世界の始まりにて
スタートラインに立つまで半年もかかった。
きっかけなんて大したものじゃなかった。
誰かが聞いたら笑っちゃうくらい簡単に、呆気なく人は人を好きになるのだ。
「今日告白します」
寒さしかない教室に残るような物好きは俺と間中だけだった。
彼女から発された言葉の意味をすんなりと胸に吸収した。
「ふーん」
「反応薄いな」
拗ねたような不満気な声に責められながら、唐突に俺は彼女がなぜ自分に告白宣言をしたのかを理解した。
仲良しの友達に言うのではなく、なぜ俺なのか。
「まぁ頑張れば」
気のない返事をしながら、頭では必死に言葉を選んでいた。
「うん、告白頑張る」
「……馬鹿だなぁ」
正直な感想だった。
彼女は告白を受け入れてもらえるように頑張る、という意味で頑張るとは言わなかった。
「羽鳥ー、」
「なんだよ」
「私、頑張ってくるから」
間中がゆっくり立ち上がると、背中までの黒髪がサラリと軽く揺れた。
綺麗な黒髪は夏以降順調に長さを伸ばした。
「ねぇ、カズってロングとショートどっちが好きなのかな?」
制服の袖が半袖に変わり、紺色のセーラー服が白色へと色を変えた時、間中は照れ臭そうにそう尋ねてきた。
「和樹はそういうの気にしないよ。あぁでも、前、間中の髪綺麗だって言ってた」
彼女はそれに心底嬉しそうに笑った。
あの日肩口までだった彼女の髪は今背中の中上まである。
彼女の想いの印が宿っているみたいだと密かにそう思っていた。
ーーあの日、嬉しそうに笑った間中を見た瞬間。
彼女が好きだと自覚した。
どうして好きなの?と訊かれても答えられない。
好きなものは好きなのだ。
それが恋なんだから。
彼女が髪を伸ばし彼を想う間、俺も彼女を想った。
あの夏から半年経っても想いは褪せない。
日増しに濃くなるその色は胸にじわりじわりと攻め込んで、締め付けて、いつか窒息してしまいそうだった。
背を向けて和樹の元へ歩き出した彼女に餞別の言葉を贈る。
「うん、いってらっしゃい」
少し泣きそうになった彼女は、それでも次の瞬間微笑んだ。
恐らく、彼女が欲しかった言葉はこれだった。
例えば彼女の友人達は、告白しようとする彼女に言うだろう。
ーー咲なら大丈夫だよ
ーーうまくいくよ
と、笑顔で残酷に、無責任なことを言うのだ。
彼女はそれを知っていた。
彼女はそれが嫌だった。
自分はフられる事を知っているのだから。
それでも誰かに背中を押して欲しくて、彼女が選んだのが俺だったんだろう。
俺は彼女がフられる事をわかっているから。
正直に言おう。
和樹に彼女を紹介され、間中にそれを伝えた時、俺は彼女の事を心配する反面、実は少しだけホッとしたんだ。
これでようやく俺は彼女を諦めなくて良くなる、と。
彼女を好きになってから、この時初めて俺はスタートラインに立てた。
胸に巣食っていた苦しさが少しずつその力を緩めたみたいに、俺は深く息が出来た。
最低だとは思う。
でも、自分でもこの感情をどうしようもない。
下駄箱に向かうと、案の定彼女はそこに居た。
間中は力尽きたような、色のない瞳でぼんやりと外を眺めている。
古いロッカーだけが彼女の小さな背中の拠り所となっていた。
「馬鹿だなぁ」
思わず声に出した。
「うん、知ってる」
そう力なく笑う間中に、何度も何度も馬鹿だと言った。
フられるとわかってて告白するなんて。
自分が傷つくのを知っていて、好きだと言うなんて。
ーー間中はすごいよ。
少しだけ、そう思った。
フられるのが怖くて、繋がりを無くすのが嫌で想いを押し込めていた自分が、彼女の前ではひどく卑怯な存在だった。
でも、卑怯でもなんでもいい。
ここから始まるんだ、俺は。
真っ白な息が頼りなく揺れて、空気に還った。
彼女は身じろぎもせず、ぼんやりと泣きそうな顔で外へ視線を向けていた。
ーーどうかどうかどうか、お願いだから。
そういう辛そうな顔も、俺を想ってしてほしい。
笑顔も、泣き顔も、全部全部。
源泉に俺の存在があって欲しい。
和樹の代わりに俺はなれない。
けど、俺は羽鳥裕としてまっすぐ君を想うから。
「ねぇ、間中、そろそろこっちを見てよ」
スタートラインに来るまで半年以上かかった。
彼女が振り返って二秒。
好きだと言うまであと三秒。
俺の恋が音を立てて動き出す。
羽鳥はゆっくり考えて欲しいと、間中さんに想いを伝えて。
時間をかけて羽鳥の存在が間中さんを蝕んで。
気がついたら間中さんの、羽鳥との新しい世界が始まっていたらいいなと思います。