表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
27/27

27 : 私の魔法使い

 カァーーッ


 青く冴え渡る空に、烏の鳴き声が響いた。

 王城の一角に、バサバサバサ、と翼を広げて飛び降りる烏が一羽。その烏に腕を差し出したのは、一見少女にしか見えない少年だった。少年は烏の嘴を叩き、いくつかの命令を下すと再び空へと放つ。

 烏が点となっていくのを見届けた少年は、次の仕事へ移ろうと体を翻し、動きを止める。そこに、まるで自分も呼ばれましたとばかりに胸を張る物体が鎮座していたのだ。


「……なに、お前」

「きゅえっ」


 トカゲにしては大きくて、竜にしては小さい。しかしその翼と、吐き出した炎がこの物体が竜だと証明していた。少年はふと視線を逸らすと興味なさげに呟いた。


「あっち、行っていい」

「くえー」

 きゅるるーと喉を鳴らしながら、竜は少年の足元にすり寄った。少年はただただその竜をじっと見下ろすことしか出来なかった。




***




「っだああーーー!! あれから半年もたつのに、ネチネチネチネチ……」

「仕方ありません。宝剣シア・グローディスを託されたというのに、まさか突っ張り棒代わりに使うなんて……陛下のご心痛お察しいたします」


 カッカッカッと軍靴の音が石畳の回廊に響く。

 二人が歩いてくるのに気づいた人々は皆顔を上げ、笑顔を浮かべると礼を取る。片手を胸に、片手を背中に。この世界で、敬意を示す人間に送る礼だった。


 それは襟に刻まれた階級を表すラインへだけでない。


「あーもう色気のない話はいーや」

「残念ながらここは色気のない話をする場所です」

 男の言葉をバッサリ切った女は、腕に抱えている書類を手で摘まんだ。


「取り急ぎの案件だけでこれほど」

「もーやだー」

 プイッと顔を背けた男が目にしたのは、壁に張り付いた団子――もとい、人だかり。

 念入りに気配まで消して、人々はとある扉の前に張り付いていた。その扉は、男と女と共にこの世界を救った英雄の執務室である。


「……なぁ」

「なんでしょう」

「色気のある話は、しちゃいけないんだっけか」

「時と場合によりますね」


 男と女は顔を見合わせると、そそくさと団子の中に紛れ込んだ。





 ――時は、少し遡る。





「あの、サイード・シャル・レーンクヴィストって何処にいますか?」

「あぁ、レーンクヴィスト法師なら今さっきまでここに――って、誰だお前は」


 奇天烈な意匠に身を包んだ、背の低い少女が衛兵に尋ねた。城を守る衛兵はその声に答えようとして顔を顰めた。

 少女は、えっ? と驚くと、合点がいったように顔を触った。なるほど、と一人で頷き、にっこりと微笑む。


「壺姫です」


「あぁまたか」

「おーいしょっぴけー」


 やる気のない衛兵の言葉でドヤドヤと兵が集まる。えっえっと驚く少女の脇を固めると、長い廊下をズルズルズルと引きずって行った。





 平和が戻ってきた常世(とこよ)は、生気に溢れていた。皆が勇者をはじめ、英雄である騎士団長や王宮魔法使い官長を褒め称えた。

 当然、聖女も例外ではない。


 緘口令が敷かれているとはいえ、人の口に戸は立てられない。聖女は壺を被っていて顔を確認できなかったと知るやいなや、ナズナに集るアブラムシよりも多い偽物がうじゃうじゃと湧いて出てきたのだ。


 英雄である聖女を騙る不届き者を断罪しようにも、有象無象に湧いてくる人物を片っ端から処断する時間も人手も足りなかった。恥知らずの中には、国にとって簡単に切り捨てられない位置にいる貴族女性も多くいた。

 国は特別処置として壺姫――聖女を騙る者は、身分によって少しの度合いが変わるお説教の末、保護者に返還することになっていた。


「また今日も出たのか、偽壺姫」

「魔王が討伐されて半年、あらかた落ち着いてたんだけどなぁ」

 職務が終わった衛兵は、同僚と話しながら城の廊下を歩いていた。あまりにも多発するため、壺姫詐称事件に機密性などあったものではない。衛兵も騎士もメイドも城下町の子供だって。皆、壺姫が偽物だということを知っていた。


