第一話 薬師見習い、ダンジョンへ入る
世界にダンジョンが現れてから、二十年が経った。
最初の数年で、世界はひっくり返ったらしい。ニュースでは連日、都心の地下鉄跡からモンスターが出たとか、地方の山中に新しいダンジョンの入口が開いたとか、そんな話ばかりだったと祖父は言う。けれど、僕にとってその“非常識”は、生まれた頃からそこにある日常だった。
探索者。
モンスター。
ステータス。
スキル。
ダンジョン産素材。
それらはもう、教科書にも載っている。
もっとも、載っているからといって、誰もがそれを持てるわけじゃない。
ダンジョンに入れるのは十八歳から。モンスターを倒すことでステータスを得られる可能性があるけれど、稀に何も得られない人もいる。しかも、自分が何を得たのかを正確に確認するには《鑑定》スキルが必要だ。
だから探索者の世界は、思っている以上に不平等で、思っている以上に曖昧だ。
そして、その曖昧さの上に成り立っているもののひとつが、僕の家の仕事だった。
「湊、その青葉草はまだ日陰でいいよ。干しすぎると効きが抜けるからね」
「うん、わかった」
祖母の声に返事をしながら、僕は店の裏手に並べた木枠の位置を少しずらした。午後の陽が差し込み始めている。薬草は種類によって乾かし方がまるで違う。風を通した方がいいもの、逆に湿り気を少し残した方がいいもの、切ってから干すもの、根のまま吊すもの。
それを見分けるのは、僕は嫌いじゃなかった。
むしろ、好きだった。
鼻をくすぐる苦い匂いも、葉脈の形も、茎を折ったときの音も。子供の頃から店を手伝ってきたせいで、たぶん同年代の誰よりも薬草には詳しい。
表の店では、祖父が常連の客に包み薬を渡している。
「三日は安静だ。無理に潜るなよ」
「わかってますって、源蔵さん。でも今月きつくてなあ……」
「きついからって、治りの悪い傷を放っといたら余計に高くつく」
祖父の低い声に、客が苦笑する。
ダンジョンで受けた傷は、現代医学だけでは治りが悪いことがある。裂傷や骨折ならまだしも、モンスター由来の毒や、魔力を帯びた爪痕みたいなものは厄介だ。病院の治療が効かないわけじゃない。でも、時間がかかる。下手をすると後遺症まで残る。
だからこそ、ダンジョン産薬草から作る治療薬には需要がある。
祖父母は薬師だ。
町ではそれなりに名が通っている。
僕が薬師を目指したのは、自然なことだった。
剣を振り回したいわけじゃない。誰かより強くなりたいわけでもない。けれど、苦しんでいる人を楽にしたいとは思う。祖父母の背中を見て育ったせいだろう。
「湊、緊張してるのかい」
いつの間にか裏口に立っていた祖母が、僕の顔を覗き込んでいた。
「少しね」
嘘ではない。
今日は、僕が初めてダンジョンに入る日だ。
十八歳になって一週間。学校の手続きや装備の準備を終えて、ようやく許可が出た。目的は戦闘じゃない。
初歩的な薬草採取をするだけだ。もちろん護身用の装備は持つし、祖父から散々注意も受けているけれど。
「無理はしないこと。危ないと思ったらすぐ戻ること。欲を出さないこと」
「うん」
「それと」
祖母はふっと笑って、僕の胸元を軽く叩いた。
「湊は優しいけど、優しすぎる。自分より他人を優先しすぎるのは駄目だよ。まずは自分が生きて帰ること」
その言葉に、僕は曖昧に笑うしかなかった。
たぶん、祖母はわかっている。
僕が薬師を目指した理由の半分が、“助けられなかった誰か”の顔があることを。
子供の頃、店に運び込まれた探索者がいた。病院でも手の施しようがないと言われた毒で、全身を痙攣させながら苦しんでいた人だ。祖父母は必死に薬を煎じた。けれど間に合わなかった。
僕はあの夜を、まだ忘れられない。
