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化学準備室の毒薬嬢《フロイライン・ギフト》  作者: 西海子


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キョウチクトウ誤食事件 前編

 これは、俺の回想に過ぎない。

 一九九五年、まだ俺が高校一年生の時の話だ。


 俺は、忍び込んだ化学準備室でその人に出会った。

 セーラー服の上から白衣を纏い、校則違反じゃないのかと思われるアッシュグレイのベリーショートヘア、フレームのない眼鏡の向こうには理知的な灰色の瞳。

 彼女は、椅子に座って本を読みながら、ビーカーで真っ黒な液体を飲んでいた。


 誰もいないと思っていた俺は、彼女の存在に硬直し、呼吸すら忘れた。

 ドアが開いた音で読書の邪魔をされた彼女は、スッと顔を上げて俺にピタリと視線を合わせた。


「鍵が掛かっていたはずだが、何の用だ」


 静かで冷たい台詞だった。

 女子にしては声が低い。

 顔もよく見ると性別が分かりにくい。

 セーラー服を着ているから女子だと判断できたに過ぎないのかもしれない。


 俺は一撃で彼女の雰囲気に呑まれてしまっていた。

 断言するが、一目惚れとか、そんな甘ったるい感情ではない。

 蛇に睨まれた蛙、とかいうのか?

 とにかくそれは、自分が“捕食対象なのだ”という本能的な恐怖だった。


 それでも、ビビっているというのは悟られたくなかった。

 だから、準備室に踏み込んで、後ろ手にドアを閉めた。

 俺の行動に、彼女は眉間に皺を寄せる。

 片手で本を開いたまま、空いた手でビーカーを掴んで黒い液体を一口飲んだ彼女に、思わず訊いていた。


「それ……薬品じゃ……?」

「馬鹿を言うなよ、ただのコーヒーだ」


 いや、なんで化学準備室で、ビーカー使って、コーヒー飲んでるんだよ。

 ツッコミは辛うじて喉で止まった。

 彼女はビーカーをデスクに戻すと、改めて俺に問い質した。


化学準備室(ここ)に何の用だ? 僕は今日、誰かがここを訪れるなんて先生に聞いていないが」


 飛び出した一人称は女子なのに“僕”と来た。

 変人だ、変な女だ。

 そう思ってはいても、俺は淡々とした彼女の言葉に返答する気になっていたのだ。


「鍵を職員室からちょろまかしてきて忍び込んだ、理由は……クロロホルムが欲しかったから」

「馬鹿も休み休み言え、指定劇物を盗みに来ましたなんて輩を放置できなくなるだろう?」


 ため息を吐いた彼女は、読んでいた本に栞を挟んでデスクに置く。

 何となくその動作を目で追っていると、文庫本の表紙が目に入った。

 ――太宰治、富嶽百景、走れメロス。

 化学準備室にいる変な女が、真面目な文学少女みたいな本を読んでいるのがちょっと面白かった。


「僕が太宰を読んでいたら、何か君にとって愉快な話にでもなるのか?」


 グサリと刺すような言葉が飛んでくる。

 どうやら、顔に出てしまったらしい。

 取り繕うように少し口元を緩めて、俺は彼女に伝える。


「クロロホルム、持ち出し許可くれないか?」

「指定劇物だと言っただろう。だいたい、クロロホルムで何がしたいんだ。実験に使うならば先生に許可を取れ」


 至極もっともだ。

 だが、引く気はない。

 わざわざリスクを取って鍵を盗んで忍び込んだんだ、手ぶらでは帰れない。

 ポケットから取り出した小瓶を見せ、交渉を始める。


「この瓶に半分ぐらいでいい」


 彼女は目を眇めて口を閉ざす。

 もしかしたら、それぐらいならこっそり許可してくれるのかも……そう思っていた俺は、ばっさりと切り刻まれることになる。


「――馬鹿なりに考えたのだろうが、その程度の量のクロロホルムを嗅がせたところで、人間は昏倒したりしないぞ」

「は……?」

「どうせあれだろう? 小説とかマンガとか……なんかその辺のミステリーかなんかで見たんだろう?」

「た、倒れない……?」

「そう簡単にはな。クロロホルムは確かに麻酔薬としても使われていたが、ハンカチだのに少量垂らして嗅がせたって効くわけないだろう?」

「ミステリーの定番なのに!?」

「――本物の馬鹿だな……少しは疑ってかかれよ。鍵を盗むなんて暇があるなら、薬学の勉強をお勧めする」


 ズバズバと言葉のナイフが飛んでくる。

 俺は、ふらっと上体が傾いだ。

 あまりに期待を裏切られて気が遠くなった感じがしたからだ。

 それを眺めていた彼女は、大きくため息を吐いた。


「座れよ。話ぐらいは聞いてあげるから」


 示された椅子にどさっと倒れ込むように座り、俺はぎこちなく視線を持ち上げた。

 彼女は足を組んで、俺に問いかけた。


「学年、氏名」

「一年の(つつみ)由成(よしなり)