「そういや今日の娘は、着ていた衣の雰囲気が違ったなぁ」

「どんなんだった? 壺姫様のお召し物が奇天烈ななりだったって噂が先行して、変なんばっかが来たよなぁ」

 ある日は布地が平均の倍もありそうなほどの華美なドレス。そのまたある日は体の線がつまびらかに見えるシルクのドレス。とにかくどうにかと、布を巻きつけただけの娘もいた。


「まぁでも今までの中で俺はダントツ好みだね。今日身元引き受けに来なかったら、俺ちょっとデートにでも誘っちゃおうかな~」

「へーそんなよかったんだ」

「おう、笑顔がなぁ、よかったんだよ。花が咲くっちゃー正しくあれだな」

 へーいいなーと笑う仲間たちの声を無情に引き裂く、冷たい声が廊下に響いた。


「失礼――その話、詳しく聞かせてくれますね」




***




「名前は」

「気軽に言っちゃ駄目って言われてるんですぅー」


 王城のどこかの地下で、笑美は事情聴取をされていた。日当たりとは無縁のじめじめした暗い部屋は、今の笑美の格好では少しばかり涼しすぎる。

 ドラマみたーい、かつ丼持ってこーい! そう言いたくなるのを必死に我慢して、笑美は何度目になるかもうわからない問答を衛兵と繰り返していた。


「なんだそりゃ。誰に言われた」

「サイード」

「お前なぁ……壺姫の名前を騙るだけでも御法度なのに、んなやんごとなきお方に失礼なことばっか言ってるんじゃないよ本当」

 衛兵はふーと大きなため息をつきながら椅子に背を凭れさせた。その衛兵のトーンに、笑美は違和感を感じる。

「魔法使いって、名前をみだりに教えちゃいけないんでしょ?」

「そんな話は聞いたことないな。お前らあるかー?」

「ないっすねー」

 揃う衛兵の声に、笑美はくらりと眩暈がした。またか。またなのか。笑美は深く息を吸った。

「もーーーう! 何度目よ! あの嘘つき魔法使いー! ペテン師に転職しちゃえー!」

 テーブルに伏した笑美に、衛兵は慌てる。

「こら! 滅多なことを言うんじゃない!」

 全く近頃の若いのは、と衛兵が続けた。だってーと唇を尖らせる笑美に、書類をボールペンで叩きながらもう一度尋ねた。


「じゃあ次、身元保証人は?」

「それもサイードなんですけどー。これすらも偽名とかだったらどうしてくれよう」

「お前はまた本当……性懲りもなく……」

 目の前の衛兵は笑美の言うことを全く、ちっとも、これっぽっちも信じてくれなかった。目の前の衛兵だけじゃない。皆紳士的なのが救いだが、この部屋にいる衛兵皆が笑美のことを偽物だと決めつけていた。


「なぁ、別に罰則があるわけじゃねえんだよ。もうちゃちゃっと話してさ、さっさと帰っちまおうぜ。な? 俺だって早く帰って、母ちゃんの飯たまにはあったけえ内に食いてえよ……」

「そうなの……かわいそう、きっと奥さんも貴方のこと待ってるね……」

「それがよう、最近久しぶりに産まれた息子ばっかかまいやがって、夜中に帰っても俺におかえりさえ言ってくれねーでさぁ……」

「そうなんだそうなんだ……仕事、そんなに忙しいの?」

「お前みたいなのが湧くからだよ!」


 笑美は自分が本物の壺姫だと証明できる術を持っていなかった。サイードの名前を出すだけで取り付く島のない衛兵の様子では、青騎士団団長や副長を呼んだところで、同じ対応をされるに違いない。


 この部屋にいる衛兵達の誰かが、もしかしたら笑美がサイードと共に玉座に出現した場にいたかもしれない。しかし、だからと言って何も状況は変わらない。笑美の顔は壺で隠れていたし、当時の状況を説明したところで信憑性は薄い。あの場には沢山の人がいた。機密性はない。

