拾う手
橋の上の騒ぎが落ち着くまで、少し時間がかかった。
パン屋の女主人は何度も頭を下げ、郵便配達の少年は泣きながら鞄を抱えている。
荷車の御者は馬をなだめ、水路沿いの見回り役が遅れて駆けつけた。
結界灯は弱く戻り始めていたが、青白さはまだ少し揺れていた。
王都では、危険が終わるとすぐに後始末の顔が増える。
記録。
確認。
報告。
誰がどこにいたか。
結界灯は何本落ちたか。
兆候で済んだのか、正式発生まで進んだのか。
そういうことを確かめる人間が集まってくる。
ユリスは橋の袂で立ち尽くしたまま、それを見ていた。
怖さはまだ身体に残っている。
手も少し震えている。
なのに、周囲はもう次の段階へ進み始めていた。
その切り替わりは速い。
「こっち」
ミレナ・アストが短く言った。
橋の上で結界を張っていた女だ。
細身の外套。
淡い金の髪。
左手の導具はもう下げている。
だが、歩き方はまだ完全に現場のものだった。
ユリスは一拍遅れて、その背を追う。
水路沿いの通りを少し進んだ先に、古い煉瓦の建物があった。
高い窓。
使われなくなった投函口。
壁の上に、かすれた金文字で古い郵便局の名残がある。
旧郵便庫。
さっき掲示板で見た名前だった。
扉の内側は、思っていたより広かった。
昔の仕分け場らしい長机。
棚。
地図板。
導索の束。
応急灯。
予備の包帯。
結界灯の簡易部品。
豪華ではない。
だが、現場へ出る人間の場所だと一目で分かる。
ミレナは導具を机に置いた。
「座って」
今度の椅子は、追放の夜に座らされたものとは違った。
向かい合わせの詰問席ではない。
長机の横並びだった。
それだけで、少しだけ息がしやすい。
ユリスは鞄を足元に置いて座る。
ミレナは向かいではなく、斜め前に腰を下ろした。
しばらく沈黙があった。
外では、水路の上を荷車が渡る音がしている。
王都の昼は、何事もなかったように続いていた。
ミレナが口を開く。
「名前」
「ユリス・レインです」
「前の所属は」
「……グレイヴァルです」
ミレナの顔は動かない。
「辞めた理由は」
ユリスは少しだけ詰まった。
「命令違反で、切られました」
「命令違反?」
「後方待機と言われているのに、前に出て」
ミレナが静かに聞く。
「中央駅で?」
「……はい」
「旧六番線でも?」
「はい」
「さっきの橋でも」
ユリスは返事に少し遅れて、それから小さく頷いた。
「……はい」
ミレナは、その答えをそのまま置いた。
責めもせず、慰めもせず、ただ確認しただけだった。
「補助だったのに、なんで橋に入ったの?」
意味が分からず、ユリスは顔を上げた。
「え」
「グレイヴァルの補助だったんでしょう」
「……はい」
「前で戦えるわけじゃない」
「はい」
「それなのに入った」
ユリスは少しだけ黙った。
胸の奥で、言葉がいくつか浮かんでは崩れる。
怖かった。
今も怖い。
でも、あのまま立っていたら、少年は引けなかった。
それだけは分かっている。
けれど、それをそのまま言えば、また気分で動いたように聞こえる気がした。
「……怖かったです」
やっと出たのは、それだった。
ミレナの目が少しだけ細くなる。
「うん」
「すごく」
「それでも入った」
「……はい」
また少し沈黙が落ちる。
ミレナは水路の見える窓へ一度だけ視線を向け、それから戻した。
「中央駅の件、庁の速報写しを見た」
ユリスの肩が少し強張る。
「補助員が制止を無視して前方へ侵入、って書いてあった。名前はユリス・レイン」
返事ができなかった。
「報告書だけ読めば、ただの命令違反よ。でも今日、橋で同じことが起きた」
ミレナの声は低い。
