置いていかない側へ
旧郵便庫の屋根裏は、寝返りを打つたびに梁へ頭をぶつけそうな狭さだった。
斜めの天井。
小さな窓。
古い木の匂い。
夜のあいだに冷えきった毛布。
それでも、追い出された宿舎の端部屋よりは、少しだけ息がしやすかった。
誰かに「使っていい」と言われた場所だからだ。
朝、目を覚ますと、窓の向こうはまだ薄い灰色だった。
南水路の上に霧が低く流れている。
王都の朝は早い。
下の通りでは、もう荷車の車輪が石畳を鳴らしていた。
ユリスは身を起こした。
狭い。
頭を下げないと立てない。
足元の鞄は昨夜のまま。
判定票も、替えのシャツも、そのまま入っている。
三日だけ。
その言葉を思い出すと、背筋が自然と伸びた。
遅れたら終わり。
使えなければ、三日待たずに切る。
昨日、ちゃんとそう言われている。
顔を洗って下へ降りると、旧郵便庫の中はもう起きていた。
長机の上に黒パンが切られている。
薄いスープの鍋から湯気が上がっている。
棚の上には導具、導索、応急灯、包帯箱。
どれも新しくはない。
だが、手入れだけはされていた。
使い捨てるためではなく、次も持って帰るための道具の置き方だった。
ガルドが紙袋を片手に立っていた。
「ぎりぎりだな」
「すみません」
「まだ間に合ってる」
それだけ言って、黒パンを一切れよこす。
言い方はぶっきらぼうだが、追い払う感じではなかった。
フィオナは机の端で導具を点検していた。
赤毛をひとつにまとめ、朝から機嫌がいい顔ではない。
「今日使えなかったら、荷物持ちでもいらないから」
挨拶みたいな口調で言う。
ユリスは頷いた。
「……はい」
ノエルは包帯を巻き直しながら、小さく会釈した。
「お、おはようございます」
「おはよう」
返すと、ノエルは少しだけ安心したように肩の力を抜いた。
最後に、ミレナが奥から出てきた。
外套の前を留めながら、机の上に紙を広げる。
「朝の巡回札が二枚。どっちも大きくはない」
紙の上には、南水路沿い一帯の簡単な地図が描かれていた。
赤い印が二つ。
どちらも中央駅みたいな目立つ場所ではない。
「一つは停灯確認。もう一つは、旧染色倉庫の裏手で異音。結界灯が一度落ちて、戻りが遅かった」
ガルドがパンを噛みながら言う。
「嫌な方だな」
「うん。だから先にそっちを見る」
フィオナが鼻を鳴らす。
「どうせまた“正式発生ではありません”って書き方でしょ。正式になってから呼ぶと金が増えるから」
「あり得る」
ミレナは否定しない。
ユリスは紙の端を見た。
旧染色倉庫。
南水路から一本入った裏路地。
住居と小工房が混じる区画だ。
きれいな地区ではない。
だが、人はいる。
だから放っておけない。
ミレナが紙を畳む。
「アークライトは強くない。だから、崩れる前に閉じる。人を残さない。深くしない。それが仕事」
言い方は静かだった。
けれど、その言葉はまっすぐだった。
グレイヴァルの時は、先に来たのは戦果だった。
どれだけ派手に閉じるか。
どれだけ見栄えよく勝つか。
ここでは順番が違う。
ユリスは黒パンを飲み込んだ。
硬かった。
だが、不思議と喉には詰まらない。
「ユリス」
ミレナが視線を向ける。
「今日は仮補助。荷物、導索、応急灯。あまり前へ出なくていい」
「……はい」
答えると、ミレナはそれ以上何も言わなかった。
試すような目でも、疑う目でもない。
ただ、役割を置いただけだった。
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旧染色倉庫のある区画は、朝でも薄暗かった。
建物が近い。
干された布が路地の上を横切っている。
水路から上がる湿気が、石壁の色を一段暗くしていた。
先頭はガルド。
その半歩後ろにミレナ。
フィオナは右の路地を見ながら歩き、ノエルは包帯鞄を抱えて足早についてくる。
ユリスは最後尾に近い位置で、予備導索と応急灯の箱を持っていた。
これでいい。
今日は雑務だ。
渡せと言われた物を渡し、引けと言われたら引く。
倉庫裏の角を曲がった時、ミレナの足が止まる。
「……落ちてる」
