第二十四章:油断大敵【黒毛和牛】足元注意
金属でできた茨の森は、太陽をキラキラと照り返して非常に目に優しくない。
まったく……これを作り出した神はいったい何を考えているのやら。
おそらく深い考えがあったわけではなく、単なる思い付きであることが予想されるが、連中はいつも力技で辻褄を合わせるから、一見すると完璧に見えてしまうだけにたちが悪い。
そんな摩訶不思議な森の中を、一羽の鳩が飛んでいた。
普通ならばごくありふれた光景だが、ここは神の作り出した闘技場。
こんな生き物が入り込む可能性は全くの0である。
やがてその場違いな生き物は、森の中を歩く二人の男のうち、袖の大きな衣装を身につけた男性の腕に舞い降りた。
その瞬間、その鳩の姿形が一瞬でほぐれて、一枚の紙片に変わる。
式神……身の回りの器物に霊を宿して使役する、陰陽道の高等魔術だ。
この鳩を飛ばした術者は、自らの手紙を鳩の姿に変えて、知人のところへ向かわせたのだろう。
陰陽道の高位術者ならばよく使う連絡方法だ。
「で? 椎山はなんと?」
二人のうち、腰に刀を差した男が、怪訝な表情をしながらもう一人の男に尋ねる。
「相打ちくらった。 怪我をして動けない。 あとはまかせたー ……だとよ」
「あいつ、絶対サボリだよな。 次会ったら、出合い頭に一撃入れてやる」
「だなぁ。 なにせ、椎山だし。 絶対に手抜きだ」
椎山こと神人Cの普段の行いを知るだけに、真面目にやっているとは欠片も思っていない。
そもそも敵のミノタウロス3体ぐらい一人で簡単に蹴散らす……というか、もともとが守護神に匹敵するだけの実力をもった男である。
牛島家の当主の側近は伊達じゃないのだ。
むしろ苦戦するほうがどうかしている。
「それにしても……なにか雲行きが怪しくなってきたな。 感じるか?」
神人Bこと米田が目の前を顎で指し示すと、神人Aこと梶もまた胡乱な目をしたまま頷いた。
先ほどから森の向こうで尋常では無い呪力が立ち上り始めている。
「おそらく何らかの神を降ろしたんだとは思うが……」
呪力の量は問題ではない。
米田もまた、守護神クラスの実力を持った神を扱える奉仕者。
しかも、呪術に長けた術師系の奉仕者なのだ。
尋常ではない呪力とはいえ、所詮は中級召喚師の上位レベル。
脅威と呼ぶにはまだ程遠い。
……ただ、その性質がよく判らないのだ。
「鎮められそうか?」
梶が隣を振り返ると、米田は肩をすくめて背嚢から荷物を取り出した。
念のために術を行うための触媒を用意するつもりなりだろう。
格下を相手にずいぶんと慎重な行動である。
「心配するな。 たしかに予想外の呪力の量だが、対処できないほどじゃない」
ただし――
「……相手がただの風の眷属ならば楽なんだが」
目を閉じ、相手の呪力からその属性を読み取って、降ろした神の正体に探りを入れる。
行く手を遮る茨の壁の向こうから感じるのは、風と炎の力。
たとえるなら――灼熱の砂漠を渡る荒々しき風。
灼熱の太陽。 血の匂い。 刃物を打合う金属音。 吹き荒れる砂埃……
「……クハッ、ケホッ」
「おいおい、どうした米田。 相手の呪力に感化しすぎたな? お前らしくも無い」
急にむせた神人Bの様子を見て、神人Aがからかうように笑う。
「すまん。 少し予想外の状況で対応をしくじった」
イメージの解析中に感度の調整を誤り、肉体まで影響を受けることはよくある失敗だ。
ただ、それが神人Bほどの術者ともなるとかなり珍しい。
「どうやら、相手は風と炎と言ったものに縁が深い神格を呼び出したらしい。 このパターンは、おおよそ軍神と呼ばれるタイプの神々に多い反応だ。 ただ、予想以上に神の格が高すぎる」
本来、この程度の呪力で呼べる神では無いはずである。
ならば……誰か、より高位の存在が介入したか?