 ポケットの中に入れている組紐は、こんな衛兵じゃ何の価値も見いだせない。城に着いた途端に喜びのあまり空に飛んでいった魔王が、今はとっても恨めしかった。


「全く来る日も来る日も壺姫の偽物様ばっかり……皆々様そのとびきり輝かしいご自身を自慢したいことはわかりますがねぇ……壺姫ってんならせめて、可愛いお顔を壺で隠してからやってきてくださいませんかねぇこんちくしょう……」


 そりゃ無理だ。壺の上下が違うもの。

 衛兵の言葉に笑美は心で突っ込んだ。


「お嬢ちゃんもこんなおっさんらと夜中までデートしたくないだろ? ちゃっちゃと保護者の名前教えてくれりゃあそれでいいからさ、なぁ?」


 衛兵の心からの言葉に笑美は頭を抱えたくなった。八方ふさがりの水掛け論にまた戻ってしまった。それもこれもどれも全部――


「もぉお! 壺になんかするからややこしく……もぉおーー! サイードのばかーーー!」

 そう、サイードが、サイードが悪い。八つ当たりと知りながら、笑美は拳を握って大きく叫んだ。


「誰が馬鹿ですか。口が悪い」

「ごめんなさい」


 反射的に笑美は頭を下げた。目の前にいる衛兵が、慌てて立ち上がるのを不思議に感じて、後ろを振り返る。


 淡い、春の、雪。


「衛兵、そちらのお方を解放なさい」

「え、ですが――」

ソレ・・は、本物です」


 一瞬部屋が完全に静まり返った。しかし、言葉の意味をすぐに理解した衛兵達は、弾かれたように一斉に背筋を伸ばす。

 片手を胸に、片手を背に。

 衛兵全員が、魔王討伐の英雄である聖女に頭を下げた。


 戸惑う笑美と、頭を下げる衛兵に何も告げず、サイードはすっと扉の向こうへ出て行く。笑美は慌てて、その後ろを追った。





「サイード、サイードってば!」

 サイードの足は速く、笑美を簡単に置いてきぼりにした。姿を失わないように速足でついていく笑美は、いつもどれほどサイードに譲歩されていたのか知った。

 普段はもちろん、街に二人きりで降り立った時でさえ、サイードは笑美の歩幅を尊重し、常に気にかけてくれていた。それが今、後ろをついて行っていいのかすら迷うほど、笑美を視界に入れようともしない。


 通り過ぎる人たちは、何事だろうかとサイードと笑美を振り返る。沢山の人の視線に晒されながら、笑美は白亜の廊下を走った。走るたびに白い足がスカートのプリーツから覗く。


 聖女でない自分は、やはりサイードにとって、いらない存在だったんだろうか。


 会いたかった、会いたかったのに。無情な背中に、溢れそうになる涙と恋慕を堪える。

 笑美は負けそうになる自分を奮い立たせて、サイードの後を追う。


 しばらくすると、サイードが一枚の扉の前で立ち止まった。笑美はようやく止まったサイードに駆け足で近づいていく。

 廊下を走ったりしたら嫌味を言われそうなものなのに、サイードは文句ひとつ言うことなく、ドアを開いて笑美を部屋に通した。笑美が入ったその瞬間にサイードも身を滑り込ませる。背後でパタリと、音が鳴った。


「なぜ帰ってきたのです」

「……ええっと……」


 扉に体が触れそうな場所に立ったまま、話をするのだろうか。サイードから問われた直球の言葉の恥ずかしさを誤魔化すために、笑美はきょろっと目を反らした。


「まさか、私に会いに来たなどと愚かなことは言わないでしょうね」

 ええ、正にその通りです、と言うことが出来ず。

 また、何を己惚れたことを、と強がることも出来なかった笑美は、見事に固まった。


 笑美の動きで察したサイードは、一瞬の空白の後に一息で言い切った。


「早くお帰りなさい。送還の陣を整えましょう。私一人の魔力では及び難いので、準備をしてまいります」


 予断を許さないサイードの行動に、固まっている場合ではないと、笑美が慌ててサイードの衣を握る。

 いつもの皮肉も辛辣な言葉もない、ただただ真っ直ぐなサイードの否定。彼の声音は、笑美にも余裕を無くさせた。


「ま、待ってよ! やっとこっちに来れたのに!」

「――勇者様が陣の成形を? トウマではなくトンマに改名した方がよろしいようですね」

「そ、そんなこと言わないでよ。こっちに来たくて毎日二人で頑張ってたのに」

「……ええ、そうですか。それは全くの徒労をお掛けしてしまい申し訳ございません」


 降り積もる冷ややかな声に、笑美は身を震わせた。

 笑美は自分の言葉のなにに対して、サイードが憂鬱そうに顔を顰めたのかわからなかった。取りつく島がなかった事に加え、不機嫌になってしまったサイードの服をついと引っ張る。


