後編
(アルト。 戻っていたのね)
あのメイドとの話は済んだのだろうか。
つもる話があるのなら、もっとゆっくりしてくれても構わないのに。
と、緩やかな曲が始まって、リリシャはラフリートに手を引かれた。
その力強さに、思わず全身が強張る。
(アルト)
つい助けを求めるようにアルトを見やれば、彼の眉間には、微かに皺が寄っていた。
リリシャがステップを外し、相手の足を踏みはしないかと心配しているのだ。
いつも練習に付き合ってくれるアルトなら、リリシャがよろけて倒れかかっても、ヒールで踏みつけてしまっても、表情一つ変えずに許してくれる。
『ゆっくりで構いませんから』
そう言って、何時間だって耐えてくれる。
けれど、相手が名をあげつつある有力貴族とあってはそうはいかない。
リリシャはアルトから顔を逸らして、目の前のラフリートを見上げた。呼吸を整え、ステップに合わせる。
これまでのダンスの相手は、アルトが慎重に吟味し、上手くとりなしてくれていた。
(でももう、アルトの手は借りられないもの)
そつなく踊り切って見せると意気込みながら、リリシャはダンスに集中した。と、その耳にラフリートの笑みを含んだ声が届く。
「そう硬い顔をなさらないでください。ダンスは苦手ですか?」
見上げたラフリートは、クスクスと笑っていた。
「そんなに握り締めないでも離したりしませんよ」
言われてリリシャは、自分がラフリートの手を力いっぱいに握り締め、笑顔も会話もすっかり忘れていたことに気がついた。
リリシャは慌てて手の力を抜く。それでも曲は止まらない。
「ごめんなさい、わたし」
「大丈夫。安心なさって、わたしに任せてください」
片目をつぶって微笑んだラフリートは、その自信に違うことなく優雅にリリシャをリードした。
「お上手なんですね」
「普通ですよ。あとは数をこなすだけ」
歌うように言われてリリシャはなるほど、と感心した。
「わたしも色々な方と踊ってみますわ」
「それがいいでしょう。あなたはいつも一人か二人と踊って帰って行かれますからね。前の夜会も、その前の夜会も声を掛けたかったのに、すぐに帰ってしまわれるので残念に思っていました」
「それは、申し訳ありませんでした」
リリシャはそっと顔をうつむけた。
雑談やダンスが苦手だから最低限の社交で済むようにしていただなんて、口が裂けても言えない。それを手助けをしてくれていたアルトもただでは済まないだろう。
と、ラフリートが困ったような声を上げた。ほんの少し、ステップの歩調が緩まる。
「どうか落ち込まないでください。そんなつもりで言ったのではなく……わたしはただ、あなたとお近づきになりたかっただけなのです」
「……わたしと?」
「ええ」
腰に添えられているラフリートの手が、力強くリリシャを引き寄せる。そうしてくるりと回転させられた。自然なターンが出来たことに、リリシャはほっとした。
「リリシャ様」
と、妙に身体が近くなっていた。
鼻の先が、ラフリートの胸に当たりそうになる。ステップが踏みづらくなってよろめいたリリシャの耳元に、ラフリートが唇を寄せた。
「このあと、二人きりになる時間を許してはくださいませんか」
「え?」
「あの従者の許しがなければいけませんか?」
リリシャを抱きとめたラフリートの瞳がわずかに細められる。
その瞬間だった。
「お嬢様」
厳しく低く凛とした声が、リリシャとラフリートの間に割って入った。
リリシャは情けなくも一瞬、ほっとしてしまう。
独り立ちをすると決めたばかりなのに。
「アルト」
駆け寄りたい衝動を堪えて、なんとかダンスを踊り終える。
しかし、別れの会釈をしてもまだラフリートは離れてはくれなかった。腰に添えられた手もそのまま、なぜか一緒にアルトに歩み寄る。
困惑するリリシャには見向きもしないで、ラフリートはにこやかに言った。
「こんばんは。アルト殿、でしたかな。リリシャ様の護衛をなさっている」
「はい。アルト・フォン・イグバーツと申します」
「お噂はかねがね。確か、先日の剣術大会で優勝なされたとか?生憎わたしは見物にはいけませんでしたが、姫君方が熱をあげていらっしゃいましたよ。素晴らしくお強かったと」
「運が良かったのです、二度はないでしょう」
「またまた、ご謙遜を」
アルトの眉間の皺は消えていたものの、無表情に近い顔はそのままだった。
さっきまでは、あのメイドとにこやかに話していたのに。
「ラフリート殿。今宵はお会いできて光栄でした。わたし共はそろそろお暇させていただきますが、貴殿はどうぞ良い夜を」
丁寧な言葉も応対もいつものアルトそのもの。