断定ではない。
ただ、見たものを並べているだけの声だった。
「だから、ただの無茶じゃないのかと思った」
それだけだった。
ミレナはそこで追及を止めた。
それから、長机の端に置いてあった紙束を引き寄せる。
王都南部の地図と、出動記録だ。
「こっちの話をする」
紙の上を指でなぞる。
「アークライトは公認パーティ。等級はセカンド。アプレンティス、サード、セカンド、ファースト、スペシャルの順番の丁度真ん中。もちろん目指す等級はスペシャル」
ユリスは小さく頷く。
上でも下でもない。
王都の一面を飾ることは少ない。
だが、要監視区域の現場にはいちばんよく呼ばれる位置だった。
ミレナは淡々と続けた。
「受けるのは主に、要監視区域の兆候確認、小規模発生の初動、民間人排出、封鎖前後の整理。国家級案件は来ない。来たら、たぶん死ぬ」
乾いた言い方だった。
騎士団が外を止める前。
庁が大きく動く前。
先に踏む仕事ばかりだ。
目立たない。
だが、誰かがやらないと街の裏側から崩れる。
「メンバーは四人。私、ガルド、フィオナ、ノエル。本来は補助が一人いて五人だったけど、先月抜けた」
ミレナは紙の上を指で軽く叩いた。
「私のシジルは《導線》」
《導線》。
導索、結界、退路、人の立ち位置。
ばらばらのものを線で繋いで、現場を崩れにくくする力。
橋の上で、あの場がぎりぎり持っていたのも、たぶんそのおかげだった。
「補助が抜けて、負担が増えてるの」
「……それで募集を」
「そう。荷運び、導索、応急灯、搬送、記録、雑務。全部を回せる補助が欲しい」
必要な仕事を並べる声だった。
グレイヴァルで押しつけられていたものと似ている。
似ているのに、少しだけ違って聞こえる。
それが、誰かがやるべき仕事として置かれているからだ。
ミレナは続ける。
「先に言うけど、何でも用意できるわけじゃない」
「……はい」
「給金は多くない。補助は特に。食事も現場日中心。寝床は空き部屋が一つあるけど、かなり狭い」
狭い部屋なら慣れている。
そう言いかけて、ユリスは飲み込んだ。
ミレナは紙の端を揃える。
「だから、最初から正式には入れない」
そこで一度、顔を上げた。
「三日」
三本の指を立てる。
「三日、仮の臨時補助。現場に出る。その間に私が見る」
「……何を」
「雑務を投げないか。指示を聞けるか。怖がっても潰れないか」
怖がっても潰れないか。
その言い方が、少しだけ胸に残る。
今までいた場所では、怖がること自体がもう駄目だった。
ここでは少なくとも、怖がることそのものは否定されていない。
「質問は?」
いくらでもある気がした。
だが、まとまった形では出てこない。
最初に出たのは、別のことだった。
「どうして、俺を」
ミレナは少しだけ首を傾ける。
「補助が欲しいから」
「それだけですか」
「半分」
半分。
「残り半分は?」
ミレナは少しだけ視線を外した。
窓の外の水路は、さっきの前兆が嘘みたいに静かだった。
「橋で、少年を引いた」
ユリスは黙る。
「怖がってたのも見た。それでも入った。ああいう時に、本当に足が出る人間は少ない」
それは褒め言葉ではなかった。
ただの確認だった。
「少なくとも、見ないふりをする人ではなさそうだった」
そこまで言って、ミレナは机の上の紙を裏返した。
「それで十分。今は」
旧郵便庫の扉が開いた。
大きな足音が一つ。
それから少し軽い足音。
声が先に飛び込んでくる。
「おいミレナ、南水路の巡回札――」
入ってきた男が、途中で言葉を止めた。
大柄だった。
肩幅が広い。
だが、威圧感より先に疲れが見える顔だった。
その後ろから赤毛の女が顔を出し、さらにその後ろに年若い少年が覗く。
