閑話 神尾×空閑
研究棟の廊下を、空閑はガラクタの詰まった木箱を抱えて歩いていた。隣では神尾がコーヒーのタンブラー片手に欠伸をしている。
「神尾さん」
後ろから男の声がした。
振り返ると、いかにもすらっとしてハンサムな男が片手を上げている。柔らかく笑っているが、どこか目が冷たい。
「あ、珂井君」
「今大丈夫ですか?」
「いいよー」
あくび混じりの返事をして、神尾が空閑の横を離れた。
「じゃ、クガくん先戻っててー」
「え、あ、はい」
そのまま二人は廊下の角を曲がって消えた。ぽつんと取り残される筋肉。
(……なんだ?)
確か、任務中によく同行する男だ。話したことはないが……仕事の話、にしては温度感に違和感があった。それに何故一般の隊員が研究棟に……?
(なんか……嫌な予感が……)
一度気付けば簡単なもので、どうやら神尾はその男と2、3日に一度は会っている。
三十分。
一時間。
十五分。
ふらっと消えて、何事もなかったように戻ってくる。
「……恋人ですか?」
「ん? 違うよー?」
恐る恐る聞くと、神尾はモニターに目を走らせながら軽く答えた。
その他意のない声で大体察した。神尾(34歳)もそうだが空閑(36歳)だっていい大人だ。男女が二人で消える意味くらい分かる。
(いや……神尾さんなら不思議じゃないけど)
むしろ5〜6人、そういう相手がいても驚かない。この人は性欲旺盛だし自分の欲求に忠実だ。恋人は要らないけど相手は必要、という考え方はむしろ彼女らしい。
だが……どうしても珂井という男は好きになれなかった。
笑っているのに妙に粘つく笑みをしていて、彼女を見る視線はどこか――雑だった。
* * *
「ただいまー」
「神尾さん!?」
部屋に戻ってきた神尾を見て、空閑は声を上げた。
頬が赤紫に腫れている。
「あーこれ? 平気平気」
「平気じゃないでしょう!」
慌てて治癒魔術の光を当てる。ソファにぼすんと倒れて「うー」と唸る神尾の頬を、淡い光が包む。されるがまま、神尾は目を瞑る。
空閑の胸の奥がざわつく。
(まさか)
脳裏にあの男の顔が浮かぶ。
確かに、神尾は自他共に認める変人だ。倫理観もズレてるし、彼女のせいで危ない目に遭った人だってたくさんいる。自分だってしょっちゅう恨み事も……。でも、だからって何をしてもいい理由にはならない。
――あの、彼女を見下ろす雑な目。
壊れても構わない、玩具でも見るみたいに。
「……」
腫れの引いていく神尾の顔を見ながら、空閑は無意識に歯を食いしばっていた。
* * *
その日、神尾は堕神との共振実験に失敗した。
精神汚染。研究員総出で鎮静処置を試みたが、神尾は自室に閉じこもったまま出てこられなかった。
空閑が中に入ると、ベッドの隅で膝を抱えている神尾がいた。明らかに顔色が悪い。
「神尾さん」
「むり。しにたい」
空閑の背筋が冷える。こんなに追い詰められた神尾を見るのは初めてだった。そっと近づきながらも、距離は取ったまま空閑は低く続ける。
「お、落ち着いてください」
「むり……」
「深呼吸を」
「でき、ない」
震えながら呟く。
「……したい」
空閑の肩がびくりと揺れた。
「……神尾さん」
「苦しい……っ、やだ……頭おかしい……」
助けを求めるような、縋る目が空閑を見上げる。
言いたいことはわかる。この人にとって性行為は自分が生きていることの確認作業なのだ。誰よりも異形の領域……死に近いところまで踏み込むから。
でも駄目だ。何より危険だし、ここで応じたらきっとお互い後悔する。
空閑は目を逸らし沈黙した。
その時だった。神尾がぼろぼろ泣きながら呟いた。
「じゃあ、珂井君とこ連れてって……」
空閑が固まった。怯えた声で神尾が捲し立てる。
「し、しないとむり……つれてって……」
空閑の顔から血の気が失せる。
頭の中にあの男の冷たい笑顔が浮かんだ。
連れて、行くのか?
今の神尾さんを?あの男のところに?
いや、それでこの人の気が済むならそうしてあげた方が……いやっ!そもそも、この状態の神尾さんを、あの男はまともに扱うのか?酷いことをしない保証はあるのか?
してくれる気がしない。
空閑の目に、二人が並ぶ姿が蘇る。
神尾は笑っていて、男は……
――見下したように唇を歪めていた。
「おねがい……」
空閑はゆっくり俯く。
覚悟を決めるように、深く、深く息を吐く。
「……だ、だめ、です」
ごくりと唾を飲む。心臓がばくばくと暴れている。今、きっと怖い顔になってるはずだ。だが、意を決して顔を上げる。
「……お、俺がします」
――ぱっ、と神尾の目が開いた。
「ほんと?」
表情が壊れたみたいに明るくなる。空閑の背筋にぞわりと悪寒が走った。
「わ、嬉しい」
妙に爛々とした目で神尾がにじりよる。骨ばった長い指が空閑の服を掴んだ。
「はやく、はやくっ」
「ちょ、待ってください!」
空閑は慌てて神尾の手を止めた。
「その前に、一つだけっ! 正直に答えてもらっていいですかっ」
「えー?」
「前の痣……珂井さんにやられたんですか」
神尾はきょとんとした。それからへらっと顔を綻ばせる。
異常性を自覚した笑顔で、
「そうだよ」
――ずきん、と胸が痛んだ。
「でも需要と供給っていうか、利害一致っていうか。あれもお互い仕事の後でおかしくなってた時だったから、別にいいんだよー」
「……わ、分かりました。でも、もう、その人のところ行くのやめるって約束してください。約束してくれるなら――」
「するする!するよ!!」
子供じみた反応に空閑の顔が歪む。
こんなに露骨に信用できない約束するはそうそうない。
空閑がげんなりしていると。
「ふふ、やった」
「うっ」
神尾が首に腕を回してきた。
そのまま全体重をかけられる。首に。二人まとめてベッドに倒れ込んだ。
空閑が上。
神尾が下。
柔らかい感触に、空閑の脳が停止する。
強張った顔を見て神尾がくすくす笑った。
「ふふ、怖がってる……」
「や、やめてください」
声が裏返る。視線と手のやり場がわからない。
「す、すみません、俺、初めてなんで……」
「そんなの関係ないよ……」
唇が耳元に寄る。とろんとした熱っぽい声で。
「すぐ慣れるから」
(いやいやいやいやいや無理無理無理無理無理!!)