あのとき、もっと効く薬があればと思った。
もっと早く効いて、もっと確実に、人を助けられる薬が。
そのために僕は、ダンジョンへ入る。
薬師になるために。
◇
町外れにある第三ダンジョンの入口は、拍子抜けするほど無機質だった。
周囲をフェンスで囲われたコンクリート施設。受付、本人確認、持ち込み装備の簡単な検査。危険区域へ向かう探索者たちは殺気立っているのに、初心者向けゲートの前だけは妙に空気がぬるい。
僕は背負ったリュックの肩紐を握り直した。
アイテムボックスなんて希少スキル、当然持っていない。だから採取袋も水筒も、全部自分で運ぶしかない。少しみっともないかもしれないけれど、駆け出しなんてそんなものだ。
ゲートをくぐった瞬間、ひやりとした空気が肌を撫でた。
薄暗い石壁。湿った土の匂い。どこか遠くで水滴の落ちる音。
外は真昼なのに、ここだけ別の時間が流れているみたいだった。
「これが、ダンジョン」
思わず小さく呟く。
怖い。
でも、それ以上に、胸の奥が妙にざわついた。
地図で確認した通り、初心者向けの浅層は通路が広く、巡回も入っている。壁際には、目当ての灰鈴草がちらほら生えていた。傷薬の基礎材料になる、ありふれた薬草だ。
僕はしゃがみ込み、根を傷めないようにナイフで周囲の土を崩す。一本、二本、三本。状態は悪くない。祖父なら合格点をくれるかもしれない。
順調だ、と思ったときだった。
通路の先で、ぐちゃり、と水気を含んだような音がした。
顔を上げる。
薄暗がりの向こうで、半透明の塊がぬるりと揺れた。
「スライム!」
最弱モンスター。
教本ではそう習う。
けれど、生き物を殺したことのない僕にとって、“最弱”なんて慰めにもならなかった。
スライムはゆっくりと這い寄ってくる。逃げるなら今だ。けれど、この距離なら背を向ける方が危ない。僕は震える手で警棒を握った。
来る。
跳ねた。
「っ!」
反射的に横へずれ、振り下ろす。
手応えは、柔らかいのに妙に重かった。青黒い核みたいなものが見えた気がして、無我夢中でもう一度叩く。
ぱしゃり、と嫌な音を立てて、スライムが崩れた。
その瞬間だった。
胸の奥へ、何かが落ちてきたような感覚が走った。
熱にも似た、冷たさにも似た、不思議な感覚。頭の奥で、扉がひとつ開いたような――そんな気配。
「え?」
言葉にならないまま立ち尽くす。
数秒遅れて、理解だけが降りてきた。
ステータスを得た。
そして、スキルを得た。
名前を見たわけじゃない。誰かに教えられたわけでもない。なのに、なぜか“わかる”。
この感覚の正体を。
「……錬金術?」
口にした自分が、いちばん驚いた。
錬金術。
そんなスキル、聞いたことがない。
調合系スキルならある。製薬系もある。だが、錬金術なんて単語は、現実の探索者用データベースでも、都市伝説めいた掲示板でも見た覚えがなかった。
なのに僕の中には、それを“使える”という確信がある。
灰鈴草の効能。スライム核の粘性。微量な魔力の流れ。
それらをどう組み合わせれば、何が生まれるのか。
知識ではなく、感覚として理解してしまっていた。
「とにかく、帰ろう」
嫌な予感と、抑えきれない高揚が入り混じる。
これ以上奥に進む気にはなれなかった。
僕は採取した薬草と、割れたスライム核の欠片を回収して、早足で出口へ向かった。
◇
店の裏にある作業場は、僕にとっていちばん落ち着く場所だった。
乾燥棚、乳鉢、秤、小鍋、濾し布、古びた作業台。祖父母が長年使い込んできた道具たちは、どれも手に馴染む。
「顔色が変だよ、湊。何かあったのかい」
祖母に言われたけれど、うまく説明できなかった。
「大丈夫。少し、試したいことがあるんだ」
「試すのはいいけど、危ないことはするんじゃないよ」