三人とも、一瞬で状況を読む顔をした。
ミレナが言う。
「補助候補」
赤毛の女が眉を上げる。
「もう拾ったの?」
「拾ってない。話してるだけ」
大柄な男はユリスと足元の鞄を見て、それからミレナへ視線を戻した。
「……荷物持ってるな」
「うん」
「宿無しか、所属切れか、そのへんか」
ミレナは短く答える。
「前所属、グレイヴァル」
今度は三人とも、少しだけ目の色が変わる。
王都では、有名パーティの名前は情報になる。
それが良い意味でも悪い意味でも。
ミレナは立ち上がった。
「紹介する。ガルド、フィオナ、ノエル」
大柄な男が片手を上げる。
「ガルド・ロイ」
赤毛の女が腕を組む。
「フィオナ・ルース」
最後の少年が、少し遅れて会釈する。
「ノエル・セインです」
ユリスも慌てて立ち上がる。
「ユリス・レインです」
フィオナがすぐに口を開いた。
「グレイヴァルにいられなかったのを、うちで見るの?」
遠慮がない。
ミレナは止めない。
ここで誤魔化さない方がいいと判断したのだろう。
ユリスは喉の奥で息を飲んだ。
「……まだ、決まってはいません」
フィオナは片眉を上げる。
「へえ」
「三日だけ見る」
ミレナがそう補うと、ガルドは短く息を吐いた。
「仮か」
ノエルは少し不安そうに、それでも興味ありげにユリスを見ている。
フィオナは視線を外さない。
「シジルは」
「《勇気》です」
ほんの一拍、空気が止まる。
やはりそうなる。
ノエルが目を丸くする。
「勇気……?」
ガルドは少しだけ眉を動かし、腕を組み直した。
何か考えているが、口には出さない。
フィオナは露骨だった。
「《勇気》? で、何ができるの。それ」
ユリスは少しだけ黙った。
「……分かりません」
「は?」
「正確には、自分でも、うまく説明できません」
フィオナの顔に呆れが出る。
「自分でも分からないシジル抱えて現場にいたの?」
ガルドが低く言う。
「フィオナ」
止めるというより、一度区切る声だった。
フィオナは鼻を鳴らしたが、それ以上は重ねなかった。
ミレナが口を挟む。
「だから三日見る」
ガルドが壁際の棚を指さす。
「寝る場所は上。屋根裏。かなり狭い」
ノエルが少し慌てて言う。
「えっと、僕は別に反対じゃないです。まだ何も分からないですけど」
フィオナが即座に返す。
「私は反対とまでは言ってない。ただ、分からないやつをそのまま入れるのは嫌ってだけ」
ミレナが鍵を一つ取った。
古い真鍮の鍵。
屋根裏部屋らしい小札がついている。
「仮採用。今日から三日」
ユリスはその鍵を見た。
自分に向けて差し出されているのに、少し実感がない。
「受ける?」
今度は、ちゃんと選ばせる形で聞かれた。
グレイヴァルでは、選ぶ余地なんてなかった。
切られるか、置かれるか。
それだけだった。
今は違う。
ユリスは喉を鳴らした。
「……受けます」
ミレナは頷く。
「じゃあ明日の朝七時。遅れたら終わり」
ガルドが棚の方をもう一度親指で示す。
「寝るなら上。荷物はそこ」
フィオナが腕を組んだまま言う。
「使えなかったら三日待たずに切るから」
ノエルだけが少し困ったように、
「よろしくお願いします……たぶん」
と言った。
たぶん、がつくあたりが正直だった。
ユリスは鍵を受け取った。
真鍮は冷たい。
だが、昨夜の追放の封筒よりは重い。
ほんの少しだけ。
旧郵便庫の窓の外では、南水路の上を昼の光が流れている。
結界灯はまだ少し不安定だ。
王都の不穏は終わっていない。
自分の行き先も、まだ確かなものではない。
完全に拾われたわけではない。
それでも、昨夜よりはましだった。