馬鹿みたいに心臓が暴れ出す。
(ど、どうしよう……! いいのか!? 本当に!?)
相手が神尾さんだから感覚がおかしくなるが、冷静に考えれば普通に相手は女性だ。しかも美人だ。というかど美人だ。
合意、はできてると思うけど、彼女が覚えてませんと言えば独房行き確定だ。いやだ、こんなので捕まりたくない。
なのに、
熱い。
柔らかい。
――全身血液臭い。
(いや待て! ご褒美とか考えるな! 人が弱ってる時にその思考は最低過ぎる! あいつと同じになるぞ俺!!)
頭がぐるぐる回る。
意を決してそっと神尾の二の腕に触れた。
神尾が嬉しそうに笑う。
まるで宝物を見つけたみたいに目を細めて、
「……やさしいねぇ」
空閑の心臓が死んだ。
神尾の脚がするりと空閑の太腿に絡む。
(あ、これ)
――ご褒美でいいかもしれない。
(いつも殺されかけてるんだし……)
首筋に唇を埋められ、びくりと空閑の肩が揺れた。その反応に、神尾は吐息だけで笑う。
――もしかして地獄に仏って――このこと、かも……
だがその時、
神尾の唇が耳元に触れた。
「ねえ、クガくん」
甘い声。頭の中で理性がギシギシと軋む。
しかし直後、空閑の意識は奈落に叩き落とされる。
神尾がにいっと笑う気配がする。
獲物を見つけた、楽しそうな声が囁いた。
「私が良いって言うまで……だめだよ」
あ、違うこれ
地獄だ。
* * *
次の日。空閑は丸一日休暇を取った。
というより、取らざるを得なかった。
バディである空閑が動けない以上、神尾も揃って非番になる。
「…………」
空閑はベッドに横たわったまま、虚無みたいな顔で窓を見つめていた。
……だるい。疲れた。
全身が鉛みたいに重い。
(なんか……思ってたのと違う……)
なんか……もっとこう……幸福感とか甘い余韻とかそういうものに浸る感じかと思っていた。いや、全く無くはなかったけど、これまで蓄積してきた疲労も重なって、今はただただ眠気と脱力感が凄い。
しかも。
「っはーー!! 完全復活ーーー!!」
栄養ドリンクを豪快に煽った神尾が、元気いっぱいに伸びをした。
「ねえねえクガくん、お腹すいた! なんか食べに行こうよ!」
「…………元気ですね……」
「元気!」
……元気だ。良かった。昨日まで死にそうな顔していた人間とは思えない。本当に生命力吸い取っていったんじゃないのかこの人。怖い。
神尾がベッドに膝乗りになってぐいぐい空閑を押してくる。
「ねーえー、クガくーん」
「……」
「ごはんー」
甘えるみたいに顔を突っつかれる。
空閑は死んだ目でされるがまま。
(なんでこの人こんな元気なんだ……)
そんな中。午後になって入った連絡で、空閑は珂井の死を知った。
任務中の殉職。
淡々と伝えられたその報告に、空閑は言葉を失う。
横で聞いていた神尾は「そっか」と言っただけだった。少し黙って、それで終わり。
……本当に、ただの体だけの関係だったのだろうか。
神尾はモニターに向かってマウスをスクロールしている。
一応、思うところはあるように……見える。口では需要と供給だなんて言ってたが、だったら一人に絞る必要はなかったんじゃないか?でも、彼のぞんざいな扱いには気付いてたはずだし、いい心象はなかったはずだ。
ただ、恨み言は漏らさない。それは彼への弔いのようにも見えるし、やり場のない欲求を互いに埋め合い、果ては悲惨な末路を辿った男への哀情のようなものにも見える。
「……」
白い首筋。細い肩。無防備で、少し寂しげな後ろ姿。
それが時々、ひどく人間じゃないものに見える。
空閑は思った。
この人多分、人運が無い。
そしてきっと、深く関わった人を破滅させる人だ。
もちろん、それはこの人自身にも同じことが言えるんだろうけど……
これ以上は……関わりすぎないようにしないと……
「ねえねえ、クガくん」
いつの間にか、神尾が目の前にいた。
至近距離からうきうきと顔を覗き込んでくる。
「え、はい、なんですか……」
「しよっか」
「えっ」
言うが早いか、どんと胸を押された。
空閑の体がソファに転がる。神尾が跨る。
「好き」
笑いながら、目だけは爛々と輝いている。
お気に入りの獲物を見つけたみたいに。
あ……
(これ)
手遅れかもしれない。




