第40話 無理をするな
翌日の朝、執務棟に書類を届けに行くと、エドヴァルドが「少し待て」と言った。
書類を机に置いて、待った。エドヴァルドは他の書類を片付けて、それから私を見た。
「昨夜のことだが」
「……ご心配をおかけしました」
「集中すると止まれないのか」
私は少し考えた。
「……はい。前世でも同じことで——」
言いかけて、止まった。
前世でも同じことで、死んだ。
エドヴァルドが少し動いた。
「前世というのは」
「……いえ」と私は言った。「なんでもありません。昨夜のことについては、ご迷惑をおかけしました。今後は気をつけます」
エドヴァルドがしばらく私を見た。「前世」という言葉に引っかかっているのが分かった。でも追及はしなかった。
「無理をするな」
静かな声だった。
「仕事は逃げない」
私は——手が止まった。
仕事は逃げない。
前世では、いつも締め切りがあった。今日中に。今週中に。今月中に。間に合わなければ誰かに迷惑がかかる。だから止まれなかった。「後でやる」という選択肢がなかった。仕事は逃げないどころか、常に追いかけてくるものだった。
でも——ここでは。
「……そうですね」
私は答えた。いつもより少し素直な声が出た気がする。
「ありがとうございます」
エドヴァルドが少しだけ、何かを言おうとしたような間があった。でも結局、「下がっていい」と言った。
礼をして、扉を閉めた。
* * *
廊下で、カルルが待っていた。
「侯爵、最近夫人のこと、よく気にかけていますね」とカルルが言った。
エドヴァルドはしばらく黙った。
「……仕事に支障が出るからだ」
「夜中まで働いて?」
「そういうことだ」
カルルが「はあ」と言った。疑っているわけではないが、信じてもいない、という顔だった。
* * *
部屋に戻ると、ミレイが待っていた。
「夫人、今日は早めに昼食を取りましょう。昨日あまり食べていなかったでしょう?」
「……ミレイは知っているのですか」
「侯爵様が使用人に「夫人に朝食をしっかり届けるように」と言ったそうです。朝から」
そうか。私が昨夜あまり食べていなかったことを、伝えていたのか。
「夫人」とミレイが言った。「最近侯爵様が夫人を気にかけているの、伝わってきて……なんか、いいですよね」
「……そうですか」
答えながら、手が止まった。
帳簿を手に持ったまま、少し考えた。
大切にされている、ということだろうか。昼食の差し入れ。薪の増量。夜中の声かけ。今朝の朝食の指示。言葉は少ないが、行動が積み重なっている。
「……どうすればいいのか分からないです」
「え?」
「大切にしてもらうことへの、答え方が」
ミレイが少し目を丸くして、それから「……夫人らしいですね」と言った。
「そうですか」
「大切にしてもらっていると気づいているんですね、ちゃんと」
「はい」
「じゃあ、まず受け取ることです。ありがとうございます、と言うことです」
「……言いました、今日」
「じゃあ大丈夫です!」
ミレイが明るく言った。
私は少し、自分の手の中の帳簿を見た。受け取ること。「大切にされている」という感覚を、拒否せずに受け取ること。
前世でも今生でも、それが上手くできなかった気がする。
でも——少しずつ、できるようになっているかもしれない。




