第70話 エルダー・ワールドでの日々
その日は母が休みだった。
少年はカードを買いに行く事を母に伝えて家を出たが、その道中で不慮の事故に遭った。
近道の為に入った路地に建ち並ぶ真新しい施設が爆発し、光は少年を取り込んだ。
肉体だけを人間界に置き去りにして魂を引っ張られた少年は、後に研究所爆発事故として世間を騒がせたニュースを見る事は出来なかった。
気付くと辺りは真っ暗で木々が生い茂る獣道に倒れていた。
さっきまで昼だったのに、と不安げに辺りを見回しながら立ち上がる彼を見つめる赤い瞳。
これがシンとウェルヴェリアスの出会いだった。
兎に連れられ、木造の家に招き入れられたシンは自分が住んでいる世界について語り、兎の住んでいる世界について聞いた。
小学五年生ともなれば、ある程度の物事の判断は出来る年頃でシンはこの喋る兎を信じると決めた。
「私の名はウェルヴェリアスと言う。今からそう呼べ」
「うぇるぶぇりあす? 呼びにくいな。ウェルヴィーで良い?」
まん丸の目をぱちくりさせた兎は跳躍し、シンの胸に飛び込む。
彼はその重さを支えられず倒れ込んでしまった。
「良いとも! 今日からお前は"シン"で、私は"ウェルヴィー"だ。よく覚えておけ、お前が名付けた、お前を離さない兎の名だ」
「分かった。俺が迷子にならないように離さないで」
満足そうに笑った兎が立ち上がると純白の身体が伸び上がり、人の形を形成していく。
そこには兎の耳と山羊の角と漆黒の翼を持つ妖艶な女性が立っていた。
「……え、なに」
「こっちの方が馴染みやすいだろう?」
長身の女性へと変貌を遂げたウェルヴェリアスはシンを抱き上げ、愉快そうにクルクルと回る。
「随分、魂が傷ついているな。これでは友達になれない。んー、よし」
何かを呟いたウェルヴェリアスが顔を上げると彼女の背後から光り輝く何かが抜け落ち、部屋の隅に置かれた兎小屋へと入って行った。
ウェルヴェリアスは数千年前に共存を選んだ純潔の騎士の魂を削り落とし、シンが受け止められるだけの魂の重さに調整を図った。
こうして一人と一匹の共同生活が始まった。
しかし、シンは自分の住む世界との違いを見せつけられ驚愕した。
ハイテクな物は一切無く、教科書でしか見た事がないような昔の生活を送る彼らとシンでは価値観が違い過ぎた。
とにかく腹を空かせたモンスターに喰われないように、常にウェルヴェリアスの隣から離れなかった。
シンがエルダー・ワールドの生活に慣れ始めた頃、神殿のような場所へ連れてこられた。
そこはウェルヴェリアス達にとっての親とも言える神が住む神聖な場所であり、おずおずと進むと光の球が浮いていた。
シンの目にはそれが白髪、白髭の老人に見えていたが、ウェルヴェリアスは全く異なる姿を見ていた。
「人間の子供がエルダー・ワールドに落ちた。今は私が面倒を見ている」
「初めまして。お邪魔しています」
背中を叩かれたシンが頭を下げると神は顔に皺を作りながら満面の笑みを向けた。
「面白いだろ、少年。帰り道が見つかると良いな」
「帰るぞ、シン」
「待ってよ、ウェルヴィー」
あだ名を呼び合う仲だと知った神は二人の目の前に移動し、シンの頭に手を置いた。
「人間の子供、ワタシとゲームをしよう! ワタシに勝てたら願いを叶えてあげる。でも負けたら君の世界を貰う」
とても老人とは思えない嬉々とした声で勝負を挑んだ神はくしゃくしゃとシンの髪を撫でる。
「それからもう一つ。本当にウェルヴェリアスと友になるなら、このおまじないを覚えた方が良い」
シンの頭の中には文章が浮かび上がり、記憶として脳の深い場所に封じられた。
ゲームを持ちかけた神は愉快そうに笑い声を上げながら姿を消した。
更に一ヶ月が経ち、ウェルヴェリアスが人間の子供を匿っているという噂はエルダー・ワールド中に広まり、同時にもう一つの噂も広まった。
それは人間の子供と出会って以来、ウェルヴェリアスが食事をしていないという噂だ。
最初は戸惑っていたが、何を糧に活動しているのか気付いたウェルヴェリアスはまだ幼いシンにはその事を隠す事にした。
その噂を聞き、疑問を持った者が彼らの前に現れた。
大空を翔る翼は七色に彩られ、下から見上げるシンを目掛けて急降下する。
鋭い鉤爪で大地を踏み締め、巨大な翼を閉じた鳥型モンスターは見る見るうちに獣型と人型の中間の姿へと変えた。
「それが人間の子供か。なぜオレ様に黙っていた」
「私たちに序列は存在しない。なぜ私がいちいち貴様に報告しなければならんのだ」
人型であって人ではない二匹の魔獣は大気を揺るがす程の覇気をぶつけ合い、周囲にいるエルダー達は後退りを始める。
ウェルヴェリアスの背後に隠れるシンに鋭い眼光を向けるのは鳥型のエルダー、罪の魔獣の一匹であるウェガルミナス。
彼は孔雀と蝙蝠の翼を持ち、傲慢を司る魔獣だ。
「友情契約か。魂と命を繋ぐために半身まで失うとは、憐れだなウェルヴェリアス。しかし、それで飯が要らぬなら損得はないか。そいつをオレ様に寄越せよ」
「汚らしい手で触るな。冗談はその翼だけにしておけ」
額に青筋を浮き上がらせた二人の行動は全く異なるものだった。
ヴェガルミナスはライオンから孔雀の羽根が生えたような獣型へ姿を変え、上空から急襲をかける。
対してウェルヴェリアスはシンの前に立ち、鋭き鉤爪を弾き飛ばした。
シンの目の前で鮮血が噴き出し、視界を真っ赤に染める。
「ウェルヴィー!?」
「……私の後ろから出るなよ」
ウェルヴェリアスが兎の姿に戻ると背中から花の蕾が芽吹き、やがてそれは周囲の木々に負けない程に巨大となる。
そして、蕾が花開き、中から巨大な山羊の体と兎の顔を持つ獣が現れた。
他にも色々な動物の特徴があるように思えたが、足を震わせるシンは恐怖から目を瞑ってしまった。
激しい音と風が止み、ウェルヴェリアスの優しい声に促されて瞼を開けるといつもの彼女がしゃがみ込んでいた。
しかし、歯を鳴らすシンは彼女の手を取る事が出来ず、悲しみに暮れる彼女と共に無言で帰宅した。
その後、ウェルヴェリアスが本来の獣型の姿を見せる事は無かった。
何の前触れもなく、異世界への道が開き、シンはウェルヴェリアスに背中を押されて異空間の穴に飲み込まれた。
この時、ウェルヴェリアスの半身である純潔を司る徳の騎士の魂を護衛の為にシンにくっつけておいたが、その選択は正しかった。
閉じそうになる穴に飛び込んだヴェガルミナスは異空間の道でシンに襲いかかったが、純潔の騎士に守られ事なきを得た。
これがシン自身も忘れていた過去である。




