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第1話 聖剣が折れた日

 聖剣が泣いていた。




 もちろん、涙を流していたわけではない。




 刃の奥で、きい、きい、と細い音が鳴っている。普通の人間には聞こえないほど小さな悲鳴だ。だが、勇者パーティーで三年間も武器の整備を任されてきたラウルには、それが何を意味する音なのか分かっていた。




「ユリウス、待ってくれ。その剣を使うな」




 仲間たちが灼熱竜の眠る広間へ踏み込もうとするなか、ラウルは勇者の肩をつかんだ。




 ユリウスが苛立たしそうに振り返る。




「今度は何だ、ラウル。砥ぎが足りないだの、魔力の流し方が乱暴だの、さっきから文句ばかりじゃないか」




「文句を言っているんじゃない。止めているんだ。聖剣の刀身に亀裂が入っている。ここで全力の魔力を通したら、十中八九、折れるぞ」




「亀裂? どこにある」




「内部だ。表面からは見えない。だが、刃の中央あたりで魔力の流れが引っかかっている。耳を近づければ、普通の人間にも――」




「聞こえない」




 ユリウスはラウルの手を振り払った。




「何も聞こえないし、亀裂も見えない。お前は毎回そうだ。決戦の前になると、あれを替えろ、これを休ませろと騒ぎ出す。武器は使うためにあるんだぞ。飾って眺めるためじゃない」




「使うなとは言っていない。三日くれれば直せると言っている」




「三日?」




 燃えるような赤い髪を持つ女魔術師ヴァレッタが、露骨に嫌そうな顔をした。




「冗談でしょう。ここまで来るのに、どれだけ食料を使ったと思っているのよ。灼熱竜が目を覚まして巣を移したら、また山中を捜し回ることになるのよ?」




「食料なら二日分は余裕がある。帰り道で狩りをすれば――」




「その狩りをするのは私たちなの。あなたは後ろで荷物を持っているだけだから、簡単に言えるんでしょうけど」




「ヴァレッタ」




 聖女マリエルが小さくたしなめたものの、ヴァレッタは肩をすくめただけだった。




 ラウルは言い返しかけて、やめた。




 武器の整備をしているところを、仲間たちはほとんど見たことがない。彼らが眠っている間に刃を砥ぎ、革紐を交換し、魔力回路の焼きつきを取り除いてきたからだ。




 眠る時間を削って働いたことを、いちいち恩に着せるつもりもなかった。




 ただ、その結果、彼らは武器というものは何をしても壊れないのだと、本気で思い始めていた。




「ユリウス、これで三度目だ」




 ラウルは静かに言った。




「山へ入る前にも止めた。洞窟の入口でも止めた。さっき野営したときにも、せめて一晩預けてくれと頼んだ。それでもお前は聞かなかった。灼熱竜を倒すことに反対しているんじゃない。聖剣を壊したくないと言っているんだ」




「それなら、なぜ昨日のうちに直さなかった」




「預けてくれなかっただろう」




「俺には毎朝、剣を使った鍛錬がある。勇者が剣を振れなくなれば、勘が鈍る」




「一日振らなかったくらいで鈍る勘なら、聖剣に頼って灼熱竜と戦うべきじゃない」




 一瞬、空気が凍った。




 ヴァレッタが「あああ」と言いながら額を押さえ、巨漢の戦士ガルドが気まずそうに顔をそむける。




 ユリウスは怒鳴らなかった。




 ただ、口元だけで笑った。




「そうか。お前は俺を、その程度の勇者だと思っていたんだな」




「話をすり替えるな。俺は剣の話をしている」




「同じことだ。俺がこの剣を扱いきれないと言いたいんだろう?」




「扱えていないから亀裂が入ったんだ。毎回、限界以上の魔力を流している。聖剣だから耐えてきただけで、普通の剣なら十本は折れている」




「なら、今日も耐える」




「ユリウス」




「話は終わりだ」




 ユリウスは背を向け、白銀の聖剣を抜いた。




 刃に青白い光が走る。その美しさにヴァレッタは満足そうに笑い、ガルドも大斧を構えた。




 マリエルだけが、その場に残っていた。




「ラウルさん」




 彼女は困ったように胸元で指を組んだ。




「本当に、折れてしまうのですか?」




「分からない」




「先ほどは十中八九と……」




「俺が間違っているかもしれない。間違っていたら、いくらでも謝る。臆病者だと笑われてもいい。だから、君からも止めてくれないか。ユリウスは俺の話を聞かなくても、君の話なら聞く」




 マリエルはユリウスの背中を見た。




 幼い頃から一緒に育ったという二人の間には、ラウルには踏み込めないものがある。仲間であり、聖女と勇者であり、そしておそらく、本人たちも認めようとしない別の感情があった。




「今日、灼熱竜を討伐できなければ、王都の凱旋式に間に合いません」




「剣より式が大事なのか」




「そういう意味ではありません。ただ、陛下も、教会の皆様も、ユリウスが灼熱竜を討つと信じています。ここで帰れば、彼はまた臆病者だと……先代勇者の息子というだけだと、そういうことを言われてしまいます」




