短編 お年頃
新暦3年3月。
南西国家群から帰還したドゥムジ達は、都市ウルクでの師弟生活に戻った。
船を上位水精霊や中位風精霊で押したために移動自体は早かったものの、3ヵ国での交渉に時間が掛かった事から、約4ヵ月振りの帰宅となった。
「長旅だったが、ようやく帰り着いたな」
「はい。冬営地が南西国家群だった感じです」
「もう船上は、見飽きましたわ」
帰還した船団が齎した品々によって、市場の商人達に威勢と活気が戻った。
今回ドゥムジ達が持ち帰った交易品は、これから定期的な仕入れが可能となる。
海上交易を提案したドゥムジは、このように目に見える形で成果が上がった事に満足し、同時に深く安堵した。
交易に関連して大戦士スハルダが暴走して処刑されており、それで何の成果も上がらなければドゥムジの立場も悪くなっていた。
いかに上位精霊2体の契約者であろうとも、失敗者はそれだけ信を失う。
そして失敗した分だけ、発言を軽んじられていくのだ。
これまでにドゥムジが幹部会議で約束した大目標は『飛竜を従える事』『都市ウルクを攻略する事』『海上交易を行う事』の3つだ。
いずれも有言実行しており、その分だけドゥムジの発言も重くなり、次の大目標を承認させる事にも繋がっている。
スハルダが切り捨てられてドゥムジが選ばれたのも、イシュタルを引き受ける事が認められたのも、全てはそれ以前までの積み重ねの結果があってこそである。
ドゥムジの最終目標は、南民を千年後の悲劇的な状態に至らしめない事にある。
そのために南部への攻略拠点である都市ウルクを北民から奪取し、それを維持すべく海上交易も再開した。
今度の目標は未定であるが、公人としては難民や北民を部族に組み込み、中魔導師を増やし、北民国家の脅威に対するガロシュ族の対処能力を高めていきたい。
また私人としては弟子の育成を行い、イナンナとイシュタルには上位精霊との契約を行わせたい。
「属性値を上げる時間は充分に取れたから、修行としては上々だったかもしれない」
「はい。水属性と風属性が上手く扱えるようになりました」
「わたくしは属性値が上がりましたわ」
「二人とも良いペースで上がっている。まあ2往復しようとは思わないけどな」
イナンナの才能はドゥムジ並、イシュタルは上位精霊との契約が適うほど高い。
そして教育環境はと言えば、千年後には大魔導師を教育に専従させる余裕など無かったため、かなり恵まれた環境だと言える。
問題はドゥムジが用意できる魔方陣が拙い事で、千年後であれば本来の属性値が10であれば魔方陣で14くらいに上げられたが、ここでは触媒となる輝石を掻き集めても10のまま契約させるのが精一杯だ。
魔方陣に関しては、そもそも絶対に流出してはならないという制約がある。
万が一にも竜人に知られた場合、人竜戦争の再発が有り得るのだ。
しかし現在のドゥムジは、この二人に限っては秘密を漏らさずに魔方陣を使用させる事が出来るのでは無いかと考えている。
それに二人は単なる弟子では無く、部族から送り込まれたドゥムジの妻候補と、両者が同意した側女候補だ。
もしも両者が上位精霊という力を持つのであれば、ドゥムジが最終目標を達成できる可能性が相当高まる。
まずイナンナであるが、ドゥムジに対しては極めて従順だ。
一番弟子として手塩に掛けて、充分な時間と熱意を以て教えてきたからだろうか。あるいは元々エリドゥ家において、いささか不遇であった反動からだろうか。
例え目隠しをして魔方陣の上に乗せても抵抗しないだろうし、ドゥムジの出身部族で属性値が上がる『まじない』だった等と理由付けをすれば、疑問を持っても素直に従うだろう。
そうすれば、魔法陣の技術が漏れる心配は無くなる。
そして妻とするのであれば、部族の常識や慣習に従って、エリドゥ家や大婆ではなく夫に従うようになる。それはイナンナの母であるニンガルが、出身の族長家ではなく、嫁ぎ先のエリドゥ家に従うのと同じ理屈だ。
まじない自体が為された事も言うなと命じれば、それすら実家に言わないだろう。
従ってイナンナは最低限の条件を満たしており、見返りも大きいため、魔方陣を用いる候補足り得る。
次にイシュタルであるが、本人の性質や目的が明白で、背後関係も真っ白だ。
姉のイナンナがドゥムジの元へ送り込まれ、その後に妹のイシュタルがアッカド中魔導師の元へ送られる事になった過程は理路整然としている。大婆の思考やエリドゥ家の立場を鑑みれば、極めて合理的な行動だった。
