幕間 十年の先で
最後の客人を見送ると、カティア・ヴァレンティナは応接室をあとにした。
深紅の髪を背に流し、穏やかな微笑を崩さない姿は、誰が見ても侯爵家の令嬢にふさわしい。
体調を崩しがちな父に代わり、客人を迎え、家としての姿勢を示すことも、今では彼女の日常になっていた。
若く、聡明で、剣も魔術も修め、軍務院にも席を持つ侯爵令嬢。
周囲は惜しみなく称賛したが、その言葉はいつも次の役目を連れてきた。
廊下へ出ると、屋敷を預かる年配の女性が進み出る。
「この後は、領地管理官から届いた税収見込みのご確認を。そのあと、奥様が夜会の返礼品についてご相談したいとのことです」
「軍務院の資料は?」
「執務室に届いております。副官殿がお待ちです」
「では、そちらを先に。母には四半刻ほど遅れると伝えて」
続けて、妹からの伝言も告げられた。夕食は一緒に取れるのかという、幼い頃から変わらない問いだった。
「遅くなるかもしれないけれど、顔は出すわ」
そう答え、カティアは執務室へ向かった。
扉の先では、軍務院の制服を身につけた女性副官が、すでに資料を整えて待っていた。
机上の順序を見るだけで、カティアが何を優先したいかまで心得ていると分かる。
「お疲れさまです、参謀官」
「待たせたわね。始めましょう」
王国軍務院、特務監察参謀。
その肩書きは飾りではない。
貴族家私兵と王国軍の合同訓練、地方守備隊の補給路、装備更新の予算。書類に並ぶ数字の後ろには、現場の疲弊と人の命がある。
「西部守備隊の補給路変更案は、人員を増やす前に拠点間隔の見直しを。現場の負担を根性で埋める案は通せません」
「修正案を添えます」
「合同訓練については、ヴァルモント伯爵家の私兵数が報告より多いわ。詰問はせず、事前調整として確認を。面子を潰せば、次から正確な数字が出なくなります」
副官は頷き、すぐに控えへ書きつけた。
いくつかの案件を片づけると、卓上の書類は目に見えて減った。
「本日の急ぎは以上です。少なくとも、軍務院のものは」
「上出来ね」
「参謀官も、少しはお休みください。倒れられると困る者が大勢おります」
「分かっているわ」
「本当に分かっておられる方は、もう少し休まれます」
「手厳しいのね」
「職務ですので」
生真面目な返答に、カティアは小さく笑った。
副官が退室すると、執務室に静けさが戻る。
夕暮れの光が白い壁を淡く染めていた。机の端には蜂蜜を薄く絡めた焼き菓子が二つ置かれている。副官が気を利かせたのだろう。
ひとつ摘まむと、甘さとともに張っていた肩の力がわずかに抜けた。
「……おいし」
誰に聞かせるでもなく呟き、次の封書へ手を伸ばす。
王立魔術学術院から届いた、コロキウム・フェルムの案内だった。
登壇予定者の一覧を追っていた指が、中ほどで止まる。
ユリウス・ヴァルディエル。
その名を見た瞬間、十年前の庭園が蘇った。
慎重に言葉を選びながら、魔術の仕組みを一つずつ確かめようとしていた五歳の少年。
聞いているだけで胸が弾み、もっと話していたいと思った、あの日の時間。
あれから十年。
自分は侯爵家の顔として立ち、軍務院に席を得た。
では、彼は。
世界を解き明かすべき問いのように見つめていた少年は、いま、どんな言葉で魔術を語るのだろう。
カティアはその名をもう一度見つめ、誰にも見せないほど小さく微笑んだ。
「……やっと、会えるわね」
その声だけが、少女の頃と同じ温度を帯びていた。