壁際の結界灯が、昼でも分かるほど弱く明滅していた。
点く。
死ぬ。
戻る。
その間隔が、一定ではない。
通りの空気が重い。
耳の奥が少し詰まる。
人の話し声も、水路の音も、薄い布を一枚かけられたみたいに遠くなる。
ガルドが低く言う。
「住民は」
「さっきの巡回札だと、倉庫裏の長屋に三世帯」
フィオナが舌打ちする。
「朝から最悪」
ミレナはすぐに決めた。
「ガルド前。ユリス、導索。ノエルは後ろで退路確認。フィオナ、右の窓列を見て。人影があったら先に声をかける」
ユリスは箱を下ろし、導索を差し出した。
結界をつなぎ、退路や区切りを作るための細い導線だ。
現場では命綱みたいな道具だった。
長屋の入口は半開きだった。
中から、水音がする。
いや、水音ではない。
濡れた布を床で引きずるような、重く湿った音だ。
ノエルの顔が強張る。
「来て、ますよね」
「来てる」
ミレナが短く答える。
「まだ浅い。閉じられる」
その時、二階の窓が内側から叩かれた。
ばん、ばん、と乾いた音。
続いて、女の声。
「誰か! 誰かいるの!」
フィオナが上を見た。
「二階!」
窓の内側に、女が一人。
その背後に、小さな影がしがみついている。
子どもだ。
そして一階の扉の奥、暗がりが少し動いた。
布だった。
灰色に染め損ねた布の束が、床を這い、敷居に触れたところで立ち上がる。
腕のように細長い束が二本。
首のような捻れ。
顔の位置には、黒い染みみたいな穴だけがある。
揺れるたびに、水気ではない冷たさが路地へ落ちた。
見ているだけで、足が半歩ぶん遅れる。
ドレッドだ。
この長屋と倉庫に積もった嫌な感じが、そのまま形を取ったみたいだった。
路地の幅が急に狭くなった気がする。
息が浅い。
足首の奥が先に冷える。
ガルドが前へ出る。
だが一拍、遅れた。
盾を上げる角度が、ほんの少し鈍い。
フィオナも導具を向ける。
光が集まりかけて、散る。
ノエルは後ろで導索を持ったまま、足を固めていた。
顔色が白い。
余裕がない。
グレイヴァルとは違う。
押し切る火力も、一手のずれを吸収する厚みもない。
だから一つずれたら、そのまま崩れる。
ドレッドが細長い腕を伸ばした。
敷居から路地へ。
その先は、二階へ続く屋内階段の暗がりだ。
窓の女が叫ぶ。
「この子が、降りられないの!」
子どもの泣き声が重なる。
細く掠れて、喉の奥で引っかかるような泣き方だった。
その瞬間、ユリスは声を出していた。
「導索、ください!」
自分でも驚くほど大きな声だった。
ミレナが一瞬だけこちらを見る。
止める暇はないと判断したのか、巻いた導索を投げる。
ユリスは受け取って走った。
膝が硬い。
足裏が石畳に吸いつく。
それでも、階段の方へ行かなければ、あの子は降りられない。
ドレッドの腕が来る。
濡れた布の束が、顔の横を裂いた。
冷たい。
だが水ではない。
嫌な寒気だけが皮膚に残る。
ユリスは階段の手すりへ導索を巻きつけた。
「ガルドさん、こっち!」
声が震える。
震えているのに、ちゃんと通った。
ガルドが一歩踏み込む。
さっきまで鈍かった盾の角度が、ぴたりと決まる。
押し返されかけていた足が止まる。
石畳の上に根が生えたみたいに。
「――通すな!」
低い怒鳴り声が響いた。
フィオナの二射目が走る。
今度は散らない。
細く鋭い光が、濡れ布の胴を横から焼き裂く。
ドレッドの形が崩れる。
「当たった……!」
自分で言って、フィオナが一番驚いていた。
ノエルも動いた。
導索を持つ手の震えが止まっている。
退路の札を打ち、短く息を吸って叫ぶ。
「二階、下ろせます! 窓からじゃなくて階段で!」
ミレナの指示が飛ぶ。
「ガルド、そのまま入口を押さえて! フィオナ、右肩を切って形を崩して! ノエル、住民を受ける! ユリス、上!」
ユリスは階段を駆け上がった。
段がやけに高く感じる。
後ろではまだ、濡れた布の擦れる音がしている。
二階の部屋の前で、女が子どもを抱えていた。
顔は真っ青だ。
足がもう動いていない。
「降ります」
ユリスは言った。