「だから剣が壊れるまで戦わせるのか?」




「壊れると決まったわけではないのでしょう?」




 マリエルは、そう言ってから目を伏せた。




 その声に悪意はなかった。




 悪意がないからこそ、ラウルは何も言えなくなった。




「始めるぞ!」




 ユリウスの声が広間に響いた。




 灼熱竜が目を覚ました。




 岩山と見間違うほど巨大な胴体が動き、赤黒い鱗の隙間から炎が噴き出す。地面が揺れ、天井から石片が降り注いだ。




 ガルドが雄叫びを上げて前へ出る。その大盾に灼熱の息が激突し、ヴァレッタが広げた氷の障壁が炎を左右へ受け流した。




 戦いが始まってしまえば、ラウルも見ているだけではいられない。




 予備の短剣を投げ、ユリウスへ飛びかかろうとした小型竜の目を潰す。切れかけたガルドの盾の革紐を、その場で応急処置する。魔力を使いすぎたヴァレッタの杖から冷却石を外し、新しいものへ交換する。




 その間にも、聖剣の悲鳴は大きくなっていた。




「ユリウス! もう聖剣を使うな! 予備の剣を投げる!」




「必要ない!」




「次の一撃には耐えられない!」




「黙って見ていろ!」




 ユリウスが高く跳び上がった。




 聖剣が太陽のように輝く。




 あれは勇者にしか使えない必殺剣だった。聖剣に全魔力を注ぎ込み、巨大な光の刃を作り出す。並の魔物なら、山ごと両断するほどの威力がある。




 だが、今の聖剣に耐えられるはずがなかった。




「やめろ、ユリウス!」




「これが勇者の一撃だ! ――《暁天断》!」




 光が灼熱竜の首を貫いた。




 白い閃光が広間を埋め、遅れて凄まじい轟音が襲ってくる。灼熱竜の巨体が傾き、地面を揺らして倒れた。




 竜の首は半ばまで断ち切られていた。




 誰が見ても、勇者の勝利だった。




「やった……」




 マリエルが安堵の息を漏らした。




 ヴァレッタが歓声を上げ、ガルドは大斧を放り出してその場に座り込んだ。




 ユリウスは竜の死骸の上に立ち、光を失った聖剣を高く掲げようとした。




 そのときだった。




 澄んだ音がした。




 あまりにもきれいな音だったので、最初は誰も、それが何の音なのか分からなかった。




 聖剣の刀身が中央から折れた。




 剣先が岩の上に落ち、何度か跳ねてから、ラウルの足元へ滑ってくる。




 歓声が消えた。




 ユリウスは、柄だけになった聖剣を見つめていた。




「……ラウル」




 呆然とした声だった。




「なぜ、直しておかなかった?」




 ラウルは返事ができなかった。




 怒りより先に、ひどい疲れが押し寄せた。




「答えろ!」




「三度、止めた」




「お前は武器の修理係だろう! 壊れると分かっていたなら、なぜ直さなかった!」




「だから預けろと言ったんだ!」




「言い訳をするな!」




 ユリウスが胸ぐらをつかんできた。




 戦いを終えたばかりの手は、震えていた。怒っているからではない。自分が聖剣を折ったという事実を、どう扱えばいいのか分からないのだ。




 王国の象徴であり、歴代の勇者へ受け継がれてきた聖剣。




 それを壊したとなれば、ユリウスの名声どころの話では済まない。




「俺が壊したことにするつもりか」




 ラウルが尋ねると、ユリウスの指がぴくりと動いた。




「何を言っている」




「お前は聖剣が壊れるまで使った。俺は止めた。マリエルも聞いていた。全員が見ていた。それでも俺のせいにするのかと聞いている」




「整備を任されていたのはお前だ」




 先に答えたのはヴァレッタだった。




「戦っている最中に武器が壊れたのなら、整備を担当した人間の責任でしょう? ユリウスは灼熱竜を倒したのよ。今さら、必殺剣を使うべきではなかったなんて言えるわけがないじゃない」




