第32話 枯井の血霜、鮫綃を染む
【巻ノ一・残頁卅弐:『大魏営造法式・内造氷室』残巻】
「建康の盛夏の酷暑、達官貴人は多く府邸の深くに数丈を掘り、青レンガを以て築き、冬日に氷を鑿って之を蔵す。夏日に至りて封を啓けば、寒気森森として、瓜果や生鮮を保つべく、亦た日の目を見ざる物を蔵匿すべし」――『司天監・工部考』
【司天監内部メモ】
出資側が何の警告もなくプロジェクトのデッドラインを前倒しし、プロジェクトチーム全体を責任者ごと口封じしようとしている時。いかなる通常の交渉手段もすでに失効している。
この時の唯一の解決策は。全身泥まみれのまま出資側のオフィスに這い込み、あの価値のつけられない交渉のテーブルを直接ひっくり返すことだ。
†
薄暗い枯れ井戸の壁で、時間が無限に引き伸ばされているかのようだ。
謝必安は青苔の生えたレンガの隙間にしがみつき、宙ぶらりんになっている。
左手の人差し指が過度の力で裂け、爪の隙間から溢れた鮮血が、膨らんだ暗赤色の血の滴りとなった。重力がこの温かい液体を無情に引き剥がそうとしている。
下方には、娼女の怨血がびっしりと刻まれ、わずかな異変でも煞気の暴走を引き起こす陣紋がある。
血の滴りが指先から離れた。
この千鈞一髪の際。謝必安の左肩から極致の氷寒が伝わってきた。
阿奴の美しい銀色の長毛が暗闇で幽光を閃かせる。この銀色の女王は姿勢すら変えず、ただ喉の奥から微細な冷鼻を鳴らしただけだ。
極めて純粋な霊気が枯れ井戸の陰風に沿って呼嘯しながら下り、空中のあの血の滴りに一寸の狂いもなく追いついた。
謝必安の耳に、ピキッという極めて微細な凝結の音が聞こえた。
暗赤色の鮮血は瞬時に凍結され、硬い紅宝石のような氷の粒となった。温度を失った氷の粒が下方の突き出た青レンガに当たり、パチッという細かな澄んだ音を立てる。
そのまま静かにレンガの隙間の泥垢の中へ転がり込み、井戸の壁の貪欲な血色の陣紋を驚かせることはなかった。
井戸を塞ぐ木の板の上で、足音が唐突に止まった。
「どこから来た寒気だ?」趙監丞の声に多疑な森冷さが透ける。「蘇老闆、この天字号の床暖房、まさか焼き切れたのではあるまいな?」
謝必安は死に物狂いで息を潜める。指の関節が力の入れすぎで死の白さを帯びる。
「趙監丞の考えすぎでございますよ」蘇小小の声が適時に響く。その柔媚な声からは、薪として焼かれる恐怖など微塵も聞こえない。「この天字号の部屋の真下は、忘憂閣が西域の瓜や果物を保存している深い穴蔵に繋がっております。今日、楼の娘たちが涼を求めて、冬に貯蔵した氷を数塊取りに行かせたばかりなのです。寒気が透けてくるのも無理はございません」
建康城の権貴の府邸や最高級の青楼には、数丈掘り下げて氷室を築く習慣がある。
蘇小小のこの機転の利いた言い訳が、阿奴の放った霊気による温度の急降下を完璧に隠蔽したのだ。
「フン。大典を目前にして、快楽を貪るような真似は控えることだ」趙監丞の足音が再び響き、玉佩の揺れる澄んだ音が伴う。「楼の人間をしっかり見張っておけ。明日の黄昏、逢魔の刻。もし陣の目に僅かでも綻びが生じれば、本官がお前を、鬼になることすら叶わぬようにしてやるぞ」
重い紫檀の部屋の扉がギィィと開閉する音。続いて、次第に遠ざかる厚い革靴の足音。
枯れ井戸の中。沈無の張り詰めた筋肉が、ついに微かに緩んだ。
この鏡妖司の千戸に微塵の躊躇はない。左手で配刀を逆手に握る。
刃が井戸を塞ぐ木の板の隙間に沿って音もなく刺し込まれる。手首が猛然と力を込める。数回の鈍い木材の引き裂かれる音の後、長年湿気で腐朽していた厚い床板が、一人通れるほどの破れ穴を強引にこじ開けられた。