けれどリリシャにはわかる。彼が早口なのは怒っている証拠、機嫌が悪い証拠なのだ。リリシャが勝手に有力貴族と踊ったことに、苛立っている。
帰りの馬車ではお説教を聞かされるに違いなかった。
考えが足りないとか、もっと気を付けてください、だとか。
いつまでも子供扱いされる悔しさに、リリシャはひどく気落ちした。
そうして、わずかな反抗心が生まれる。
いつまでも子供ではないのだと、彼にわからせたかった。
その思考こそが子供である証だとも気付けずに。
「いえ。わたしはまだ帰らないわ。ラフリート様とお話をするから。あなたは先に帰ってて」
真っ直ぐにアルトを見返して言えば、すぐに眉を顰められた。
「そうは参りません。旦那様も奥様も心配なされます」
「侍女を残すから大丈夫よ」
「ジゼルでは何かあった時に対応が」
アルトの言葉を、明るいラフリートの声が遮った。
「それなら心配は無用です。リリシャ様と侍女殿はわたしが責任を持ってお送りいたしますから」
アルトの鋭い視線がラフリートに向けられた。
「お心遣い痛み入ります、ラフリート殿。ですが今日ご挨拶をさせていただいたばかりの貴殿にそこまでのお手を煩わせるわけには参りません。今宵はここで」
「遠慮も無用ですよ。それに……以前からリリシャ様とはゆっくりお話ししたいと思っていましたので」
言いながらラフリートは、熱っぽい瞳でリリシャを見つめた。
「やっとお声をかけることが出来ました」
「……ラフリート様」
慣れない空気にリリシャは怖気付きそうになるが、ここでアルトに助けを求めるなんて格好悪い真似は出来ない。
大丈夫。会話をするくらいなんてことない。そばにはジゼルもつけておくのだし。
「ね、アルト。ラフリート様もこうおっしゃってくれてるし、大丈夫だから」
しかしアルトの態度は頑なだった。
何が大丈夫なのかと、苛立ったようにリリシャを睨みつける。面倒に思っているのだろう。
「なりません。もうお戻りになりませんと旦那様に叱られますよ」
まるで子供のわがままを窘めるような言い方に、リリシャの心もささくれ立つ。
「平気よ。そんなに遅くならないもの」
「でしたらわたしもお伴いたします。宜しいでしょうか、ラフリート殿」
リリシャの背後でラフリートが不快そうに顔をしかめていた。しかし断る正当な理由も見つからず、頷く他はなかった。
「ええ。もちろん」
そうして、その夜会は一見は和やかに終わりを迎えた。
リリシャにとっての試練が始まったのは、帰りの馬車の中でのことだった。
「一体何を考えていらっしゃるんですか。未婚の娘が男性と二人きりになるなど、あり得ません」
馬車が走り出すと同時、アルトは怒りを露わにした。
せめてジゼルがいれば少しは味方になってくれたかもしれないのに――二人きりで話がしたいからとアルトに命じられて、彼女は別の馬車に乗り込んでしまった。
高圧的な雰囲気の中、リリシャは負けまいと向かいに座るアルトを睨み返す。
「アルトだって女の人と二人きりだったじゃない。あれはいいの?」
と、アルトが驚いたように目を見開いた。
明らかに動揺している。
「……立ち聞きなど、淑女のなさることではありませんよ」
「ジゼルとはぐれてあなたを探していたら、偶然見てしまったのよ」
「声をかけてくだされば良かったのに」
「随分楽しそうだったから邪魔をするのは悪いと思ったの。仲がいいのね」
「……ただの幼馴染です」
「ふうん。会えて良かったわね。それで、故郷に戻るんだったかしら」
「あれは、言葉のあやで」
「別にいいのよ、隠さなくて」
最低だ。こんな意地悪な言い方をするつもりじゃなかったのに、言葉があふれて止まらない。癇癪持ちと言われても、仕方がなかった。
「あなたを解任します。 お父様にはわたしから話しておくわ」
十年も一緒にいたのに、満足に笑わせてあげることも出来なかった。ひどい主人だった。
「今までどうもありがとう。 これからは好きな場所でお幸せにね」
「リリシャ様」
言い過ぎただろうか。アルトが声を荒げて、リリシャを睨む。
「いい加減になさってください。俺は故郷になんて帰りませんよ」
「だって……帰りたいって言ったわ」
「あなたがなんと言おうと、そばを離れるつもりはありません」
「どうしてよ、わたしといるのなんか窮屈なんでしょ?そう言ってたじゃない」
自由をあげると言っているのだから、リリシャの気が変わらないうちに、早く、どこか手の届かないところへ行ってほしい。そうでなければ、リリシャはまたアルトに甘えて縛り続けてしまう。
