前編
「どうして、こうなったんだろう。」
仕事が終わってスマホを見ると、透真さんからメッセージが届いていた。
『今日、遅くまでお疲れ』
たったそれだけの文章なのに、私はなぜか返信を迷っていた。
『お疲れさまでした』
それだけでいいはずなのに、何となく素っ気ない気がして、打っては消す。
結局、
『透真さんもお疲れさまでした』
と送った。
すぐに既読がつく。
『ありがと。ちゃんと寝てね』
「……なんで」
思わず呟いた。
少し前までなら、こんなメッセージをもらっても何とも思わなかった。
むしろ私は、透真さんのことが苦手だった。
同じ大きな事務所に所属していて、顔を合わせることは多かった。でも、ちゃんと話すようになったのは最近のことだ。
最初に話したときから、私は彼を軽そうな人だと思っていた。
だから、あまり関わりたくなかった。
なのに最近、透真さんは私によく話しかけてくる。
翌日も、廊下で会うと、
「昨日、ちゃんと寝た?」
と聞かれた。
「寝ましたよ」
「ほんと?」
「ほんとです」
「ならよかった」
それだけ言って、透真さんは笑った。
私はその背中を見送りながら、少しだけ首を傾げた。
どうして、こんなに気にかけてくるんだろう。
その疑問は、日に日に大きくなっていった。
収録が終われば「このあと予定ある?」と聞かれる。
予定がないと答えれば、一緒に帰ろうと言われる。
休憩中には、以前一度だけ話した飲み物を覚えていて、
「これ、好きだったよね」
と渡してくる。
「覚えてたんですか?」
「覚えてるよ」
「……よく覚えてますね」
「ねねのことだから」
「どういう意味ですか、それ」
そう聞くと、透真さんは笑って誤魔化した。
以前の私なら、こういう言葉を聞けば「やっぱり軽い」と思っていたと思う。
でも、最近は少し違った。
軽いというより、私のことをちゃんと見ている。
そんなふうに思うことが増えていた。
ある日の帰り道、透真さんがふいに言った。
「ねねと話すの、好きだよ」
「……え?」
「何?」
「いや、急だなと思って」
「だって本当だから」
何でもないことのように言われて、私は返す言葉がなくなった。
「……そうですか」
それだけ返して、前を向いた。
なのに、胸の奥が少しだけ騒がしかった。
それからも、透真さんは私が何気なく話したことを覚えていた。
眠いときは甘いものが欲しくなること。
収録前はあまり食べられないこと。
忙しい日が続くと、一人で静かに過ごしたくなること。
そんな細かいことまで覚えている。
「なんでそんなに覚えてるんですか?」
ある日、思わず聞いた。
「覚えてると、ねねが楽そうだから」
「……」
「嫌だった?」
「嫌ではないです」
「よかった」
それだけだった。
でも、その言葉が妙に嬉しかった。
私は少しずつ、透真さんと話すことに慣れていった。
最初は「苦手な人」だった。
それが、「ちゃんとしてる人」に変わって。
気づけば、透真さんと一緒にいる時間を、私は嫌だと思わなくなっていた。
むしろ、少し楽しみにしている自分がいた。
そんなある日、私は少し疲れていた。
自分では普通にしているつもりだったけれど、透真さんには分かったらしい。
「今日、疲れてる?」
「そんなことないです」
「あるでしょ」
「ないですって」
「顔に出てる」
「……そんなに?」
「うん」
透真さんは少し笑った。
「でも、笑ってるほうがいいよ」
「何がですか?」
「その顔」
そう言われて、私は思わず黙った。
「……どんな顔ですか」
「今みたいな顔」
「分かりません」
「なら、そのままでいいよ」
何となく照れくさくて、私は視線を逸らした。
そのあと、廊下で別の男性アイドルに声をかけられた。
少し話していると、後ろから透真さんが来た。
「ねね、スタッフさんが呼んでたよ」
「え?」
「……今の、嘘」
「え?」
「呼ばれてない」
「なんでそんなこと言ったんですか?」
「……今は言わない」
「何それ」
「そのうち」
そう言って、透真さんは歩いていった。
私はその背中を見ながら、ますます分からなくなった。
透真さんは、何を考えているんだろう。
その日の帰りも、透真さんは私を待っていた。
「帰る?」
「はい」
「一緒に帰ろ」
並んで歩きながら、透真さんが聞いた。
「ねねって、俺のこと前より信用してくれてる?」
「……どうでしょう」
「まだ?」
「最初よりは」
「それならよかった」
「なんでそんなに気にするんですか?」
透真さんは少し考えてから、
「ねねに、ちゃんとしてる人だって思ってほしいから」
と言った。
私は少しだけ驚いた。
「もう思ってますよ」
「本当?」
「はい」
「嬉しい」
透真さんが笑った。
その笑顔を見て、私は何となく目を逸らした。
そんな日が続いて、私は少しずつ透真さんを意識するようになった。
それでも、自分ではまだ何なのか分からなかった。
そんなある日。
その日の収録は、予定より少し早く終わった。
私はスタッフさんに挨拶をして、楽屋へ戻ろうと廊下を歩いていた。
角を曲がったところで、ふと足を止める。
少し先に、透真さんがいた。
スタッフさんと話しているようだったけれど、その隣には同じ事務所の女性アイドルも立っていた。
「透真さん、お疲れさまです」
「お疲れ」
透真さんはいつものように柔らかく笑っている。
その子が何か話すたびに、透真さんが相槌を打つ。
特別なことではない。
同じ事務所なんだから、普通に話すことくらいある。
そう思って、そのまま通り過ぎようとした。
なのに、なぜか目が離れなかった。
胸の奥が、ほんの少しだけ落ち着かない。
別に、透真さんが誰と話していても関係ない。
そう思っているのに、その場から離れたあとも、さっきの光景が頭に残っていた。
楽屋に戻ってからも、私は何となくぼんやりしていた。
透真さんは、私にだけああいうふうに接しているわけじゃないのかもしれない。
そう考えた瞬間、胸の奥が少しだけ寂しくなった。
……なんで?
その夜、ベッドに横になってからも、今日のことを思い出していた。
透真さんが笑っていた顔。
私に向けてくれた言葉。
一緒に帰った時間。
そして、あの女の子と話していた姿。
考えれば考えるほど、胸の奥が落ち着かない。
「……私、どうしたんだろ」
小さく呟いて、目を閉じた。
それでも、その答えはまだ出なかった。




