小さな空
「本当に、あれが教授なのか?」
大講堂のどこかから漏れた囁きは、思いのほかよく響いた。
「まだ十五歳だぞ」
「ついこの間まで、ここの学生だったらしい」
「ヴァルディエル家といえば、魔術に恵まれない家だろう。それが王太子殿下から講座を任されるとはな」
声の主を探す必要はなかった。
僕がこの教壇に立つようになって、まだ数度しか講義を重ねていない。それでも、噂は思いのほか早く広がったらしい。
階段状に広がる座席には学生たちが並び、その後方には、これまで見かけなかった顔も増えている。学術院の教授や研究者、有力貴族家の紋章を身につけた者たち。彼らの多くは、純粋に講義を受けに来たようには見えなかった。
十五歳の少年が、教授として教壇に立つ資格を持つのか。王太子府の要請を受けて新設されたこの講座に、どれほどの価値があるのか。僕を通して、それを見定めようとしている。
『理論を読む気のない者にも、一度くらいは分かりやすく示してやれ』
数日前、王太子殿下から告げられた言葉を思い出す。
派手な魔術を見せたところで、理論の正しさが証明されるわけではない。観測した事実を示し、条件を一つずつ積み上げて説明する方が、僕としてはよほど有意義だった。
けれど、説明を聞く前から結論を決めている相手がいることも、もう知っている。
小さく息を吐き、講堂を見渡した。
「本日の講義に先立ち、一つ実演をお見せするよう、王太子殿下より仰せつかっております」
右手を上げる。教壇の上方へ淡い光が走り、直径数歩ほどの球形の境界を描き出した。内と外で作用させる条件を切り分け、その中央に白い光を灯す。ここまでは、ごくありふれた光の魔術だ。
何人かの研究者がわずかに眉を動かす中、今度は講壇の端に置かれた水差しへ意識を向けた。講義中に喉を潤すための、ごく普通の水差し。その水面が揺れ、一筋の水が音もなく空中へ持ち上がる。
「……水?」
誰かが呟いた。
透明な水は球の中へ入ると細かな飛沫へほどけ、その一部がさらに細かく散っていく。同時に下層の空気へ熱を与え、上層からは熱を奪った。
温度差によって生まれた流れに湿った空気が乗り、上昇するにつれて冷やされていく。ほどなく、透明だった空間に白い雲が浮かび上がった。
講堂のあちこちで、小さなどよめきが起こる。
雲は中央の光を囲むようにゆっくりと巡り、次第に厚みを増していった。内部に浮かぶ微細な水滴をぶつけ合わせ、少しずつ大きくしていく。やがて支えきれなくなった一滴が落ち、それを追うように二滴、三滴と続いた。
雲の底から、細かな雨が降りはじめる。
「雨まで……」
降った水は床へ落ちない。球の下部へ達したところで受け止め、再び細かな粒へ分けて上昇する流れへ戻していく。水差しから取り出した限られた水が、球の中を巡っていた。
次に上層の温度をさらに下げると、雨は次第に細くなり、やがて止んだ。残った雲の中に微細な氷晶を作ると、周囲の水分がそこへ集まり、結晶が少しずつ育っていく。
雲の底から白いものがこぼれた。
雪だった。
何十、何百という雪片がゆっくりと舞い落ち、中央の光を受けてきらめく。その頃には、講堂から声が消えていた。
水。空気。熱。
使っているものは、どれも特別ではない。同じ材料でも、与える条件が変われば現れる現象も変わる。
中央に浮かべていた白金色の光から、少しずつ青みを抜いていく。橙から朱へ、やがて深い赤へ。雲と雪を染めていた光が弱まり、球の中が夜の色へ沈むと、漂う氷晶の間に小さな光点をいくつか灯した。
朝。
雲と雨。
雪。
夕暮れを経て、夜へ。
わずかな時間のうちに、小さな空が一日を巡った。
先ほどまで腕を組んでいた老教授が、今は身を乗り出して球体を見上げている。貴族家の紋章をつけた男も、記録のために動かしていた手を止めていた。
彼らの目には、いくつもの異なる魔術を続けて操ったように映っているのだろう。
けれど、僕が組み立てたのは一つの流れにすぎない。水を細かく分け、空気を動かし、熱を移す。
水滴を育てれば雨になり、温度条件を変えれば氷晶が育つ。前の状態を、次の現象が成立するための条件として利用している。
右手を下ろすと、夜空に見立てた光が一つずつ消えた。上層へ穏やかに熱を戻すと、舞っていた雪は水滴へ変わり、雲も端から薄れていく。残った水分を一か所へ集めると、透明な水の帯が球の底から伸び、講壇の上をゆっくりと横切った。
ちゃぷん、と小さな音を立てて、水が水差しへ戻る。水位は、ほとんど元の位置まで戻っていた。
最後に球形の境界がほどける。教壇の上には、最初と同じ水差しと杯だけが残った。
「今お見せした中に、特定の家へ伝わる秘術は一つもありません」
静まり返った講堂へ告げ、水差しへ視線を向ける。
「水も、最初からここにあったものです。何もないところから雨や雪を生み出したわけではありません」
何人かの視線が、水差しへ落ちた。
「水を分け、空気を動かし、温度を変える。それぞれの現象が成立する条件を、必要な順序で整えました」
少し間を置く。
「魔術だから、雨が降ったのではありません。雨が降る条件を、魔術で作ったのです」
前列に座る研究者の表情が変わった。
その違いこそ、これから話すことだった。
魔術を、現れた結果だけで捉えない。炎が生じた。風が吹いた。雷が落ちた。そこで理解を止めるのではなく、その間に何が起き、どの条件を変えれば別の結果へ至るのかを考える。
黒板へ向き直り、白い石筆を手に取った。
「実演は以上です。それでは、講義を始めます」
背後には、まだ声を取り戻せない者たちがいる。僕はそのまま石筆を黒板へ当てた。
十五歳の教授。王太子殿下に講座を任され、貴族家が秘匿してきた魔術さえ、理論によって組み直そうとする少年。今では、そんなふうに語られている。
けれど、僕がこの教壇へ至るまでの話は、魔術の存在しない世界から始まる。
この世界に生まれ、名を与えられるよりも前。
僕はそこで、答えの見つからない問いを追い続けていた。