――実に厄介な。
これだけのことが出来るとしたら、それはすでにこの世界の住人ではない。
おそらく犯人は守護神クラスの召喚獣。
しかも、そのなかでもかなり上位の存在だ。
まさか彼等も、その黒幕が自分たちの主であるミノルであるなどとは欠片ほども予想しておらず、後に盛大に文句をつけることになるのだが、それは後の話である。
「まぁいい。 こっちもそれなりの神を呼ぶぞ。 とっとと迎撃しろ」
神人Aの言葉に一つ頷くと、神人Bは祓詞を唱えて場を清め、荷物の中から三角の模様をいくつも連ねた柄の布を一枚取り出した。
そしてその布を恭しく捧げ持った状態で、その薄い唇から朗々とした祝詞を紡ぎだす。
「白雲の龍田の立野の小野に宮柱太敷立て、高天原に千木高しりて鎮ります、かけまくも畏き天御柱命・国御柱命の皇神等の大前に、宮司米田忠篤 恐み恐みもおさく……」
米田の口から流れ出したのは風鎮祭の祝詞。
風神にして龍神である天御柱命への祈りの言葉だ。
「……いや進めに進給い、大神徳を仰奉り恩頼を乞祈奉る。国々所々の人等を、いや益々に撫給い愛給いて、いや栄えに栄えしめ給しと畏み畏みも請祈奉らくともおす」
右手で印を組み、左手で布を振りながら祝詞を唱えると、手にした布がまるで生き物のようにうねり始める。
彼の手にした布は鱗箔といい、能の衣装の一つである。
龍神や蛇神を舞うときに着用する衣装で、その三角を連ねた模様は名の通り蛇の鱗を表したものだ。
「おいおい、田霊なんて呼び出したのか? 大盤振る舞いが過ぎるだろ」
梶の呆れたような声に、米田は横目でニヤリとわらって唇を吊り上げる。
田霊とは、タチ。 つまり龍のことを示す古い言語だ。
当然ながら極めて強力な神格であり、わけても天御柱命は最上位の存在である。
その呪力に呼応したのか、頭上を覆う空がみるみる曇って太陽の光を遮り始めた。
同時に、風が凪ぐ。
周囲の音が死んだように途絶え、甲高い耳鳴りが妙な緊張感をかきたてた。
――風が死んだか。
風鎮祭の祝詞は悪風を鎮め、田の豊穣を祈る呪文である。
その力の影響下では、いかなる風の呪力も功をなさない。
つまり、相手が呼び出したのが風の神ならば、その力はほとんど使え無くなるという事である。
「俺は格下を狩るにも手を抜かない主義なんだよ。 それに、お前も気づいているだろ? これだけの術、あいつら程度の術者が一人や二人で起動できるはずがない」
――つまり、何らかの奉仕者か神が干渉した可能性が高いのだ。
それも、雑魚じゃなくてかなり上位の。
言外に込められた台詞に、梶の顔が奇妙に歪む。
「……フェアじゃねぇな。 ま、もともとハンデつけないと相手にもならんが」
そう呟く彼らの目の前で、布の中央から湧き出るようにして一匹の白い龍が現れた。
いや、布そのものが龍と化したのだ。
布を媒体にした神の具現。
それこそが牛島家が統べる天王寺流陰陽道の流派の中でも、特に米田の家が得意とする術ある。
キシャアァァァァァァァァッ
竜の甲高い叫び声に呼応して、天にも雷鳴がとどろく。
同時に、龍の姿が虚空へと溶け、周囲に冷たい風が吹き荒れた。
「さすがだかな。 こうもあっさり相手の術を潰すとは」
どうやら、この地域の風は全て米田の支配下に入ったようである。
向こうの術者もこれで終わりという事は無いはずだ。
すぐに次の手を打ってくるだろう。
「さてと。 俺はここで向こうの呪い師の相手をしているから、梶はとっととそのボールを籠の中に入れて来い」
