第69話~ナシュマ編~
唐突に思い出した。妖祁に呪いをかけられ、体が変化するその瞬間を。それは言い表せられないほどの不快感だった。思うように体が動かせず、また言葉も発せずにもがくことしかできない。
ナシュマは目を開ける。思わず自らの体を確かめて胸を撫で下ろした。
「夢か」
温かなベッド。そして腕の中の人肌が心地好い。やはり人間の姿が一番だ。
「ん? ――ちょっと待て。人肌?」
独りごち、恐る恐る腕の中の体を探るように撫でる。叉胤よりも幾分細い肩、僅かに低い体温がナシュマの危機感を高まらせた。
「ん、ぅ……」
銀色の長い髪をさらりと流しながら耳朶に唇を寄せ、胸に指が滑る。
「妖祁? 今日は東雲のところにでしょ。どうし――」
主の目覚めに合わせて暗闇の中に蝋燭が燈された。そして腕の中、霙颯の白い肌が艶かしくナシュマの目に映る。
霙颯の甘い表情がこちらを認識するや怒りへと豹変する。ナシュマは慌ててベッドから飛び出すが時既に遅し。霙颯の手から放たれた氷の刃が頬を掠め、背後にあった石造りの壁に突き刺さった。
「お、落ち着け。何かの間違いだ。なっ?」
「ふざけるな! 間違いでベッドにいるかっ!」
「だから、俺だって何でここにいるか分かんねぇわ!」
「言い訳無用!」
細かい氷の粒が襲いかかってきたがそれを避け、外に通じているであろうバルコニーへ逃げた。
「おっ」
空には月が一つ。暗い雲の向こうに、明るい月が二つ。魔界の三つの月だ。そして銀の海でも感じた独特の空気。どうやら妖祁を追って無事に魔界には着けたらしい。
「どうすっかな」
「どうにもできない。お前に逃げ場はないのだから」
月に気を取られた隙に霙颯がバルコニーの縁に立ち、冷ややかに見下ろしていた。そして急速に彼の両手に冷気が集まっていく。
「言っておくが、この前のようなまぐれ勝ちはない。貴様は全力で倒す」
「こりゃマズイっ」
身の危険を感じたナシュマは術が放たれた瞬間、一人分の炎の壁を前面に作り出して攻撃を凌いだ。どうにか防いだものの、このままでは状況が全く変わらない。
「いや、むしろ悪い」
「何をごちゃごちゃと!」
「おわっ! まじか!」
霙颯の頭上には無数の氷の矢が生成され、辺りの空気すら敵となりナシュマの体を蝕む。銀の海で見せた霙颯の実力は、氷山の一角にも等しいほどの力だと思い知らされた。
「静かに散れ」
振り下ろした腕と共に辺りが閃光に包まれる。自分がどうなったのかも分からない。周りが冷たく、血が沸騰するように熱かった。
冷静さを取り戻し、状況を把握する。体は、動く。自分を包む半円状の赤い防壁。霙颯、そして彼の隣には妖祁。
妖祁が指を鳴らすと、ナシュマを包んでいた防壁が消える。鑑みるに妖祁に助けられたということか。
「妖祁、なぜ邪魔を!」
憤る霙颯を宥めるように妖祁が唇を重ね、首筋から頬にかけてを両の掌で柔らかに撫でた。そして耳元で何かを囁く。
「私が責任を取ろう。霙颯には迷惑をかけんよ」
「ふん。命拾いをしたな、ナシュマ」
「ナシュマ、お前の身柄は私が預かる」
「はぁ?」
「部屋を与えよう。ついて来るがいい」
「ちょ、どういう風の吹き回しだっ?」
「警戒するな。お前はやはり興味深くてな。魔界へと単身追ってくる度胸も気に入ったのだよ。城の中だけならば好きにするがいい。断るならばここで露と消えてもらっても構わんぞ。お前の命数でも少しは足しになる」
予想外の展開ではあるが、こちらの事情を探るには好都合なのかもしれない。
「へーへー、お世話になりますよ」
ナシュマは未知の世界での生活に、不謹慎ではあったが少しだけ胸が高鳴った。