目を刺す蝋燭の光と濃厚な脂粉の香りが瞬時に降り注ぐ。
沈無が両腕に力を込め、その身のこなしは矯健な黒豹のごとく、音もなく部屋の中へ翻り入った。
謝必安は万分に狼狽していた。
右腕の窯の温度の反噬はまだ完全に退いておらず、両足は長時間の登攀でとうに麻痺している。ほとんど上半身の力だけで、転がるようにして床板の破れ穴から這い出した。
ここは、奢靡の頂点に達した天字号の寝室だ。
頭上には千金も求め難い鮫綃の宝羅帳が吊るされ、半透明の軽紗が温風に揺れている。部屋の中央には、百年の沈香木の一枚板を彫り抜いた巨大な寝台が置かれている。隅の錯金博山炉の中では純浄な龍涎香が燃え、細く立ち昇る白煙を吐き出していた。
そして謝必安はそのまま、泥まみれ、胃酸、鮮血、下水道の悪臭を纏ったまま、一面に敷かれた絨毯の上に重く倒れ込んだ。
すぐには起き上がらない。そのまま勢いに任せて寝返りを打ち、高価な絨毯の上で大の字になって大口で喘いだ。
青色の官服にこびりついた黒い淤泥と血の汚れが、真っ白な絨毯の羊毛の上に、遠慮なく巨大な汚れを滲ませていく。
『ニャオォォ――ハックション! この部屋の白粉の匂いで俺様の鼻がもげそうだぜ! 親父、食うもんはないか? 腹の足しになるもんはないか? 腹が減ってペチャンコだぜ!』
銜蝉が続いて穴から這い出してきた。
この金色の太猫は、井戸の底の黒泥まみれの毛を勢いよく振るい、無数の泥の斑点を精緻な錯金の屏風や紫檀の低い机の上に均等に撒き散らす。嫌悪感たっぷりにくしゃみをし、爪で絨毯を引っ掻き、自分が持ち込んだ臭いを埋めようと試みた。
阿奴が空から舞い出る。
彼女はこの豪奢な寝室を素早く一瞥した。この高冷な銀色の女王は、優雅に沈香木の寝台の、一塵の汚れもないシルクの錦の掛け布団の上に降り立つ。
ゆっくりと前足を伸ばし、極めて高価な蘇州刺繍の布団の表面で、肉球の上の存在しない埃を極めて力を込めて往復して拭き取り、鮮明な爪痕を何本も残した。
沈無は直刀を鞘に戻し。挺抜な身躯を破れ穴の傍に立たせ、眼差しは氷のように冷たく、化粧台の前に座るあの女をロックしている。
蘇小小は悲鳴を上げなかった。助けも呼ばなかった。
名震建康城の最高級の花魁は。今、青銅の菱花鏡の前に孤立して座っている。
大紅色のシルクの寝巻きを羽織り、寝巻きには暗金色の曼珠沙華が刺繍されている。普段は群芳を圧するあの顔容は、今や血の気もなく蒼白だ。
趙監丞の「底層の陣の目へ叩き込み、薪柴とする」という言葉が。彼女のすべての偽装と僥倖を徹底的に打ち砕いていた。
彼女は銅鏡越しに、自慢の豪奢な寝室を台無しにしている背後の文官を見た。その者が口角に笑みを浮かべ、春風を浴びているような姿を見て、いかにも斯文敗類(教養あるクズ)だと感じた。
「謝拾遺、奴家のこの忘憂閣、本日は実に賑やかでございますね」蘇小小は振り返らず、声は粗砂を飲み込んだように嗄れている。「先ほど命を急かす無常を見送ったかと思えば、今度は借金取りの疫病神が参られました。あなたのその出で立ち、まさに地獄から這い出た悪鬼という言葉にぴったりでございますわ」
言い終わるや否や、蘇小小の目角の余光が、銜蝉が遠慮なく絨毯に身体を擦り付けているのを捉えた。怒りでその場で難癖をつける。
「無礼な食いしん坊の太猫! それ以上私の絨毯で野蛮に転げ回るなら、その毛皮に気をつけることね。丸坊主に剃り上げてやるから!」
直後、彼女は顔を向けた。顔の怒りは瞬時に媚びに変わり、阿奴に向かって甘えた声を出した。
