第55話 力を貸してほしい
「夫人、侯爵様がお時間をいただけるかとのことです」
カルルの伝言を受けて、私は少し間を置いた。それから「承知しました」と言った。
書斎へ向かいながら、試算の紙を持っていくかどうか迷った。呼ばれた理由が分からない。持っていけば「頼まれていないことをした」と思われるかもしれない。でも持っていかなければ、役に立てることが遅れるかもしれない。
迷ってから、持っていくことにした。
* * *
書斎に入ると、エドヴァルドが机の前にいた。書類が広げられていた。
「座ってくれ」
いつもと少し違う言い方だった。
「状況を説明する。聞いてほしい」
私は座った。
エドヴァルドが話した。ヴォルダ公国の動き。二千の兵。外交的圧力。要求を呑まないという判断。そして——軍の備えのための兵站計算が、複雑になりすぎているという問題。
「カルルが計算を試みたが、限界に来ている。前提条件の組み合わせが多すぎて、空白が埋まらない」
「……はい」
「あなたの台帳管理の力を——軍の補給計算に、借りることはできるか」
部屋が静かだった。
頼まれた、と思った。
これまでは自分から動いていた。問題があるから動いた。必要だから整えた。でも今日は——エドヴァルドが、私に、頼んだ。
「……やれます」
言いかけて、少し言い直した。
「いえ。やります」
エドヴァルドが少し目を細めた。
「手元の試算があります」と私は試算の紙を机に置いた。「昨夜から始めていました。まだ途中ですが、前提条件の整理はできています」
エドヴァルドが紙を見た。しばらく見た。
「……昨夜から」
「はい。物資台帳を確認していたら、自然に計算が必要と思って」
「もう動いていたのか」
「問題があれば放置できない性分なので」
エドヴァルドが少し止まった。それからゆっくりと言った。
「ありがとう」
「ありがとう」だった。
46話と同じ言葉が来た。でも今回は——「いただきます」と言う前に、自然に受け取れた気がした。
「こちらこそ。声をかけていただいてよかったです。遠慮していました」
「遠慮していたのか」
「邪魔になると思って」
エドヴァルドが何かを言おうとして、少し間があった。「邪魔ではない」とだけ言った。
* * *
カルルが書斎の外で待っていた。扉が閉まってから、少し息を吐いた。
侯爵が頼んだ。ずっと「評価する」側にいた人が、初めて「頼む」という言葉を使った。それが何を意味するか、カルルには分かっていた。
* * *
私は部屋に戻って、試算の続きを始めた。
頼まれた仕事は、全力でやる。前世からそれだけは変わらない。
でも——「頼まれた」ということ自体が、今夜はどこか温かかった。
「夫人!」とミレイが飛び込んできた。「何があったんですか!」
「仕事の依頼です」
「え……」
「兵站の計算を任されました」
「えっ!? 軍のやつですか!?」
「はい。では今夜は仕事をしますので、少し静かにしてください」
「……はい」とミレイが言った。少し目が輝いていた。
明朝から始めよう、と思いながら手を動かし始めた。