「一年ね……僕は三年、階上(はしがみ)(なぎさ)だ」


 一度言葉を切った彼女……階上さんは「それで」と言葉を次いだ。


何某(なにがし)を昏倒させたかった理由は?」


 グッ、と喉を絞められた気がした。

 言葉が、上手く出てこない。

 こんなことを告げるのは恥ずかしいことだ、という自意識が俺の喉を押さえつけていた。

 ところが、階上さんは平然と口にする。


「イジめられた、仕返しがしたかった、殺してやろうと思った……そんなところか?」


 ビクッと肩が勝手に揺れた。

 その反応だけで伝わってしまったのだろう。

 階上さんは少し考え込んでしまった。

 俺としては居た堪れない。

 パシらされたり殴られたり服を脱がされたり、そんな惨めなことを女子の前で言えない。

 すぐにでも立ち上がってこの準備室を飛び出せばよかったんだ。

 なのに。


「そんなリスクを冒しても、精々君の気が一時的に晴れる程度だろう?」

「え……?」


 彼女は、眼鏡を押し上げて楽しげに笑った。


「考えてやろう、これは僕のフィールドだ」


 階上さんは傍らからノートを取って、ついでにシャーペンを握った。

 無言で手招きされて、椅子ごとガタガタと近付く。

 彼女に近付くと、ふわっとコーヒーの香りがした。


「さて、まずは状況を聞こうか」

「……詳しくは……言えない」

「別に君が何をされたのか、詳細を話せとは言っていない。君が何をしたかったのか、その状況を話せと言っているんだ」


 まったく察しが悪い、とぼやいた階上さんに、俺はぎゅっと拳を固めてなるべく簡潔に伝えた。


「俺をパシリ扱いしてくる奴らに、無理矢理バーベキューに連れて行かれることになった。場所は隣の市の山の中にあるキャンプ場」

「ふむ……続けて」


 階上さんはそれだけ言って俺を促し、ガリガリと強い筆圧でノートに何か書き込み始めた。

 手を止める様子もないので、俺は勝手に話を続ける。


「山の中のキャンプ場って言っても、人は少ない。カツアゲか、リンチか、置き去りか……多分そんなところ」

「うん」

「だから、一人ずつ寝かせて……殺してやろうと思った」

「人数は?」

「三人」

「仮に三人を昏倒させることが可能だったとして、殺害方法は?」

「包丁かナイフぐらいあるだろ、バーベキューなんだし」

「つまり、刺殺か」

「そのつもりだった」


 ピタリ、と階上さんの手が止まった。

 こちらを見ないままに短く唸って、彼女は呆れたような声を出した。


「浅はかに過ぎる。堤君といったか? どうして()()()()()()()()()()を作ろうとしないんだ」

「絶対に、逃げ切れる?」

「刺殺なんてしたら、君が犯人だと名乗り出ているようなものだろう?」

「まぁ、それは……」

「捕まってもよかったのか? それこそ馬鹿げている。何のための復讐だ? 君は自身も逃げ切らなくてはいけないんだよ、()()()()()()()


 被害者? この人は何を言っているんだ?

 俺が殺すなら、俺は加害者以外の何者でもないだろう?