「導索あります。こっちです」
女が頷く。
子どもを抱き直す。
ユリスは導索を女の腰へ回し、階段の方を見る。
下では、ガルドが一人で入口を塞いでいた。
盾に濡れ布が何度も叩きつけられる。
なのに、崩れない。
フィオナの光が次々走る。
さっきまでの迷いがない。
短く、速い。
ノエルは退路を確保したまま、受ける位置へ立っている。
顔色は悪い。
けれど踏ん張っている。
ユリスは女と子どもを先に下ろした。
ノエルが受ける。
泣いていた子どもが、ノエルの外套へしがみつく。
その瞬間、入口のドレッドが大きく膨らんだ。
倉庫の奥に残っていた布束まで引き寄せたのか、輪郭が一回り太くなる。
ガルドの足が石畳を滑る。
「……っ」
止まる。
止まりかける。
あれが崩れたら終わる、とユリスは思った。
入口が開く。
逃げ道が潰れる。
さっき下ろした親子も、ノエルも、まとめて押される。
心臓がうるさい。
手のひらが冷たい。
それでも、足だけは前へ出た。
「ガルドさん!」
呼びながら、ユリスは階段を跳ぶように下りた。
何をするか決めきるより先に、入口の横へ滑り込む。
応急灯を一つ、ドレッドの足元へ叩きつけた。
白い光がはじける。
ドレッドの輪郭が一瞬だけ揺らぐ。
その一瞬で、ガルドが踏み直した。
「――まだだ!」
盾が前へ出る。
重い音。
濡れ布の胴が押し返される。
同時に、フィオナの光が中心を貫いた。
今度は深かった。
濁った布の束が、真ん中から裂ける。
ミレナが導線を走らせる。
「そこ!」
細い光の筋が、裂け目を縫うように走った。
形が固定される。
ノエルが札を投げる。
「閉じます!」
紙札がドレッドの崩れた中心へ貼りついた。
黒い染みみたいだった顔の穴が、ぐしゃりと潰れる。
そのまま、濡れた布の束は床へ落ちた。
落ちて、
ただの布切れにはならず、
薄い影の粒になって消えた。
静かになった。
長屋の中から、水滴の音だけがする。
結界灯が一度、二度、弱く明滅し、それから戻る。
ユリスはその場で膝をついた。
遅れて、手の震えが戻ってくる。
さっきまで動いていたのに、もう力が入らない。
フィオナの声がした。
「……何、今の」
怒っている声ではない。
本気で分からない時の声だった。
誰もすぐには答えなかった。
ガルドは盾を下ろして肩で息をしている。
ノエルは女と子どもの無事を確かめている。
ミレナは黙って現場を見ていた。
フィオナの問いは、路地の空気に溶けて消えた。
ミレナがいつも通りの声で言う。
「住民確認。あと二世帯」
それだけだった。
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現場の後始末が終わる頃には、昼の光がだいぶ高くなっていた。
救助した女は、何度も頭を下げた。
子どもは泣き疲れて、ノエルの外套を握ったまま眠っている。
もう二世帯も無事だった。
戸口で足が止まっていただけで、深く入られる前に間に合ったらしい。
小さい案件だった。
中央駅みたいに号外が飛ぶ話ではない。
載るとしても、せいぜい後日の局報か、朝刊の地域欄の隅だろう。
帰り道、ガルドがぽつりと言った。
「……久しぶりだ」
ユリスが振り向くと、ガルドは少しだけ視線を動かした。
「押し負ける気がしなかった」
その言い方は、自慢ではなかった。
ただの事実みたいだった。
だが、それ以上は続かない。
理由を聞く相手も、答えられる相手も、ここにはいなかった。
ミレナが記録を閉じる。
「戻るよ」
全員が動き出す。
ミレナはユリスの横を通りながら、短く言った。
「……怖かった?」
聞き方が、昨日と同じだった。
ユリスは少し迷ってから、頷く。
「すごく」
「そう」
それだけ言って、ミレナは前へ戻る。
旧染色倉庫の裏路地を出ると、王都の昼が広がっていた。
行商の声。
洗濯物。
水路のきらめき。
何事もなかった顔の通り。
ユリスは予備導索の箱を抱え直した。
三日だけだ。
まだ仮採用だ。
それでも、さっきの長屋で、誰も置いていかれなかった。
その事実だけが、箱の重さより少しだけ確かだった。




