53 ネタのために、俺は未来を探り続ける。⑨
どうもこんばんは、矢暮です。
今夜も少し真面目な話題になってしまうのですが、僕なりの視点であれこれ語ってみたいと思います。
今夜のテーマは、ずばり【人間学】。
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まあ、人間学つーたって、僕自身座学で何かを勉強してきたわけでもなく、特別に何かそういう集団に属しているわけでもありません。
でもそれなりに生きてきた証として、会得してきたものをネタを織り交ぜながら語ってゆこうかと思う次第です。
このエッセイもどき【なぜパプテマス・シロッコは赤い彗星を“ニュータイプのなり損ない”と揶揄したのか?】の表題に対しての回答部分である13話でも示した通り、シャアの社会的育ての親になろうとしていたブレックス准将の死が、彼のその後の顛末を物語っていることを記しました。
実は、僕自身にも身に覚えのあるというか、シャアというキャラクターに“ある部分”が若い時分にオーバーラップされていると感じていたから、そういうことに気付けたのだと今になって思うところがあります。しかもそれは、今現在のこの年齢になった自分に未だ残っているということも認識しています。
ただ僕が幸せに思うことは、実社会に出て様々な人たちと出会ってやはり、自分に多大に目をかけてくれた人がいたこと。
その人たちがいなければ、自分は今頃どうなっていただろうか?
なんてことを考えることが時々あるのです。
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そしてあの最近の事件、【清原容疑者の逮捕】。
僕は彼と二歳ほどしか違いません。数年前に亡くなった伊良部秀輝投手にしても清原と何か同じような匂いを感じざるを得ないのは、自分だけではないと思います。
彼らに共通して言えるのが、超の付くほどの【非凡な才能】と、【社会的な育ての親の不在】。そして【自分自身が自分自身でしかなかった】ということ。
そこに行くと、あの名将【仰木彬監督】の元に育った野茂英雄投手やイチロー選手などはある意味での比較対象になるかもしれませんね。
無論、端的な比較ですから単純なレッテルを張ることは好ましくありませんが、そういう部分は無きにしもあらずだったのではないか、と考えてしまう今日この頃です。
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多分そこには、実社会で生きる【人間学】というものが前者たちには欠けていたのではないか、という。
僕の大尊敬する【池波正太郎】先生や、幼少の頃より好きだったサブカルに関わる著名な作家、監督たちは、そういうことを誰よりも知っていた先駆者であると僕は思っています。
知識だ教育だ宗教だ哲学だ、そういうのが必要だ、なんてあの清原事件のようなものが起きると世間は騒ぎ立てますが、二十年前ぐらいに起こった【オウム事件】にしてもそう。そういう表面的な問題じゃない、って僕はいつも思うんです。
もっと大雑把でもいいから【人間学】というか、【人の本質】を知り、そういうところを原点としながら何かを考え、時代の変化と共に次の世代に教えてゆかなければならないだろう、と、そういう考えです。
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僕がよく使う用語として【きれいごと】というのがあります。
きれいごととは、
【何かを行おうとするとき、自然な物事として“リスク”が生じるのは当たり前のこと。それを“リスク”は一切ない、または故意に少なく見積もる】
という意味を示しています。
数年前に起きた原発事故然り、オウム事件の首謀者とされる教祖然り。
その根幹は【現実から目を背け、第一者に対して都合のよい世界を構築しようとしたこと】であると単純に分析できます。
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一世代以上前のカリスマとされる経営者の面々に共通していたのは、【人間的に魅力的】だったということは今更ながらの話ですが、そこに隠れている本質は、
【リスクを乗り越えてきた強靭さ】
であると僕は思います。
決して【大金持ち】だから、とかいう一択ではないと感じます。
でもある時期から増えましたよね。金を儲けるだけが上手い人を持て囃す風潮が。
それと僕がよく使う、
【中身空っぽ】
の意味は、人の良いところも悪いところも知らず仕舞いで、ただ自分自身のことしか考えていない、ということを指します。
その真逆に、人の本質を知り、その上で他人や世間の為に身をこなせる人。それは善とか悪とかの概念を超えた強い気持ちがある人でなければ出来ないことです。そういう人が昔は尊敬の対象であったことは口にするまでもないことです。
それが今は……。
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まあ、今日は真面目な話題になってしまいましたが、
【これからのネットの未来】
ということを考える意味では、そういうエッセンスも必要なのかと思う次第です。
つづく
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