「うん」
作業場にひとりになる。
深呼吸。
目の前に、灰鈴草、スライム核の欠片、精製水。普通なら絶対に混ぜない組み合わせだ。祖父なら眉をひそめるだろう。けれど、僕の中の“感覚”は、それでいいと告げている。
葉を刻み、芯だけを抜き、核の表面膜を削ぎ落とす。
順番。温度。混ぜる速さ。
考えるより先に、指が動いた。
乳鉢の中で緑の液が淡く発光したとき、僕は息を呑んだ。
「……うそだろ」
ありえない。
こんなの、見たことがない。
急いで瓶に移して眺める。
液体は濁りひとつなく、透き通った翡翠色に輝いていた。薬草臭さもほとんどない。むしろ雨上がりみたいな、澄んだ匂いがする。
指先にほんの一滴を垂らして、包丁で切ってしまっていた左手の小さな傷に塗る。
じわり、と温かさが広がった。
痛みが消える。
皮膚が、目に見えて塞がっていく。
「……っ」
思わず瓶を取り落としかけた。
治癒が早いとか、効きがいいとか、そんな話じゃない。
これは明らかに、既存の治療薬の水準を超えている。
ポーション。
そんなゲームみたいな単語が、頭に浮かんでしまうくらいには。
「こんなのが、表に出たら……」
祖父母の店はどうなる。
僕はどうなる。
ギルドは。企業は。国は。
錬金術というスキルの正体はわからない。けれど、これが“ただの新しい薬”で済まないことくらい、内気な僕にだってわかる。
隠さないといけない。
でも、こんな力があるのに、使わないでいられるのか?
瓶を見つめていた、そのとき。
店の表から、騒がしい声が聞こえた。
「源蔵さん! 千鶴さん! 誰か、早く!」
僕は弾かれたように作業場を飛び出した。
表に出ると、二人の探索者が、ぐったりした少女を支えながら店に駆け込んできていた。制服姿。見覚えがある。クラスメイトだ。
「一ノ瀬さん!?」
茶色の髪を後ろで束ねた少女――一ノ瀬澪の右脚は、ひどく腫れ上がっていた。ブーツの隙間から見える皮膚は赤黒く変色し、傷口の周囲には薄紫の筋が浮いている。
毒だ。
しかも、かなりまずい。
「浅層で油断したっ、牙兎なんかに!」
「病院じゃ間に合わねえかもしれねえって、だからここに!」
祖父が澪の脚を見て、顔をしかめる。
祖母がすぐに解毒用の薬草を取りに走った。
けれど、僕にはわかってしまった。
たぶん、間に合わない。
既存の薬でも助かる可能性はある。ゼロじゃない。けれど、進行が速すぎる。処置に数十分かかれば、後遺症が残るかもしれない。最悪、脚そのものに深刻な損傷が出る。
澪が苦しそうに息を吐く。
普段はあんなに明るいのに。
誰よりまっすぐで、いつも前を向いているのに。
見ていられなかった。
「僕の、薬を使って」
気づけば、そう口にしていた。
祖父母と、運び込んできた探索者たちが一斉に僕を見る。
僕の手には、さっき作ったばかりの翡翠色の瓶。
「湊、それは?」
祖父の声が低くなる。
止めようとしているわけじゃない。ただ、何かわからないものを使う危険を考えている顔だった。
当然だ。僕だって、ついさっきまで存在すら知らなかった薬だ。
でも。
「お願いだよ、じいちゃん。たぶん、これなら助けられる」
自分でも驚くほど、声は震えていなかった。
澪が薄く目を開ける。
苦痛で滲んだ視線が、僕を捉えた。
「……朝比奈、くん……?」
迷っている時間なんてない。
僕は瓶の栓を抜いた。
その瞬間、作業場で感じたよりも強い、青い草の香りが広がった。
誰かが息を呑む。
僕は彼女のそばに膝をつき、その唇にそっと瓶を寄せた。
「飲んで。一ノ瀬さん」
この一口で、きっと全部が変わる。
平穏も、秘密も、僕自身の在り方さえも。
それでも僕は、見捨てることだけはできなかった。




