第1話 国境の追跡者①
大陸の東に、ノルバークと呼ばれる国境地区がある。
なだらかな丘陵が幾重にも連なり、春から夏にかけては見渡す限りの花畑が広がる土地だ。丘を越えた先には深い森が横たわり、その森を抜ければ、隣国の領土が始まる。
かつてこの地は、幾度となく戦火に焼かれた。二つの国が剣を交えるたび、ノルバークの花畑は兵の血を吸い、丘は墓標で埋まった。いまも春の耕しの折には、鋤の先が古い鏃や折れた剣を掘り当てることがある。花の根の下に、戦の骨が眠っている土地なのだ。
だが両国の間で和平が結ばれてから、十五年。この地にも穏やかな時間が流れている。国境の検問所には市が立ち、両国の商人が品を並べ、子どもらが花畑を駆け回る。誰もが、この平和の続くことを信じていた。
少なくとも、表向きは。
ここ数月、ノルバークには不穏な噂が流れ始めていた。
曰く、森の向こうに見慣れぬ武装の一団が野営を張っている。曰く、夜になると松明の列が国境沿いを移動している。曰く、街道で素性の知れぬ傭兵風の男たちを見かけることが増えた——。
そして今日。
ノルバークの花畑を、二つの人影が走っている。
ただし——追われながら。
*
春の終わりを告げる白と紫の花々が、見渡す限りの丘を埋めている。
風が渡るたび、花の海がひとつの生き物のようにうねった。蜜を求める蜂の羽音が陽だまりに満ち、雲雀の声が高い空から降ってくる。本来なら足を止めて眺め入るべき景色である。
その花の海を、二人の男が全力で駆けていた。
先を行くのは、赤い髪の男だった。背が高く、たくましい体躯に旅の外套を羽織っている。胸を守るのは薄い革の防具一枚きり。籠手も脛当てもない軽装だが、その身のこなしには一切の無駄がなく、腰の剣の鞘は使い込まれて飴色に変わっていた。
半歩遅れて並ぶのは、同じ年頃の金髪の男である。背丈も装いも似たようなものだが、その髪だけは、陽を受けて眩しいほどに輝いていた。遠目にも、よく目立つ。物見に出るならせめて頭巾を被れと言われるたび、男は頑として撥ねつけてきた。曰く——髪を隠すくらいなら、見つからぬように動けばいい。
その理屈が、今日に限っては仇になったのかもしれなかった。
「逃がすな! 追えッ!」
「あいつら、ただの旅人じゃねえぞ! 剣の構えが堂に入ってやがる!」
「生かして捕らえろ! どこの手の者か、吐かせるんだ!」
背後から、怒号が追ってくる。
追手はおよそ十人。革鎧をまとい、槍を持つ者、抜き身の剣を提げた者が、殺気を噴き上げながら丘を駆け下ってくる。距離はあるのに、声だけがやけに近く聞こえた。それだけの殺気が声に乗っているということだ。
生かして捕らえろ、という言葉が、かえって恐ろしい。捕らえられた先に待つのが丁重なもてなしであるはずもなかった。
蝶の舞う長閑な花畑を、武装の男どもが命のやり取りを賭けて駆け抜けていく。舞台と芝居がまるで噛み合っていない、何とも物騒な光景だった。
逃げる二人の足には、まだ乱れがなかった。
片方が速度を落とせば、もう片方が合わせる。片方が進路を変えれば、もう片方が瞬時に追従する。言葉ひとつ交わさずに動きが揃うのは、長い年月を共に駆けてきた者同士だからだった。踏み潰された花弁が二人の踵から舞い上がり、風に流されて散っていく。
丘をひとつ越え、ふたつ越えた。
追手との距離は、詰まりも開きもしない。革鎧の重さと数の利が、ちょうど釣り合っているのだ。均衡を破るのは、先に息の切れた側になる——それが分かっているから、双方とも声だけを荒らげて、足は殺していた。長丁場の追走の呼吸である。あの連中、追うことに慣れている。その手際の良さが、また嫌な符牒だった。
ひゅん、と空気の裂ける音がした。
赤髪の男のすぐ脇に、投げ槍が突き立った。穂先が地面を抉り、土塊が跳ねる。花の茎が数本、斜めに断たれて倒れた。
「っ……!」
「当てる気か、あいつら! 生かして捕らえるんじゃなかったのか!」
「脚を狙っているんだろう! 走れなくしてから、ゆっくり捕まえる算段だ!」
冗談ではない。赤髪の男は奥歯を噛み、身を低くして、さらに加速した。太腿が悲鳴を上げる。それでも、足を止めるわけにはいかなかった。
「アルベルト、これはまずい! どこかで巻かないと、帰るに帰れんぞ!」
土の窪みに足を取られぬよう視線を足元へ配りながら、金髪の男が声を投げてくる。焦りは滲んでいるが、不思議と恐怖の色はない。この程度の窮地は初めてではない——そう言いたげな声だった。