既にイナンナを受け入れていた状況で、イシュタルをドゥムジに弟子入りさせるためだけにスハルダを殺し、アッカド中魔導師に恥を掻かせ、権利が消滅する親子関係の解消を行うなどあり得ない。
すなわちイシュタルは、親族とは間違いなく縁が切れていると断言できる。
二人の間で合意が成されれば、第三者を気にする必要が全く無い。
魔方陣を隠蔽したやり方で契約を行う合意さえ得られれば、情報漏れは起こらず、縁者に要求されてその力をドゥムジに振るう心配も無い。
従ってイシュタルは、魔法陣を用いる第二候補足り得る。
現状は、それなりに上手く進んでいる。
あるいはもっと上手いやり方がいくらでもあるのかも知れないが、少なくともドゥムジ自身には思い付かなかった。
「そういえば次の船団が、わたしたちと入れ替わりで出立しましたね」
「あらかじめ準備させていたんだ。これからは本格的な交易だから、船団の規模は俺たちの時よりも大きくなる」
「ですが契約精霊が居ませんと、時間が掛かりそうですわ」
「交渉自体は済んでいるから、俺たちと同じくらいの期間で帰って来れるだろう。さて、そろそろ家に入るぞ」
「はい。ただいま戻りました」
「ただいま帰りましたわ」
離宮で働く北民達が門前に並んで頭を下げる中、三人は久しぶりの我が家へと足を踏み入れた。
家に帰り着くまでが遠足だとしても、これで目標達成である。
引率役のドゥムジは気が抜けて、その日は泥のような眠りについた。
問題が起きたのは、翌日からである。
帰還の翌日から、イナンナが体調不良になった。
とは言っても、そこまで酷い状態ではない。
症状は下痢・腸内ガス発生・腹部膨満などで、それが何日も持続している。
体温は平熱で、咳や鼻水、悪寒など風邪らしき症状は無い。
13歳と若く、持病は何も無く、これまでそのような状態になった事も無い。
生活は普通で、激しい運動はしておらず、腹部を強打した覚えも無い。
離宮での食べ物は、南西国家群に赴く前に食べ慣れていたものが中心で、暴食も行っていない。
妹で2歳年下のイシュタルも同じ物を食べているが、そちらの方には何の症状も出ていなかった。
周囲に同じ症状の者はおらず、都市内におかしな病気が流行しているわけでも無い。都市ウルクの飲み水は綺麗で、それが原因とも思えない。
要するに原因不明だった。
「師匠、すみません。少し体調が優れないみたいです。自分でも光魔法を掛けましたけど治らなくて……」
「そうか。生魚なんて食べてないよな?」
生魚を確認したのは、都市ウルクでその症状が一時的に流行ったからだ。
サクレア王国艦隊の殲滅後、秋に遡上してきた大量の鮭を採って刺身にして食べた部族民達の一部が腹痛を訴えた。
一昨年はウルクを攻略したばかりで部族民が移動しきる前であり、魚を生食する習慣も無かった。
そして昨年は魚を美味そうに食べる北民に触発されたガロシュ族の一部が魚を食べるようになっていたため、初めての発症だった。
一時は原因が分からず、サクレア王国側による呪いかと思われた。
それを治療すべくドゥムジが光精霊を出したところ、勝手に闇精霊まで出てきた。
そして苦痛にのたうち回る部族民の腹へ手を伸ばし、黒光と白光を続けて放った事で症状が回復したため、どうやら腹の中に悪さをする虫の類いが居てそれを殺した後に回復させたらしいと知れたのだ。
以降、ガロシュ族において鮭は生食禁止である。
今のところ他の魚は禁止されていないが、基本的には焼くか天日干しにするのが望ましいとされている。
「生魚は食べていません」
イナンナは首を横に振って否定した。
「違ったか。もしかすると長旅で疲れが出たのかも知れないな。とりあえず光精霊に回復させてみるか」
「お願いします」
ドゥムジに原因が分からずとも、光精霊はそれなりの対処療法を行う事が出来る。
召喚に応じて現われた柔軟な驢馬は、力尽くで症状を完治させた。
しかしイナンナは、その後も同じ症状を再発し続けた。
ドゥムジの中位光精霊による治癒は、ガロシュ族の民が求めても中々施して貰えないほど価値が高い。
それを無償かつ最優先で行って貰いながらも治らなかった事を、イナンナは心苦しく感じた。
そして契約精霊が手を貸してすら治らない症状に対して、もしかすると女性特有の症状か何かだろうかと考えた。
だとすれば、ドゥムジに聞く事は色々な意味で出来ない。
