第16話 理を携えて
十五歳の誕生日の朝。私室には、旅支度の音だけが残っていた。
机の脇には角の擦り切れた研究ノートと、《魔力場共振理論》をはじめとする書簡や草稿が積まれている。
これまで積み上げたものを鞄へ収め、留め具を閉じた。
ふと鏡へ目を向ける。短く整えた銀の髪も、青灰色の上衣に包まれた姿も、五歳の頃とはもう違う。
あの交流会で家名を告げることさえ怖れていた自分が、今日は理論を携え、王都へ向かおうとしている。
王立魔術学術院が主催する総合学術公開会議。
家柄や年齢を問わず、事前に提出された研究概要のみで登壇者を選ぶ、王国最大規模の学術会議だ。
名を伏せて論考だけを送り続けてきた僕にも、ようやく自分自身の名で外の世界へ踏み出す機会が与えられた。
「ユリウス、準備はできた?」
扉を開けて、母が入ってくる。旅支度を終えた僕を見つめ、その目をゆっくりと細めた。
「……はい。もう大丈夫です」
「緊張しているのかしら?」
「していないと言えば、嘘になります」
母は小さく頷いた。
「でも、あなたが選ばれたのは幸運ではないわ。名家だから選ばれたわけでも、誰かに引き上げてもらったわけでもない。あなたの積み重ねが、きちんと届いたのよ」
いつもの優しさに、長く見守ってきた母の誇らしさが重なっていた。
真正面から受け止めるのが少し気恥ずかしく、僕は鞄の留め具へ視線を落とす。
「……ありがとうございます」
「それから、お父様が呼んでいたわ。出発前に話しておきたいことがあるそうよ」
「父さまが?」
「あの人なりに、送り出したいのだと思うわ」
母に背中を押され、父の書斎へ向かった。
◇
父は卓上の本を閉じ、僕を迎えた。こめかみには白いものが増えていたが、背筋は以前と変わらず真っ直ぐだった。
「十五年か。随分と大きくなった」
成長を確かめるように見つめられる。
「お前が選んだ道を、私は誇りに思う」
「……ありがとうございます」
「コロキウム・フェルムで発表すれば、お前の理論も、お前の名も広く知られる。評価だけでは済まん。反発も、これまでとは比べものにならないだろう」
「覚悟はできています」
父は僕をしばらく見つめ、肩へ手を置いた。
「ならば、自分の見つけた理を信じろ。お前には、ここで閉じるには惜しいものがある。歩みたい道を進みなさい」
引き留める言葉はなかった。
五歳の時には、まだ早いと守ってくれた。十歳になれば、自分の名を伏せたまま理論を外へ届ける道を作ってくれた。
そして今は、自分の名で進めと言ってくれている。
前世では、何かを追うほど孤独になった。今は違う。
送り出してくれる父がいて、見守ってくれる母がいる。領地にはライナルト兄さまが残る。王都貴族学院を卒業してからも王都で暮らしているセレーネ姉さまも、離れた場所から僕を気にかけてくれている。
「僕は……魔術を、もっと深く知りたいです」
父は黙って続きを待っていた。
「血筋や感覚だけに閉じたものではなく、なぜ起きるのかを調べて、誰かが得た知識を別の誰かが学び、確かめられるものにしたい。魔術を、そういうものにできるところまで進みたいと思っています」
口にしてみると、ずっと胸の内にあったものが少しだけ形になった気がした。
父の口元がわずかに緩む。
「そうか」
それ以上は何も言わず、書斎の奥から布包みを取り出した。
「これを。登壇する時に着なさい」
「僕に?」
「ああ」
受け取って布を開く。
中には、深い藍色の上衣が収められていた。装飾は控えめだが、細部まで丁寧に仕立てられている。
「学術の場でも、立ち姿は見られる。内容で勝負するのなら、余計なところで侮られる必要はない」
父らしい言い方だった。
「お前の理論には、それだけの価値がある。胸を張って行け」
「……はい。ありがとうございます」
包みを抱え、深く頷いた。
◇
玄関を出ると、朝の庭に剣の風切り音が響いていた。
稽古を終えたライナルト兄さまが剣を収め、こちらへ笑いかける。肩幅も広くなり、昔から変わらない快活さの中に、この家を支える者らしい落ち着きが加わっていた。
「行くのか、学者先生」
「からかわないでください、兄さま」
「悪い悪い。準備は?」
「終わっています」
「忘れ物は?」
「何度も確認しました」
「なら大丈夫だな」
兄は満足そうに頷くと、剣を肩へ担いだ。
「家のことは心配すんな。政務も面倒な連中も、俺が引き受ける。お前は向こうで好きなだけやってこい。どうせ止めたって止まらねぇんだから」
「発表が終われば戻ってきますよ」
「分かってる」
「ここが僕の家ですから」
兄が一瞬だけ目を細め、それからいつものように肩をすくめた。
「ただまあ、世界の方がお前を放っておかねぇだろうな」
「大袈裟です」
「そうでもねぇさ。お前は昔から、すげぇんだよ。何考えてるか分かんねぇ時も多いけど」
「それ、褒めていますか?」
「褒めてる褒めてる」
軽く笑ってから、兄は少しだけ声を落とした。
「だから、帰る場所くらいは俺が守っておく。お前は自分のやりたいことをやれ」
「……ありがとうございます」
「礼はいらねぇ。兄貴なんだから、それくらいさせろ」
気恥ずかしそうに言って、今度は思い出したように声を上げる。
「ああ、そうだ。セレーネによろしく言っとけ。あいつ、全然帰ってこないからな」
「伝えておきます」
「ちゃんと言えよ。兄が寂しがってたって」
「それも伝えていいんですか?」
「待て。やっぱりやめろ」
思わず笑ってしまった。
「じゃあ、行ってきます」
「ああ。行ってこい、弟」
兄は剣を軽く掲げる。
その言葉へ頷き、門前に待つ馬車へ向かった。
父が進めと言ってくれた。母が積み重ねてきたものを認めてくれた。兄が帰る場所を守ると言ってくれた。
十年前、初めて王都へ来た時には、外の世界がどんな場所なのかさえ知らなかった。
今は、自分の手で確かめたいものがある。自分の言葉で伝えたいものがある。
馬車へ乗り込み、窓から屋敷を振り返る。見慣れた家族の姿がゆっくりと遠ざかっていく。
それでも、不思議と寂しくはなかった。
帰る場所があるからこそ、先へ進める。
鞄の中の研究ノートへそっと手を置く。
そして馬車は、王都へ向けて走り始めた。