「――冬馬も頑張ったけど、送ってくれたのはパパだよ。それと、魔王」

 興味を引かれたのか、ピクリとサイードの体が動いた。

 見て触れるサイードの全てが懐かしく、今すぐ触れたいと熱望してしまうのに、そう感じているのは自分だけという事実に笑美は顔を俯かせる。


 ようやく会えた自分よりも、冬馬や自分の父――ましてや魔王なんかが気になるというサイードに、笑美はもう、涙が堪えられそうにない。


「魔王が、そちらの世界に?」

「そう。壺に入れたでしょ? 消化しきれなかったみたいで」

「無事だったのですか」

「うん。子猫みたいになってたけど。生きてたよ」

「そうではなく――」

 笑美の答えに頭を抱えるサイードに、笑美は首を傾げた。


「そうではなく?」

「……いえ、それで。子猫のようになった魔王が?」

「うん。ちょっとの間うちで飼ってたの」

「……魔王を――飼う……」

「パパが協力してくれないから、冬馬が送還魔法を頑張って作ってくれて。でも結局パパが仕上げたんだけど、あっちには魔力がないから、おじいちゃんが助けてくれて。魔王の魔力を使って――」

「お待ちなさい、把握できません。ひとつずつ、ゆっくり」

 ゆっくり、話していいんだ。笑美は胸がぎゅっと締め付けられた。サイードは、この話に興味を持ってくれている。

 この話をしている間、サイードの隣にいてもいい。笑美は嬉しくて笑みを返した。


「あのね、壺には入ったけど、あんな大きい魔王を全部消化することはできてなかったみたいなの。それで、壺の中の水で邪気だけ祓われて、魔王は元の無害ないい子に戻ったんだと思う――って、パパが」

「そのパパと言うものが不思議です。貴方のお父上は、あまりにも現世(うつしよ)に通じ過ぎている」

「……だってパパ、こっちの人間だもん」


 サイードは今度こそ言葉を止めた。

 笑美と冬馬にもたらされていた数多の恩恵。その全ては、膨大な魔力に起因した。共通して持つ太古の力。あれは常世(とこよ)の人間ならではの能力なのだと、サイードは思っていた。

 冬馬の血筋については、魔王討伐凱旋後に師であるシャルルに聞いている。稀代の魔法使い、ハルベルト・アドゥルエルムの血を深く継ぐ子息ならばあの魔力も納得だと、そう思っていた。


 けれども。もう一人の太古の力を引き継いでいた笑美まで、現世(うつしよ)の血を引いているという。

 サイードはゆっくりと口を開いた。


「御尊父の、名は」


「普通の名前だよ……でも、サイードに言うならこっちだね。パパの昔の名前は、アルフォンス・ティガール」


「――救世の、王子かっ」


 この国の名を持つ、古の王子。第二の魔王を屠った救世の王子アルフォンス・ティガール。


 魔王を滅するほどの魔力を持つ人物を、サイードが想定できなかったわけではない。

 今では名を知らぬ子など一人もおらぬ、伝説。魔王討伐隊を率い、寄る辺のなかったシャルルを助け、見事世界を救った暁にはその聡明さをもって国を平らに導いた――彼の英雄。幼い頃からサイードが憧れ続けた、救世の王子。

 笑美が旅の間持っていた紙とペンも、正しい歴史を遺すための製紙産業に力を入れた彼の成果だ。


 その王子を父に持つという娘にサイードは頭を抱えた。

 シャルル老師は、昔々のその昔。救世の王子に命を助けられている。彼の纏っていたボロボロの布きれ。あれは恩人であるアルフォンス・ティガールより授かった、彼の命ほど大事なローブであった。


 アルフォンス王子は世界の泰平を指さした後、王位どころか爵位も投げ捨て、旅に出た。彼が築き上げた正しい記録には、そう残っている。ただし、アルフォンス王子の弟子を師にもつシャルルは、事の真相を知っていた。

