第54話 兵站の壁
翌朝、カルルが書斎に書類を持ってきた。
「侯爵、整理してみました」
エドヴァルドが書類を見た。数字がびっしりと書かれていた。
「二千の敵に備えるとして、三十日分の補給を確保するには——食糧が、薬品が、武器の補充がどれだけ必要か。輸送ルートが変わった場合の試算も加えようとしたのですが」
「加えられなかったか」
「……私の力では計算の複雑さが限界を超えています。組み合わせが多すぎて」
エドヴァルドが書類を手に取った。数字は確かに書かれている。だが、前提条件が変わった場合の計算が全て埋まっていない。空白が多い。
「これでは動けない」
「はい。申し訳ありません」
しばらく沈黙があった。カルルが何かを言いかけて、止まった。それから言った。
「侯爵、実は——夫人の台帳管理の精度を、私は昨年から拝見しています」
「……」
「薬品庫の補充計画。兵站の計算表。食糧倉の品目別管理。前提条件が変わった場合の試算も、あの方は計算表の中に組み込んでいます」
「それは分かっている」
「あの方なら、この計算もできると思います」
エドヴァルドが書類を置いた。
「妻に頼むのか」
「お力を借りることは、戦時の合理的な判断と思います」
エドヴァルドが少し沈黙した。
頼めばいい。それは分かっている。あの人は断らない。能力もある。問題はそこではなく——。
「……戦のことに、巻き込みたくない」
低い声だった。
カルルが少し間を置いて言った。「侯爵、夫人はすでに昨夜、物資台帳を自分で確認されていました。気づいておられるのかもしれません」
* * *
同じ時刻、私は部屋で試算を続けていた。
物資台帳の数字を基に、いくつかの前提条件を変えて計算した。敵が国境を越えてきた場合の補給の変化。輸送ルートが一本になった場合の最低在庫水準。薬品の消耗が通常の三倍になった場合の補充計画。
前世で医療事務の仕事をしていた頃、病院の薬品発注計算をしていた。手術の件数、患者数、季節変動、緊急入庫のタイミング——あれと構造が似ている。組み合わせが多くても、前提を整理すれば計算できる。
「……これなら分かる」
独り言が出た。
でも——呼ばれてもいないのに持っていくのは。
「出過ぎない」という考えがまた来た。軍事のことはエドヴァルドと重臣たちの話だ。私は内務の管理を任されているが、軍の兵站に口を出すのは、頼まれていないことをすることになる。
やっぱり待つべきか。
試算の紙を手の中で持って、迷っていた。
* * *
書斎でカルルの言葉を聞いた後、エドヴァルドはしばらく窓の外を見た。
「すでに確認している」——あの人は、頼まれなくても気づいていた。問題があれば放置できない性分だ、と自分で言っていた。
妻を戦の計算に使いたくない、という感情は本物だ。でも——妻がすでに動いているのに、こちらが声をかけないのは。
「カルル」
「はい」
「夫人に、少し時間をもらえるか聞いてくれ」
「かしこまりました」とカルルが言った。少し速く。