「言えるわけがないんじゃない。言いたくないだけだろ」




「何ですって?」




「自分たちが間違えたと認めたくない。だから、戦わない俺に全部かぶせようとしている」




 ラウルはマリエルを見た。




 彼女は泣きそうな顔をしていた。




「マリエル。俺が止めたのを聞いていただろう」




「……聞きました」




「なら、説明してくれ」




「でも、ラウルさんがもっと強く止めてくださっていたら……」




 その言葉を聞いた瞬間、何かが切れた。




 怒鳴りたいわけではなかった。罵りたいわけでもない。




 ただ、もう何も言う気になれなかった。




「そうか」




「ラウルさん、私は、あなたを責めたいのではなくて――」




「もういい」




 ユリウスの手を外し、ラウルは足元に落ちた剣先を拾った。




 まだ熱を持っている。亀裂は刀身の奥深くまで走り、魔力回路も焼き切れていた。それでも、完全に直せない状態ではない。




 時間と素材さえあれば、必ず直せる。




「何をしている」




「回収している。破片がそろっていれば修理できる」




「触るな!」




 ユリウスがラウルの手を払いのけた。




「お前にはもう任せられない。王都へ戻り、教会の聖具技師に修理させる」




「教会の技師には直せない。表面だけ繋げても、内部の魔力回路までは――」




「黙れ。お前は今日限りで追放だ」




 ユリウスは言い切った。




 長い付き合いだった。




 三年前、まだ無名だったユリウスたちと出会い、金のない彼らの武器を無償で直した。初めて大型魔物を倒した夜には、安酒を一本だけ買って、五人で回し飲みした。




 あの頃のユリウスは、剣の手入れをするラウルの隣に座り、いつも面倒をかけて悪いと笑っていた。




 どこで変わってしまったのだろう。




 あるいは、変わったのはユリウスだけではないのかもしれない。




「分かった」




 ラウルは背負っていた荷物を下ろした。




「予備武器、食料、薬、天幕。パーティーの金で買った物は全部ここに置いていく。ただし、俺が自分の金で買った工具は持っていく」




「勝手にしろ」




「それから、未払い分の報酬をくれ。二か月分だ」




 ユリウスの顔が歪んだ。




「聖剣を壊しておいて、報酬を要求するのか?」




「働いた分を払えと言っている」




「今回の損害で相殺だ」




「聖剣は俺が壊したんじゃない」




「まだ言うのか!」




 ユリウスが再び声を荒らげた。




 ラウルはしばらく彼を見つめ、それから小さく息を吐いた。




「なら、あれをもらう」




 指差したのは、岩の上に落ちている聖剣の剣先だった。




「どうせ教会は、新しい聖剣を用意する。壊れた方は不吉だと言って処分するはずだ。報酬の代わりに、俺へ渡せ」




「好きにしろ。そんな鉄くず、二度と見たくもない」




 ユリウスは吐き捨てた。




 ラウルは折れた刀身と、ユリウスが投げ捨てた柄を拾った。布で包み、工具と一緒に背負う。




 マリエルが一歩近づいてきた。




「ラウルさん。本当に、一人で帰るのですか?」




「追放されたからな」




「そうではなくて……山を下りるまでは、一緒にいた方が安全です。ユリウスも今は気が動転していますし、王都へ戻れば、きっと落ち着いて話し合えます」




「それで俺が戻ったら、聖剣を壊した責任を認めたことにされるんだろう」




「そんなつもりではありません」




「君にはなくても、教会にはある」




 マリエルの顔を見ていると、責める気持ちさえ薄れていった。




 彼女は優しい。




 誰かが明確に助けを求めれば、傷を治し、食べ物を与え、祈ってくれる。だが、誰かを助けるために別の誰かへ逆らわなければならないとき、彼女は決まって黙る。




 優しい人間と、勇気のある人間は同じではない。




「今まで世話になった」




「待ってください、ラウルさん」




「マリエル。次にユリウスが武器を壊しそうになったら、俺ではなく武器の味方をしてやってくれ」




 それだけ告げて、ラウルは広間を出た。




 背後から呼び止める声は、もう聞こえなかった。




 暗い洞窟を一人で歩きながら、ラウルはこれからのことを考えた。




 金はない。食料もほとんどない。勇者パーティーを追放された修理係など、王都の工房では雇ってもらえないだろう。教会が聖剣を壊した罪を正式に押しつけてくれば、犯罪者にされる可能性さえある。




「参ったな」




 誰に聞かせるでもなく呟いた。




「せめて二か月分は払ってくれよ。あいつ、金の話になると昔から細かいんだ」




 少しだけ笑おうとしたが、うまくいかなかった。




 そのとき、背負った布包みの中から声がした。




『……いたい』




 ラウルは足を止めた。




 洞窟には誰もいない。




 振り返っても、暗い通路が続いているだけだった。




『いたい……捨てないで……』




 今度は、はっきりと聞こえた。




 声は背中から――折れた聖剣から聞こえている。




 ラウルはゆっくりと荷物を下ろし、布包みを抱き上げた。壊れた刀身が震えているような気がした。




「ああ。痛いよな」




 返事をすると、剣の震えが止まった。




「分かっている。今まで気づいてやれなくて悪かった」




『……あなた、は……?』




「俺はラウル。今日から無職になった、ただの修理屋だ」




 自分で言って、今度は少しだけ笑えた。




 ラウルは布の上から折れた聖剣を撫でた。




「心配するな。お前は鉄くずなんかじゃない。時間はかかるかもしれないが、俺が必ず直してやる」




 暗闇の中で、折れた聖剣が淡い光を放った。




 それは、三年間仕えてきた勇者にも一度として見せたことのない、温かく穏やかな光だった。

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