 正しい記録に残らない場所で、救世の王子は界を渡っていたのだ。ただ一人の愛しい人に、笑顔を届けるために。父娘で、なんと似たものだろうか。


 魔王討伐から始まり、救世の王子が常世(とこよ)に住まうまで――笑美はこの恋物語がとにかく好きだった。

 父に、母に、強請っては、何度も何度も語らせた。だからこそ、笑美は突然訪れたこの世界に恐怖を感じなかった。冬馬が見たこともなかった食べ物の食べ方も、日本にはない調味料の使い方も、砂糖を女神の為に一つ残す習慣も、笑美は全て知っていた。


 自分に出来る事ならなんでもしたいと思った。ここは、父を育んだ世界だからだ。





 黙り込んでしまったサイードの隣で、笑美は俯いていた。


 性急に話を進め、常世(とこよ)へ帰そうとしているサイードに笑美の心は折れそうだったのだ。目が合わないどころか、サイードは一度だってこちらを見てくれない。


 やはり、最初に感じたように迷惑だったのだろうか。


 最後のキスに希望を見たけど、あれも。彼にとってはただの陶器に口づけたのとなんら変わりなかったのかもしれない。

 毎晩抱いて眠っていたことだって、クッションよりも自分の方が壺の梱包材を果たせると思案した結果だろう。そこに深い意味はなく、ただただ、壺の水大事さのためだったに違いない。


 舞い上がって、ここまで押しかけてきて、馬鹿みたい。


 笑顔は得意なはずなのに、笑美はうまく笑うことができなかった。


「パパの名前なんてどうだっていいじゃん……」

「どうでもいいわけがありますか」

 ため息交じりに告げられた言葉に、笑美はムッとする。

「パパの名前よりも、大事なのは私の名前でしょ。魔法使いの名前を呼ぶの禁忌じゃないって、本当?」

「今そのような些末は関係ありません」

 笑美が声をかけたことで思考の波から戻ってきたのか、サイードはまたいつもの冷淡な顔をして笑美にそう告げた。笑美は堪らずに叫ぶ。


「些末って何、なんで私たちは名前を呼ぶの、止められてたの?」

 最初に聞いてた話と違う、というとサイードはふと視線を逸らした。

「……名は個を縛ります。常世(とこよ)のお二人の魂が現世(うつしよ)に定着しては難儀するでしょう」


 あぁ、そうなんだ。笑美は勢いを削がれ俯いた。

 うつむいた拍子に涙が零れぬよう、ぐっと力を込めるものの、上手くいかなかった。

 足元の絨毯にぽたりと、染みが出来る。


「なんだ、てっきり……。冬馬が私の名前、呼んだからだって。期待したじゃん……」

 取り調べ中、実は胸が高まった。サイードは嘘をつくが、気まぐれで嘘をついたことはない。きっと何か、彼にとって譲れぬ事情があったのだと笑美は思った。それが、自分と同じ気持ちからであればいいなと、笑美はまた性懲りもなく淡い期待を抱いていたのだ。


 なんだ、私、本当に。

 ただ己惚れてやってきちゃっただけなのか。


「なによ、さいーどの、ばか」


 色男、すけこまし、好色漢。

 遊ぶならもっと、遊び慣れてる女でやれ。己惚れさせやがって。


 笑美の涙声に、サイードは額に青筋を浮かべながら言った。


「全くの同意見です。私も何度貴方にそう思ったことか」

 笑美は心外だと顔を上げた。

「私、サイードのこと誑かしたことなんて一度もない」

 笑美は自分の顔の使い道をよく知っていた。しかし、その効果はもちろんのことながら、壺では発動しない。また、笑美にとってサイードは会った時から余裕を持たせてもらえない相手であった。小細工すらさせてもらえない相手に、自分ごときの小手先が通用するとは到底思えなかった。