「良い子の阿奴、小さなご先祖様。あの寝台は寝心地が悪うございましょう。奴家は少し雑用を片付けてまいりますゆえ、後ほどすぐにあなた様のお世話に上がりますわ」
「蘇老闆、褒めすぎだ。大魏の末端の従業員として、自分を悪鬼のように見せかけなくては、あの人を食って骨も吐かない紫袍の高官どもと条件交渉などできまい?」
謝必安は左手で絨毯を支え、よろめきながら立ち上がった。
化粧台の傍へ歩み寄り、机の上の、名も知らぬ獣骨で彫られた精緻な歩揺を遠慮なく取り上げる。歩揺の鋭い末端で、爪の隙間の黒泥をほじくり出した。
「さきほどのあの趙監丞の言葉、井戸の底ではっきりと聞かせてもらったよ」
謝必安は泥をほじくり終えた歩揺を、価値のつけられない脂粉の箱の中へ無造作に投げ入れた。カチャッという澄んだ音が鳴る。
「あの連中、デッドラインを二日も前倒ししやがった。明日の黄昏。この楼のすべての活人は、千嬌百媚の蘇老闆も含めて、全員地下の陣の目へ填め込まれてやり直すことになるんだとさ」
謝必安の右手がそのまま蘇小小の肩に置かれる。溶岩のような熱気が衣類越しに浸透してくる。
毒蛇に絡みつかれたように、彼女の肩が猛然と震えた。
彼女は下唇を死に物狂いで噛み締める。一筋の鮮血が口角を伝い落ち、あの大紅色のシルクの寝巻きに落ち、刺繍された曼珠沙華と一体になった。
「国師は約束してくださったわ……大典が功を成せば、忘憂閣は司天監の支配から脱し、建康城第一の商会になれると」蘇小小の声には濃厚な絶望と不甘が透けている。「私はあの方のために財を収め、極陽の気を集めた……あの方がどうしてそんな……」
「政客の目には、切り捨てられない消耗品など存在しない。ましてや青楼一つならなおさらだ」
謝必安は冷笑し、大魏朝廷の残酷さを無情に解剖する。
「大典がひとたび起動すれば、十万人の怨気の反噬は天地を滅ぼすに十分だ。国師は第一波の衝撃を受ける巨大な陣の目を必要としている。この満楼の鬼気と活人の血肉こそが、奴が用意したヒューズなんだよ」
硬直した右腕を引きずり、身を屈める。全身の強烈な悪臭と劣悪なアルコールの匂いを纏わせ、蘇小小の耳元へ近づいた。
「蘇老闆。あの描かれた大きな絵餅、あんたはもう食えないんだよ」
謝必安は銅鏡の中の、恐怖と絶望に満ちた目を直視する。
「今、あんたの目の前には二つの道しかない。一つ。この沈香木の寝台に座って、明日の夜、趙監丞の私兵に乱刀で斬り殺され、陣紋の餌として枯れ井戸へ投げ込まれるのを待つか」
懐から、自らの心臓の血がついたあの木の腰牌を取り出し、パァンという音とともに化粧台に叩きつけた。
「それとも、俺と協力するか。俺は鬼市の主、『提燈叟』のチップを持ってきた。あんたが底層の最も核心の陣の目へ入るのを手引きしてくれさえすれば。今夜、俺たちが国師の繋がりを絶つ。皆一緒に、この命取りの交渉のテーブルをひっくり返すんだ」
紅い紗の蝋燭の火が青銅の菱花鏡の前で揺れる。
沈無の手は終始刀の柄を押さえたままだ。
銜蝉は果実の香りを放つ西域の蜜瓜を抱えて大快頤しており、クチャクチャという咀嚼音を立てている。阿奴は蘇州刺繍の錦の布団の上で、引き続き爪の掃除をしている。
蘇小小はその血のついた腰牌を死に物狂いで見つめている。
しばらくして、この建康城首席の花魁は猛然と立ち上がった。シルクの寝巻きが雪のような肩に沿って大きく滑り落ち、鎖骨の、朱砂で彫られた妖異な紅蓮が露出した。
彼女は振り返る。あの本来恐怖に満ちていた眼眸には。今や、絶境に追い詰められた博徒の狂気の殺意だけが残されていた。