向かいで、アルトが投げやりに言った。
「ええ。窮屈ですよ。お嬢様はわがままですし、泣き虫ですし、昔から困らされてばかりです」
「……っだったら」
「でもお嬢様は、他の男がそばについて平気なんですか」
アルトの手が伸ばされて、膝に置かれたリリシャの手を握った。
「新しい従僕は、俺より無愛想で、厳しくて、年齢だってもっと上かもしれません」
「……我慢するわ」
「お嬢様には無理です」
キッパリと言い切って、アルトのもう一方の手がリリシャの頬に添えられる。
「さっきだって、あの男に触られて怯えていらっしゃった」
近づいてきたアルトの唇が、ゆっくりとリリシャの目尻に触れた。何が起きているのか分からなくて、固まるリリシャをアルトの黒い瞳が覗き込む。
「俺が気づいていないとでも?」
「……でも、誘われたら断っちゃいけないって」
「ええ。おそばを離れたのは俺の落ち度でした、すみません。今夜はジゼルがいるからと安心してしまいました」
後悔しましたと打ち明けながら、アルトは口付けを止めなかった。
首を傾けて、目尻から頬へと、唇を移動させていく。
「アルト……なにするの」
「あの男――ラフリートでしたか?あいつとふたりきりになっていたら、こんなことをされていたかもしれないんですよ。分かっていますか」
分からない。彼は紳士だ。そんなことあるわけない。
そう反論しようとしたのに、唇を塞がれてしまったせいで、リリシャはもう何も考えられなくなった。深く深く唇を重ねられ、ようやっと離された隙に、見つめられる。
「……いやだった?」
リリシャはじっとアルトを見つめた。
「アルトなら、いやじゃ……ない」
彼が笑った。
「良かった」
それは、あのメイドの女性といた時のような、弾けるような笑顔ではなかった。柔らかく、穏やかで、ほっとしたような、小さな笑み。
「ねえ。アルトは、わたしのこと面倒なんじゃなかったの……?」
アルトは困ったように微笑みを深める。
「面倒だったら、十年も一緒にいませんよ」
「じゃあ、好きなの?」
「嫌いな相手を心配したりしません」
「……あの女の人より、好き?」
「お嬢様を他の人と比べたことなんてありません」
言ったアルトの端正な顔が、もう一度近づいてきた。
「っ……待って、アルト」
「……なんですか」
「わたし、あなたのことがずっと、ずっと好きだったの。結婚したいくらいに」
彼は笑った。
「そうでしたか」
そうしてリリシャを抱きしめながら言った。
俺とお嬢様、どちらが先だったのでしょうね、と。
◇
あの日。大木から落ちてきたリリシャを受け止めた瞬間から、アルトの人生は大きく狂わされた。
ひどく愛らしい容姿をした少女に気に入られてしまったアルトは、公爵家の従僕として雇われ、お嬢様のお気に入りとして従わされた。
けれど不思議と、嫌な気持ちはしなかった。
リリシャは、アルトや仲のいい知人や家族の前ではよく喋るのに、初対面の人間の前では別人のように口を閉ざす娘だった。
これでは将来が思いやられると、アルトは彼女の両親の命で、補佐に回らされた。
公爵の計らいで爵位を与えられたのは、そんな経緯があったためだ。
以来アルトは、貴族の端くれとしてリリシャに付き従った。
リリシャに近寄ってくる悪い虫を追い払い、正しい道を敷いて歩ませる。
「いつもありがとう、アルト」
そう言って、自分だけに甘えてくれるリリシャを特別に思い始めたのはいつからだろうか。
もう分からない。覚えていない。
一緒にいる時間が長すぎた。
と、腕の中に抱き締めていた少女がモゾモゾと動いた。
「ねえアルト、お父様にはなんて言ったらいいのかしら」
「そうですね。正直に話してみましょう」
「反対されたら、どうしましょう」
「その時は俺の国に行きましょう」
リリシャはわずかに興奮して言った。
「駆け落ちね」
「そうなりますね」
リリシャを抱きしめ直しながら、アルトは彼女の髪を撫でた。
でもきっと、その心配は必要ない。
公爵は末娘のリリシャを溺愛している。爵位は彼女の兄君たちが継ぐであろうし、リリシャが目の届く範囲で住まうとなれば、公爵も許してくれるに違いなかった。それにアルトには十年をかけて得た信頼がある。
間違ってもラフリートのような財産目当ての男に嫁がせるよりはいいはずだ。
「なんだかドキドキするわ」
「うん、俺も」
頬に両手を当てて落ち着きなく喋り続けるリリシャの額に、アルトは唇を寄せた。
今までは家来として仕えてきたから感情をなるベく抑えてきた。
でもこれからは違う。
たくさんの愛情を示していける。
そんな喜びに、満たされていた。