 ――それを口にする前に、階上さんの演説が始まった。


「堤君、そこの棚から県内版の植物図鑑を持って来てくれ。――早く。そうそれでいい。……あぁ、問題ないな、現地で調達できる。それでは、始めようか。まず、君が連れて行かれるキャンプ場にはとある植物が生えている。当日、それを採取するんだ。必ず、軍手の上にゴム手袋をして採取しろ」

「ちょ……ちょっと待ってくれ!」

「喧しい、遮るな。全部ノートに書いてある、後で渡すから今は黙って聞いていろ」


 ピシャリと叱られて、俺は唖然としながら立て板に水を流すような階上さんの言葉を浴びていた。


「採取するのは葉だ。一人当たり十五枚程度。君の分はカウントしないでいい。採取した葉は料理に使え。絶対に素手で触るな。自分が触ったものを食べさせるのは気が引けるとでも言えばいい。そのまま手袋をして調理をしろ。他の野菜と一緒にホイル焼きにでもしてしまえ。三人に均等に分けて食べさせろ。――あとは時間の問題だ。中毒症状が出始めたら、堤君もほんの少しだけ、一緒に入っている野菜を口内に入れてすぐに吐き出せ。いいな、絶対に飲み込むな、吐き出せ」


 ガリガリと階上さんのシャーペンが再び走り出す。

 書いているのは……なんだ、吐き気、四肢脱力、めまい、腹痛……?


「これは中毒の症状だ。絶対に吐かせず、胃に入れたままにしておけばそのうち心臓が耐えきれなくなって止まる。完全に動きが止まる前に誰かの手に葉を握らせろ。そして君は手袋を処分してからキャンプ場の管理者に通報を要請しろ。そこらへんに生えている葉っぱをふざけて料理したツレが食べたら倒れた。自分もどんどん具合が悪くなっている。助けてほしい。これでいい」


 カタン、と階上さんはシャーペンを置き、ノートのページを破ると俺に差し出した。


「なにか質問は?」

「――あ、の……これは……殺人計画……?」

「そうだよ、君の夢見がちで馬鹿みたいな計画よりよほど現実的だろう?」


 受け取ったノートのページには、ビッシリと神経質そうな文字が並んでいた。


「キョウチクトウの誤食による中毒死とは……?」

「キャンプ場にも生えている。図鑑でしっかり葉の形状を覚えておけよ」


 本能の恐怖だった。

 体が、腕が勝手に震えていた。


「こ、これ……本当に逃げ切れる、のか……?」

「――確実にするには君も軽い中毒症状に陥った方がいいな。症状が軽ければ死亡することはない。キョウチクトウに含まれるオレアンドリンは非常に毒性が高いが、微量であれば薬にもなるからな」


 満足気な階上さんは、コーヒーを啜った。


「まだ質問はあるか?」


 俺は、それどころではなかった。

 一心にノートを読み耽る。

 周到な準備、詳細な手順、注意事項、証拠を残さない方法……綴られている全てが、クロロホルムで寝かせて刺す、なんていう杜撰極まりない馬鹿な計画を一蹴する、奇妙な美しさに満ちていた。


 一気に魅了された。

 これなら、俺は殺せる。

 殺人犯にならずに、あいつらを事故として始末できる。


 復讐にどす黒く染まっていく心を、この殺人計画……いや、誤食事故計画書が、結晶のように彩っていた。

 心拍数が上がる。

 とにかく興奮しているのが自分でも分かった。


「階上、先輩」

「なんだ」

「これ、やってもいいのか? やれるならやってもいいってことだよな?」


 俺の目をじっと見ていた階上さんは、酷く冷めた目をしていた。


「どうでもいい。やりたければやればいい。ただし、君は君の責任でやれよ? 僕に(そそのか)されたなんて言われたら堪らない」

「はぁ? ここまで詳細な計画を立てておいて!?」

「僕は実現の可能性について言及しただけだ。毒は致死量を超えれば死に至る、そうでなければ毒にはならない。()()()()()という話を書いただけだ」


 もう一度、ノートの冒頭に記された一文を読む。

 キョウチクトウの誤食による中毒死とは。

 確かに、一見すれば……いや、殺意を持って読まなければ、これはただの毒のある植物の誤食に関するレポートだ。

 つまり。


「あんた、俺の背中を押すだけ押して、高みの見物かよ」

「――さぁ、どうだろうな」


 彼女は薄く笑った。

 毒がにじみ出るような悪意の笑いだった。


「完全犯罪なんて容易にできるものか、とは思っているよ?」


 それだけ言うと、彼女はひらりと手を振った。


「では帰りたまえ、堤君。どんなニュースになるか楽しみにしているよ」


 俺は……灰色の悪魔に背を向ける。


「精々利用させてもらうよ、毒の悪魔」

「失礼な。これでも先生からは毒薬嬢(フロイライン・ギフト)と呼ばれているんだが?」


 知るかよ。

 俺はそんな言葉を飲み込んで化学準備室を後にした。

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