荷物の中からさらに玉串のような呪具を取り出すと、米田はそれをシャラシャラと振りながら顎で前を示した。
「任せた」
梶はそう短く言い捨てると、わずかばかりにのこった ルールに従い、ボールをドリブルしながら先に進んでいった。
その背中を見送りながら、米田は一人蛇のような笑みを浮かべる。
「さて、異国の呪い師よ。 お前はどこまでがんばれるかな?」
その体から濃厚な呪力をみなぎらせ、米田は静かに祝詞を唱え始めた。
「――磯城瑞垣の宮に 大八島国しろしめしし 天皇の御代に 長おすの遠おすと聞こしめす 五穀を 始めて 天下の公民の作と作る物は 草の片葉に至るまでに……ん?」
祝詞を唱えていた米田の動きが不意に止まる。
異変があったのは、梶と分かれてものの三分もしない間のことだった。
「鳥か」
気がつくと、米田の頭上を何羽もの鳥が円を描くように飛び回っていた。
むろん、出来たばかりのこの島に住む鳥などいるはずが無い。
ましてや海鳥ですらなく、猛禽である。
「なるほど……敵も使い魔を出してきたか」
その攻撃性と雄雄しい姿から、古来より鷹や鷲は軍神の使いとされる事が多い。
あまりにも高いところを飛んでいるのでその種類までを見分ける事は出来ないが、敵がギリシャ神話の住人である以上、その術もまたギリシャの神々の力によるものだと考えるべきだろう。
たしか、ギリシャ神話で鷹を聖鳥とするのは……最高神ゼウス!?
まずい! ゼウスの武器は雷だ! 雨雲を呼び寄せたのは失敗だったか?
風の呪力は完全に支配しているものの、雷はまったく別の要素である。
むしろ、相手が雷神であるならば風を封じる意味がない。
この時点で、米田はまさか敵の呼び出したのがエジプトの神格とは思ってもいなかった。
別に彼の分析能力が低いわけではない。
神を特定するのは、それほどに難しいのである。
先ほど感じた風と炎のイメージがゼウスの持つイメージと合致しない事に違和感を覚えつつも、米田は風を制御して雨雲を払った。
雨雲がなければ、雷撃を放つために余計な負荷がかかるはずである。
――だが、その瞬間。
まるで生きたミサイルの如く、空を舞っていた猛禽たちがいっせいに翼を窄めて残像すら見えないスピードで落ちてきた。
そう、それはまさに落ちてきたとしか言い様の無い攻撃。
傍から見れば、まるで天から無数の槍が落ちてきたかのように見えただろう。
「だが、甘い!」
術の切り替えの隙を衝いた絶妙の攻撃タイミング。
だが、米田とていくつもの修羅場を潜った猛者だ。
一瞬で風を制御して圧縮した空気の壁を作り上げる。
その壁に衝突した猛禽たちは、圧倒的な呪力の差にあがないきれず、次々に砕けて虚空に還っていった。
ゾクッ
だが、相手の攻撃を防ぎきったはずの米田の背中に、冷たい感覚が走る。
――まだだ。 まだ何か仕掛けている!
理屈ではない、勘とでも言うべきものが米田を突き動かした。
隠形をかけた使い魔を残しておいて、結界を解く瞬間を狙っているのか?
だが、天を見回してもそんな気配は感じられない。
しかし、まだ何か残っている気配がするのだ。
嫌な……感じだ。
米田の額から、汗が一滴したたり落ちる。
次の瞬間、敵の攻撃が再び始まった。
上から振り下ろされる猛禽の弾丸。
「無駄だというのが判らないのか!?」
再び大気の壁で打ち落とそうとした米田だが……
「なんだと!?」
突然地面から飛び出した猛禽型の使い魔が、米田の体を深々とえぐる。
――しまった!