手間を掛けて申し訳ないとは思いつつも、光精霊に対処療法的に治癒を施して貰いつつ、都市内に住む母親のニンガルを尋ねた。
「うーん。食べ物じゃないかしら?」
話を聞いたニンガルは、イナンナの想像を否定した上で食事を疑った。
都市ウルクへの定住により、ガロシュ族の食生活は放牧と採取で得られる食材中心から、農耕で得られるものや魚類などが加わって大きく様変わりしている。
ウルク制圧後からこれまでイナンナには症状が現われなかったが、交易再開など様々な要因でガロシュ族の食卓は日々豊かになり続けている。
とりわけ族長や大魔導師の食卓は、部族民の中でも最大の豊かさを誇る。
そんな食材の中に新たな原因があっても、何ら不思議では無いのだ。
「でもお母様、師匠やイシュタルも同じ物を食べています」
「食べ物の中で、シュメール大魔導師とイシュタルが食べていないのに、イナンナが食べているものはあるかしら?」
「無いと思います」
「それなら、シュメール大魔導師とイシュタルのどちらかが食べていないものはあるかしら?」
「それも無いと思います」
当てが外れたニンガルは困った表情を浮かべた。
原因が特定できなければ、各食材を一つ一つ省きながら症状の変化を見ていかなければならなくなる。
食材を省いて症状が治まればそれが原因だが、そのやり方で確定させるには最長で1年くらい覚悟しなければならない。
戦士家の娘ならそれでも良いが、魔導師の娘がこの時期に1年も引き籠もる事になれば、精霊契約の機会が減じられてしまう。
「困ったわね」
「はい」
イナンナは精霊と出会っても契約しないように言われているのだが、魔法の修行が万全な状態で行えなくなる事から、ニンガルの懸念に同意した。
「飲み物はどうなの?」
「師匠が馬乳酒で、わたしとイシュタルがミルクです」
「まだミルクなんて飲んでいたの? それが原因よ!」
遊牧民は当たり前のように馬乳酒を飲む。
馬のミルクは乳糖含有率が高く(100g中、馬6.2g牛4.6山羊4.3羊4.8駱駝5.0)、乳糖を元にアルコール発酵するため造りやすい。
また乳脂肪分が低い(100g中、馬1.9牛3.9山羊4.5羊7.2駱駝4.0)ので喉ごしがスッキリしている。
だが根本的な原因は、人が大人になるにつれてミルクを飲めなくなるからだ。
これは好き嫌いの問題では無い。
人間の母乳には100g中7.1gの乳糖が含まれており、乳児はそれを飲んで消化する事が出来る。
しかし人は大人になるにつれて、小腸で乳糖分解酵素が生成・分泌されなくなっていく。そのため消化できなくなった乳糖が大腸で水分吸収を妨げるように作用し、大腸内に水分が残って下痢になる。
また小腸・大腸内の微生物が乳糖で発酵し、腸内で水素ガスを発生させて膨満などを引き起こす。
なぜ乳児は母乳を飲めるのに、大人は飲めなくなるのか。
それは他の食物を食べられない乳児へ与えるためにこそ母乳があり、そんな母乳を大人が奪えば乳児の糧を失わせてしまうからだ。
母乳を出すのが家畜であろうと、その理屈は同じだ。
そんな生物学上の防衛策が施されたミルクも、遊牧民は馬乳酒やヨーグルトにして飲食できるようにした。
それらの理論を一切知らずとも、正しい答えを導き出した先人の知恵とは、誠に侮りがたいものなのである。
「でもお母様、わたしは去年まで山羊のミルクを飲めていましたよ」
「搾乳時期が終わった去年の9月から今まで半年間、飲んでいなかったでしょう?」
「そうですけど」
納得しがたい表情を浮かべるイナンナに、ニンガルはダメ押しの断言を加えた。
「その間に飲めなくなったのよ。いくら個人差があるとは言っても、もう駄目ね」
「そんな理由だなんて……」
「13歳になってもミルクを飲んでいたなんて驚いたわ。シュメール大魔導師も馬乳酒と言わず、お酒くらい飲ませて酔わせれば良いのに」
ニンガルは族長の長女で大人っぽく振る舞う事を求められていた事もあり、8歳の頃には馬乳酒を飲み始めていたのだ。
その後の意見は、概ねエリドゥ家の総意である。
「どうせわたしは子供っぽいです」
「いじけないの。シュメール大魔導師にお願いして、今後は馬乳酒にしてもらいなさい。それとイシュタルの分も、あなたからお願いしてあげてね」
「…………はい。分かりました」
こうしてイナンナは症状を治し、姉妹は馬乳酒を飲むようになった。
























