第68話 前世の記憶
夜、一人で部屋にいた。
窓の外に星が出ていた。辺境の冬が終わろうとしていた。
前世のことを思い出した。
職場での最後の日のことではなく——もっと前の、普通の日々のことを。毎朝電車に乗って、オフィスに着いて、誰かに頼まれる前に準備をして、言われる前に動いて、帰りは最後だった。
「誰の役にも立たない。やめてもらっても困らない」という言葉は、ある日突然来たわけではなかった。
少しずつ積み上がっていた。
「また夜遅いね」と言う人はいたが、「ありがとう」と言う人はいなかった。「これやっておいた?」と言う人はいたが、「よくやった」と言う人はいなかった。
毎日、誰かの役に立とうとしていた。でも誰にも見えていなかった。
透明だった。仕事だけがあって、自分がいなかった。
* * *
転生して、辺境に来て——最初は、ここでも同じだと思っていた。
役立たずとして送られてきた。エドヴァルドに必要とされていない、と思っていた。ガストンに阻まれた。誰も気にかけない城の中で、ひとりで薬品庫を整えていた。
それでも動いた。前世と同じように。
でも——今回は違った。
「よくやった」という言葉が来た。「必要な人間を手放す気はない」という言葉が来た。「ありがとう」が来た。「ここにいていい」が来た。「あなたがいなくなるのが嫌だ」が来た。
エドヴァルドの顔が浮かんだ。
廊下でレティシアを見つけた時の顔。「よくやった」と言った時の、静かな声。深夜の薬品庫を訪れた時の、低い「やめろ」という声。城下から馬で連れ帰る時の、震えていた手。
「来るに決まっている」という言葉。
「……見えていた人がいた」
独り言が出た。「最初から、ずっと」という言葉が続いた。
* * *
前世の私が間違っていたわけではない。
仕事をした。記録をつけた。誰かの役に立とうとした。それは間違いではなかった。ただ——場所が違った。
前世の私は、透明だった。
今ここでは——見えている。
エドヴァルドには最初から見えていた。カルルも見ていた。ミレイも。ヘルダも。ガストンも、やがて見てくれた。城下の領民も。
「……ここが自分の場所だ」
また独り言が出た。
窓の外の星が、少し動いた。雲が流れたのだ。
この場所で、私は誰かの役に立った。今生では、それが——見えた。
* * *
前世で死んだ理由は、過労だった。止まれなかったからだった。誰かに「止まれ」と言ってもらえなかったからだった。
今生では、「無理をするな」と言ってもらえた。「仕事は逃げない」と言ってもらえた。「今夜はやめろ」と言ってもらえた。
前世でそれがあれば、違ったかもしれない。
でも——前世があったから、今ここにいる。
その事実は、変わらない。
星を見ながら、静かにそう思った。