「わかっている、グレイ! ちょうどいい、あの森だ! 逃げ込んでやり過ごすぞ!」
行く手で花畑が途切れ、深い森が壁のようにそびえていた。昼だというのに入り口から先は薄暗く、奥の様子がまるで窺えない。足場の悪い森へ逃げ込むのは賭けに近い。だが数で勝る追手を相手に、開けた場所で囲まれたらそれまでだ。走り続ければ、いずれ尽きるのは体力の方だった。
選べる道は、ひとつしかなかった。
「森だと? 正気か! あの暗がりで足でも挫いたらどうする!」
「文句を言うな! 他に手があるなら聞いてやる!」
「……ないな! よし、森だ!」
アルベルトと呼ばれた赤髪の男は頷きを返し、草を掻き分け、緑の壁へと突っ込んでいった。
森に入った途端、世界が変わった。
明るい花畑から一転、視界は薄闇に沈み、足元には木の根が縦横に這い回る。頭上を覆う枝葉が陽を遮り、わずかに差し込む光の筋が、舞い上がる土埃を白く照らしていた。湿った土と腐葉土の匂い。遠くの鳥の声。そして、自分たちの荒い呼吸だけが、やけに大きく耳に響く。
慣れぬ森を全力で駆けるのは、平地の倍は堪えた。木の根に足を掬われかけ、張り出した枝に頭を掠められ、二人は幾度も体勢を崩しかけた。一度などはアルベルトが濡れた岩で足を滑らせ、倒れ込む寸前をグレイの腕が掴んで支えた。礼を言う暇はない。視線だけを交わし、また走る。
だが、苦しいのは追う側も同じだった。
いや——革鎧を着込んでいる分、追手の消耗の方が激しい。背後の怒声と足音が、少しずつ、確実に遠ざかり始めていた。
その変化を、二人は聞き逃さなかった。
「グレイ! 木に登るぞ!」
アルベルトの視線の先に、ひときわ太い幹の古木があった。大人が三人がかりでようやく抱えられるかという巨木で、少し上から太い枝が四方に張り出している。枝葉は密に茂り、見上げても上の方はまるで見通せない。
この期に及んで木登りとは、人が見たら呆れたかもしれない。だが二人は迷いのない動きで、するすると幹を登っていった。その手際は堂に入ったもので、幼い頃から飽きるほど木に登ってきたことを窺わせた。高い場所から見える景色が好きで、叱られても懲りずに登り続けた——あの悪戯の日々が、まさか命を救う技になろうとは。人生とは分からぬものだと、アルベルトは枝に身を預けながら場違いなことを考えた。
太い枝の上に身を伏せ、外套を巻きつけて、目立つ髪と顔を隠す。呼吸を整え、気配を殺す。心の臓の音さえ下に届くのではないかと思える静けさの中、二人はじっと待った。
枝の樹皮が頬に冷たい。汗が背中を伝い、乾いた唇に土の味がした。すぐ耳元で、何も知らぬ蟻の列が幹を上っていく。時の流れが、粘つくように遅かった。
やがて、下草を踏み分ける音が近付いてきた。
「どこだ! どこへ行った!」
追手たちは、まんまと獲物を見失っていた。
よりにもよって、二人の潜む木の真下に、革鎧の男たちが集まってくる。アルベルトは枝の隙間から、息を殺してそれを見下ろした。男たちの顔には苛立ちと焦りが浮かび、荒い息の下で口々に喚き合っている。
「確かにこっちへ逃げ込んだはずだ!」
「足跡はどうした!」
「この暗さじゃ分からねえ! くそ、地面が固くて跡が残ってねえ!」
男のひとりが、腹立ちまぎれに幹を蹴った。鈍い振動が枝を伝って体に届く。グレイがわずかに眉をひそめたのが、薄闇の中でも分かった。アルベルトは枝を掴む手に力を込め、葉擦れひとつ立てぬよう全身を律した。
真下では、言い争いが続いている。
「手分けして探せ! 遠くには行ってねえはずだ!」
「待て、深追いはまずい。この辺りは巡回が通る。鉢合わせたらどうする」
「だがあの二人を逃がしたら、頭に何と報告するんだ」
「あの二人、何者だったんだ。身のこなしからして、ただの旅人じゃねえぞ」
「知るか。分かってるのは、これで俺たちの報酬が減るってことだけだ」
「……おい、そろそろ戻るぞ。集合の刻限に遅れたら、それこそ報酬どころじゃねえ」
「ちっ……仕方ねえ。お前ら、引き上げだ!」
男たちはしばらく周辺の草木を漁っていたが、やがて諦め、悔しげに顔をしかめながら来た道を引き返していった。
はじめまして、初連載となります。
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