使い魔とは、文字通り普通の生き物ではない。
つまり、空を飛ぶ生き物の形をしていたとしても、その本質は霊体。
敵は半物質にした使い魔を作り、地面を物理的にすり抜けて地中を飛行させるというとんでもない奇襲を仕掛けてきたのだ。
先ほどの攻撃は、米田の注意を上にひきつけるための囮。
敵は上からだけではなかったのである。
しかも、最初の攻撃もわざと使い魔の数を少なくして、その実力の底を隠していたのだ。
米田の油断……それは、術師としてあまりにも力の差があったため、相手が自分より戦術家として上であることを考えなかったことである。
「ま、まずい!?」
つづいて制御を失って消失した大気の壁の向こうから、敵の本陣である使い魔たちが突撃してくる。
避けようの無いその乱撃は、米田の体を的確に捉え、その肌をえぐり、切り裂く。
避けたところで次の攻撃が誘導ミサイルのように軌道を変えつつ時間差で突き刺さった。
さしずめ、鳥で出来たマシンガンのような猛攻。
「なめるな! ……アハリヤ アソバス トホウサニ アサクラニ アメノフユギヌノオオカミ オリシマセ」
米田がズタボロになった上着を脱ぎ捨てると、その衣服を祝詞と共に投げつけた。
宙に投げ出された衣服は一瞬硬直したように空中に停止すると、次の瞬間ものすごい勢いで白い煙を上げながら大爆発を引き起こした。
爆風と共に押し寄せたのは、吐く息ですら凍りつくほどの冷気。
雪と衣服の神である天之冬衣神の神力である。
使い魔である猛禽たちは、その猛悪なる大気に触れるなり地面に墜落し、まるで砂糖菓子のようにはかなく砕け散った。
「は……ははは! やってくれたな、この馬鹿牛どもがっ!!」
あたりに血の香りを漂わせながら、ゆっくりと米田が体を起こす。
その周囲に張り巡らされた風の呪力も神の気配も残らず消えうせていた。
おそらく血の匂いの不浄を嫌ったためだろう。
神道の神々は、血を"赤不浄"と呼んで毛嫌いしている。
「なるほどな、これでは神道の魔術は封じられたか」
神道において、"清浄"であることは絶対条件だ。
身が穢れれば、神々はあっさりとその呪力の供給をやめてしまう。
血まみれのこの体では、いくら神に奏上したところで願いに応えることは無い。
おそらく……この使い魔の攻撃で米田を倒せるとは思っていないが、米田の術を封じることは出来ると踏んだのだろう。
なるほど、呪力の差をひっくり返すなら非常に的確な方法だ。
むろん、米田の術の特性を事前に知らなければ考え付かない戦略である。
わずかな時間でありながらも、よく調べたものだ。
相手の戦略は、相手の力を奪った上での全力攻撃……ならば次こそ本気の攻撃を仕掛けてくるだろう。
見上げた空の向こうに、まるで群雲の如き空を飛ぶ生き物の群れが沸きあがった。
そこから感じる呪力も、今までとは比べ物にならないほどである。
――情報を修正せねばなるまい。
これは中級の術者ではない。
明らかに上級の術者の呪力である。
「ふん。 愚かな。 俺の力が神道の技だけだとでもおもったか? 我らが宗主たる牛島家が陰陽道の使い手であることを知らんようだな」
そう呟くと、米田は地面に落ちていた猛禽の羽を一枚拾い上げた。
「ふぅん……没薬か」
羽から香るかすかな香に、この呪術が没薬の煙を媒介にした魔術である事を感じ取る。
込められた呪力が切れたのか、その風切り羽は米田の指先で煙となって虚空に溶けた。
「まぁ、いい。 貴様らの体の一部を触媒とする以上、逃げられると思うなよ?」
そう告げると、米田は微かに残った没薬の煙を見据え、その薄い唇で異国の古い呪句を唱えた。
「――オン・ギャロダヤ・ソワカ」