第44話 夜明けの帰路①
すみません、少し間が空いてしまいました。
戦の後始末が一段落ついた頃、東の空にはまだ青みすら滲んでいなかった。
アルベルトは岩棚の縁から、ふもとに広がる闇を眺めていた。傷ついた仲間たちはそれぞれ手当てを終え、捕虜は縄でひとつにつながれて岩棚の隅に座らされている。
賊どもの遺体は山の民の流儀で一箇所にまとめられ、夜が明けたらどう扱うかをジョスランがベルントと低く話し合っていた。岩棚の上では時折、燃え尽きた松明の燃えさしがぱちぱちと小さな音を立て、それきり静かに消えていく。
戦の音が完全に去った後の、奇妙に乾いた静けさが山の上を覆っていた。
戦は終わった。けれどもアルベルトにとっての戦は、ここから別の意味を帯び始めていた。
脇腹の掠り傷が、夜気に晒されてかすかに沁みた。掌でその上を押さえながら、もう一度、自分のいまの立場を頭の中で確かめる。
拠点の執務室には内側から閂が下ろしてある。書見台の上には書きかけの書状を広げ、椅子の背には外套をかけてきた。
あれは籠もって考え事をしている者の部屋の体裁だった。一日であれば誰も疑わない。だが二日続けば、ベルクのことだ、必ず扉の前で声をかける。
返答がなければ閂を破ってでも踏み込んでくるだろう。それが目付役の役目だ。
夜が明け切る前に、自分は拠点の門をくぐっていなければならない。
頭の中で逆算すると、もう猶予はほとんど残っていなかった。
ホルンガルド村までいったん戻り、捕虜の尋問にも顔を出して、それから山を下り、ふもとからノルバークの拠点まで馬を飛ばす――その全部を一晩でこなすのは無理な相談だった。
村に降りた時点でもう夜明けが追いついてくる。捕虜から何かを聞き出そうとすれば、半日、いや下手をすればまる一日をそこに費やすことになる。それはもう、許される時間の幅を完全に超えていた。
ならば、ここから先は人に託すしかない。
先頃、町から戻った折に、自分は「以後は慎む」とベルクに告げた。あの言葉を、二度も裏切るわけにはいかなかった。
一度目はもう許された。二度目は、ベルクの中の何かが間違いなく折れる。
彼が自分の目付役を続けてくれるかどうかの境目を、自分の側から越えるべきではなかった。
目付役を失うということは、ただ一人の家臣を失うということではない。父王が自分のために選んで側に置いた信頼の鎖が、そこで一本切れるということだ。その一本が切れれば、宮廷の側でも気付く者は気付く。
「東部の王太子は、目付役を不在にさせている」という囁きが立ち、それは父王の耳にも遠からず届く。
そうなれば、次に自分が東部にいることを許される条件は、いまよりずっと厳しくなる。動ける幅が狭まる。今夜のような働きはもう二度とできなくなる。
だから、今夜の戻りは間に合わせなければならなかった。
それは単に自分の体面のためではなく、これから自分が動かせる手の幅を守るための必須の作業だった。
アルベルトは自分の中で短く頷き、ジョスランの方へ歩み寄った。
*
ジョスランは塗り薬の壺を腰の革袋に仕舞ったところで、こちらを振り返った。
「エルマー、どうした」
「ジョスラン、少し話せるか」
ジョスランは何かを察したらしく、目元の表情を一段ひきしめた。
岩棚の縁の方へ二人で歩み、ふもとの闇を見下ろせる場所まで離れる。互いの息遣いがかすかに白く凝るほどには、まだ夜気が冷たかった。
「俺は、村までは戻れぬ」
アルベルトは前置きを置かずに切り出した。
「ベルン男爵から預かった任務はここまでだ。頭目を討って巣を潰した――そこで一区切りつけて、ふもとに戻れと言われている。夜明けまでには山を下りねばならぬ」
ジョスランは、しばし黙ってアルベルトの顔を見ていた。それから、ふっと口元をゆるめた。
「そういう男だとは、合流地点で会った時から思っていた」
「すまんが、捕虜の扱いと事後処理はお前たちに任せる」
「もとよりこちらの仕事だ。お前たちが居らんでも回す」
ジョスランの口ぶりは淡々としていた。引き留める素振りも、惜しむ素振りもない。山の民の流儀なのだろう。
来る者は来るときに、去る者は去るときに、それぞれの理屈で動く。
