう?」
『扉を開ければ病が広がります』
「それは事実かもしれない。でも、誰にも相談させず、二百八十七人と一緒に死ぬと決める権利まで、あなた一人にあるの?」
『患者たちは、自分で決められる状態ではありません』
「だから、管理者のあなたが代わりに決めるの?」
ネフェルの言葉に、俺は少し驚いた。
水門から外れたばかりの彼女も、自分が戻ればすべて済むと考えていた。今、エイルが同じことをしていると気づいたのだろう。
『風雨琴ネフェル。あなたは外へ出られたから、そのようなことが言えるのです』
「そうね。外にいるから言っている。私も水門にいた頃なら、きっとあなたと同じことを言ったわ」
『なら、理解してください』
「理解しているから、放っておきたくないの」
エイルは診療鏡の向こうで目を伏せた。
やがて、小さな声で呟く。
『私は、助けてほしいわけではありません』
「それは何度も聞いた」
俺が答える。
「じゃあ、何のために救難信号を出した?」
『……患者名簿を残すためです』
「名簿?」
『第六区画の記録は、外部から消されています。私たちがここで停止すれば、二百八十七名は、最初から存在しなかったことになる』
「その人たちがいたことを、誰かに知ってほしかった?」
『救助ではありません。記録を依頼したかっただけです』
「それなら、最初からそう言えばいいだろ」
『名簿を受け取れば、あなたたちは患者を知る。名前を知れば、助けようとするかもしれない』
「助けられるのも困る。でも忘れられるのも嫌だったのか?」
『……はい』
「面倒だな」
『自覚しています』
「名簿は受け取る。でも、それだけで終わるとは約束できない」
『扉は開けないでください』
「今は開けない。ただ、浄化炉を戻す方法があるか調べたい」
『ありません』
「どうして言い切れる?」
『浄化炉は教会に持ち去られました。現在も残っている保証はありません』
マティアス司祭が、ゆっくりと口を開いた。
「教会の記録で、《異端医療炉》という名称を見たことがあります」
エイルの左目が大きく開かれる。
『どこで』
「王都の聖務院地下です。危険な呪詛を焼却する設備として保管されていると」
『それが、私の浄化炉である証拠はありません』
「保管年代は四百十二年前。搬入元の記録は削除されていました。可能性はあります」
『教会の者が、なぜそれを話すのです』
「私はすでに、教会の命令でネフェルを再び拘束しようとしました。だから信用してほしいとは言いません。ただ、知っていることを黙れば、また同じ側へ戻ることになる」
『あなたが黙っていても、私は困りません』
「そうでしょうね。ですが、私が困ります」
「自分のためなの?」
ネフェルが尋ねる。
「はい。自分が少しましな人間だと思いたい。そのために話しました」
「正直だけれど、あまり格好よくないわね」
「今は、それで構いません」
エイルの灰色の右目が、マティアスを見つめた。
『浄化炉が残っていたとしても、ここへ運ぶ前に私の治療核は停止します』
「なら、同じ機能を持つ物をここで作る」
ヘスティアが診療鏡の前へ出た。
『あなたは?』
「ヘスティア。フェルムの炉」
『中央炉心管理神器……』
「病を燃やす炉も、わたしの火から分けたはず。全部は無理でも、構造を見れば作れるかもしれない」
『子供の姿をしたあなたへ、何ができますか』
「四百年寝てたのに、人を見た目で決めるの?」
『私は寝ていません』
「なら、余計に知ってるでしょ。見た目と役目は同じじゃない」
ヘスティアは少し怒った顔をしていた。
「病を食べさせておいて、出口の炉だけ持っていくなんて、ひどいよ。食べたものを出せなければ、お腹が壊れるのは当たり前」
「もう少し別の言い方はなかったのか?」
俺が尋ねる。
「わかりやすいでしょ?」
『……否定はしません』
「だから、一緒に出口を作る。扉を開けなくても、外から繋げられる場所を探す」
『私の治療核は、修復できる状態ではありません』
「それはラウルが見る」
『扉を開けなければ見られません』
「だから、扉を開けてもいい方法を先に作る」
『話が最初へ戻っています』
「最初と同じところを、少しずつ違う方法で回ってるんだよ」
ヘスティアの言葉に、エイルは返事をしなかった。
そのとき、診療鏡の向こうから金属の擦れる音が聞こえた。
エイルが勢いよく振り返る。
『来ないでください』
暗闇の中で、何かが動いていた。
「目を覚ました人か?」
『違います』
『違わない』
若い男の声が答えた。
寝台の間から、一つの人影が現れる。
細い身体に、破れた患者衣。頭には、黒い角が一本だけ残っている。もう一方は途中から折れ、顔から首へ灰色の紋様が広がっていた。
魔族の少年だった。
『ノア、戻ってください』
「その子が、消えた一人か?」
『答えません』
『そうだ』
少年が自分で答える。
『生命維持装置を外した。あのまま眠っていたら、また何百年経っても起こしてもらえないと思ったからな』
『今すぐ戻りなさい。あなたの症状は安定していません』
『四百十二年寝た。もう十分だ』
『あなたが動けば、灰紋病が区画内へ広がります』
『とっくに広がってるだろ』
ノアは足を引きずりながら、診療鏡へ近づいてくる。
その途中で大きく咳き込み、灰色の粉のようなものを吐いた。
床へ落ちた粉から、細い紋様が周囲へ伸びていく。
「ノア。俺たちは外から話してる。扉は開けてない」
『外に、人がいるのか』
「ああ。助ける方法を探してる」
『やめたほうがいい』
『ノア!』
エイルが少年の前へ立つ。
『それ以上、外部の者と話してはいけません』
『どうしてだ。四百年も待ったんだぞ』
『彼らを感染させるわけにはいきません』
『鏡越しに病は移らない。お前がさっき言ってた』
エイルの表情が強張った。
『聞いていたのですか』
『ずっとな』
ノアは彼女の肩越しに、俺たちを見る。
『外の修理屋。聞こえるか』
「聞こえてる」
『扉を開けろとは言わない。今のまま開けたら、お前たちも終わる』
少年は灰色の紋様に覆われた胸を押さえ、苦しそうに息を吸った。
『でも、俺はもう眠らない』
彼の背後で、生命維持装置の警告音が鳴り始める。
『エイル。俺をまた寝台へ戻すなら、今度は抵抗する』
『あなたを守るためです』
『それを決めるのは、もう俺じゃないのか?』
診療鏡のこちら側で、誰も言葉を返せなかった。
四百十二年間、患者を守り続けた治療神器と、四百十二年ぶりに自分の意思で目覚めた少年。
扉を開けないまま残された時間は、俺たちが思っていたよりも短かった。




