第63話 黒幕の影
翌朝、書斎に行くと、エドヴァルドが外交文書を広げていた。
昨夜のことは、二人とも何も言わなかった。私が「おはようございます」と言うと、エドヴァルドが「来たか」と言った。それだけだった。
でも——何かが変わっていた。
昨日と同じ空間にいる感覚が、少し違った。遠慮が、薄くなっていた。
「昨日の調査が出た」とエドヴァルドが言った。「昨日の男たちは、ヴォルダ公国と繋がりを持つ商人から金を受け取っていた」
「……ヴォルダが動いたのですか」
「ヴォルダが直接動いたのではなく、辺境内の協力者を使った形だ。つまり、こちらの内部に誰かいる」
私は少し考えた。
「私を利用しようとした理由は?」
「推測だが——あなたが兵站計算を完成させたことは、ヴォルダに伝わっていた可能性がある。あなたを人質にして、その計算を無力化しようとした」
「私の計算が、彼らにとって脅威になっていたということですか」
エドヴァルドが少し間を置いた。
「……そうだ。あなたの仕事が、このレベルで効いていた」
私は、その言葉を整理した。
私が計算したから、誘拐の対象になった。危険にさらされた。それは確かだ。でも同時に——私の仕事が「脅威になるレベルで機能していた」ということでもある。
「では」と私は言った。「その計算を完成させて、実際に使うことが、最善の応答です」
エドヴァルドが私を見た。
「……昨日のことが怖くなかったのか」
「怖かったです」と私は答えた。「でも怖かったから仕事をやめる、という判断にはなりません」
「……そうか」
エドヴァルドが小さく息を吐いた。怒っているのでも呆れているのでもない、何か別のものが混じった声だった。
* * *
カルルが書類を届けに来て、書斎に入った瞬間、少し止まった。
二人がいた。それは昨日もそうだった。でも今日は——空気が違う。昨日の緊張が、どこかに消えていた。
「資料をお持ちしました」
「置いておけ」
「かしこまりました」
カルルが書類を端に置いて、出ていった。廊下に出て、少し考えた。
何かが変わった。昨日の夕方から。
何があったか、詳しくは分からないし、聞くつもりもない。でも——変わった、ということは分かった。
* * *
「交渉材料が必要だ」とエドヴァルドが続けた。「ヴォルダが引くために、こちらが優位でなければならない」
「兵站計算は、交渉でも使えます」と私は言った。「「これだけの補給が確保できる」という数字は、こちらの備えの証拠になります。相手の恫喝が効かないという証明に」
「それが必要だ。完成版を仕上げてほしい」
「承知しました」
「あと」とエドヴァルドが付け加えた。「城下の視察には、今後は護衛をつける。それは変えない」
「……分かりました」
「ミレイ一人ではなく、衛兵を二名」
「承知しました」
私は書類を手に取った。計算の続きがある。前提条件を変えたシミュレーションが三パターン残っている。
感情を表に出した翌朝に、仕事ができている。これが——新しい自分かもしれない、と思った。感情を持ちながら、仕事もできる。どちらかを閉じなくていい。