それを互いに尊重するというのが、この村の人付き合いの作法らしかった。執着しないということが、彼らの薄情さではなく、むしろ深い敬意の表れなのだということが、いまになってようやくアルベルトには分かってきた。
山の暮らしは、互いに密着し過ぎると却って壊れる。だから彼らは、来る者を客として迎え、去る者を客として送る。それ以上の絡まり方を、互いに求めない。
「一つだけ頼みがある」
アルベルトは、自分の革袋から鉄片と紙片を取り出した。
山の薄明かりの中では、刻印の細部までは読み取れないが、形と重さだけは確かに掌に伝わってくる。
「頭目の懐にあった物だ。札の方は街道沿いの宿の名らしい。鉄片の方は……何かの刻印が入っているが、俺には心当たりがない」
「それをどうする?」
「ベルン男爵に届けたい。男爵は商人筋にも顔が広い。何かの手掛かりになるかもしれん」
ジョスランはアルベルトの掌の上の鉄片を覗き込み、それからふっと小さく息を吐いた。
「お前の目利きの方が、俺たちよりは確かだろう。好きにしてくれ。村に残しても誰も読めぬ印だ」
「すまん」
「礼はよせ」
ジョスランは肩をすくめた。
「むしろ礼を言うのはこっちだ。お前が一緒に来てくれなかったら、頭目との一騎打ちでこちらの誰かが死んでいたかもしれん。腕の立つ騎士を貸してくれたベルン男爵にも、礼を述べておいてくれ」
アルベルトはベルン男爵という架空の主君の名を、自分の口で何度目かに聞いた気がした。
胸の奥でその名前は薄い罪悪感を伴って小さく軋んだ。
だがいまはその軋みを表に出すわけにはいかなかった。架空の主君のために働いた腕の立つ騎士――この物語の中で、自分はあくまでその役を演じ切らねばならない。役を降りるのは、ジョスランたちとの関わりが終わったその一瞬の後だ。
「もう一つだけ」
アルベルトは続けた。
「捕虜のことは、ふもとの代官に引き渡すがいいだろう。山賊として手配されている者なら、向こうで裁きを受ける。山の民の手で裁いたとなれば後々の面倒の種になる」
「分かっている。そうするつもりだ」
ジョスランは頷き、それから何かを思い出したように目元に薄い苦笑を浮かべた。
「俺たちはな、エルマー。権力者にあんまり目を付けられたくない者の集まりだ。ふもとの代官の話はする、騎士団の世話にはなる。だが、それ以上は深入りしない」
「分かっている」
「お前の主が誰であれ、それは俺たちの知ったことじゃない。お前という男が腕の立つ騎士で、約束を守って共に戦ってくれた。それだけで十分だ」
その言葉は、アルベルトの胸の奥に静かに沈んだ。
宮廷で交わされる言葉とは、まったく別の種類の言葉だった。
宮廷では人は何重もの肩書きを背負って互いに接する。
家名、官位、血筋、過去の功績、家同士の縁――そういうものを一枚一枚剥いでいくと、最後にはほとんど何も残らないということが珍しくない。
けれど山の民は、まずその一切を剥いだところから人と接する。剥いだ先に残る一人の男の振る舞いだけを、彼らはじっと見ている。
その差は、慣れない者には冷たく感じられるかもしれない。
だがいまのアルベルトには、その差はむしろ救いだった。王太子の肩書きから一度離れて、ただの一人の戦人として扱われる夜は、生まれて初めてだったかもしれない。
偽名で来た自分を、ジョスランは丸ごと一人の男として受け入れてくれている。
素性を詮索しないというのは、ある種の優しさだった。山の民の生き方そのものが、その優しさを作っていた。
権力の中心からは距離を取り、関わるべき時だけ関わり、それ以外の時は静かに自分たちの暮らしを回す――その流儀のなかで、こうして一夜だけ深く触れ合った相手も、明日には何事もなかったかのように、それぞれの場所へ戻っていく。
それでよかった。
むしろ、それでなければならなかった。
もし自分が王太子の身を明かしていれば、この村は王の権威の網に絡め取られていただろう。
感謝の沙汰を受け、褒美を下賜され、いずれは王軍の徴用にも応じざるを得なくなる。それは彼らが最も望まぬ未来だった。
山の民の自由は、王権との距離を測りながら静かに保ってきたものだ。
その距離を一夜の縁で崩すような無作法は、自分のすべきことではなかった。
偽名のまま去る――それが、彼らへの最大の礼でもあった。