「無知とはなんと暴虐か」

「暴虐なのは自分じゃない、ここまで来たのに、顔も向けずに、帰れなんて――」


 笑美がサイードに掴みかかった。彼は笑美に服を握られたまま、初めて笑美の方に顔を向けた。

 夜空色の瞳は、笑美の奥底まで見透かそうとただ真摯に見つめている。鳥のさえずりも、聞こえていた小さな騒めきも、全てをサイードが退けた。


「では今後、私の送った宝石や服を身に付けるのですか?」


 伝わらない愚かさに、サイードは堪らなかった。苛立ちよりも大きくサイードの胸を支配するこの感情に、彼は口を委ねた。


「私の妻になるのかと聞いているのです」

「つ、妻、って……」


 言葉の内にずっと潜んでいたサイードの真実。それを突き付けられた笑美は、その言葉の持つ響きに尻込んだ。まるで胸いっぱいに無理やり言葉を押し込められたかのような、意味の分からない浮遊感に足が一歩下がる。

 その表情で笑美の覚悟を見て取ったサイードは、くすりと笑った。


「ご覧なさい。さぁ、帰りなさい」

「ま、待ってよ」

 追いすがる笑美に、サイードは身の内に湧き起こる感情を抑えながら、努めて冷静に返した。


「帰りなさい」

「やだ、話が終わるまで帰らない」

「夜な夜な母の乳を恋しがって泣いていたくせに一丁前な口を利く」

「子供じゃない」

「だから困っているのでしょう」

「私だってこのわからず屋に困ってる。ねぇ、ねぇ。まだ妻とか、そういう覚悟はないけどさ――」

「その程度の決意で来られても邪魔なだけです」

「じゃあ今覚悟するから、待って!」

「覚悟とは、人に言われてするものではありません」

「なによ……骨を埋める覚悟じゃないと、恋もしちゃいけないの?!」

「その相手が私でない場合、貴方の言は正しい」

「いやだ、サイードがいい。いや」


 いや、と笑美は掴んでいた服を離すとサイードの髪に触れた。書類仕事の時は必ず髪を縛っていたのに、白銀の絹は今、纏められることなくサイードの肩に流れている。

 懐かしいサイードの匂い。笑美は無意識に顔を擦り付けた。それをサイードがどんな表情で見ているかなど、全く知りもしないで。


「――帰りなさい」


 いつまでもつれないことを言うサイードに、笑美は掴んでいた髪を引っ張った。言葉にしては取り返しがつかなくなる感情ばかりがサイードの胸を渦巻く。


 勢いに負け顔を近づけたサイードに、鼻と鼻が触れ合いそうなほど近くで笑美が叫んだ。


「そんなに、そんなに迷惑?!」

「ええ」

 にべもないサイードの肯定に笑美は一瞬ひるむ。しかし、負けてはいられない。笑美は耐え切れずに最後の切り札を出した。


「じゃあなんで、なんで最後に、あんなことしたの!」


「私の過ちです。忘れてしまいなさい」


 最後の笑美の切り札は、サイードにとって再考の余地もない程些細なことだったらしい。あまりにもあっさりと非を認められ、更には忘れろとまで言われ、笑美はあまりにも無情な現実に足がよろめいた。


「――忘れられる訳、ないじゃん。会いたかったんだよ、笑ってほしかったんだよ。きっとまた、笑ってくれるって……思ってたんだよ」


「――この地で、花は咲き続けられない」


 打ちひしがれた笑美に、サイードが冷淡な声を溢した。その言葉を聞いた笑美は、目を見開いてサイードの目を覗き込む。そこにある一筋の光を消して見逃さないようにと、藍色の夜空を。


常世(とこよ)にね、桜って花があるの。サイードも見たよね」

「……天を流れる花ですか」

「そう。綺麗だったでしょ?」

「……ええ、とても」


 とても。と続けたサイードの声の響きに、笑美は頷いた。


「あれね、枯れないんだよ、散るだけなの。ちゃんとまた、来年も咲くの。ねぇ、それじゃ、だめ?」


 ねえ、ねえ――

 花って、私のことなんでしょ。


 サイードが沈黙した。笑美はそれが肯定だと知っていた。


 笑み、という言葉には、花が咲く、という意味も含まれる。その事に思い当たったのは、サイードが別れ際に言ったセリフを聞いたからだった。


 ――貴方が、この地でも咲く花であれば、よかったのに


「枯れないよ、散るだけだよ。寂しくなって泣くこともあるかもしれないけど、その時はサイードがまた咲かせて。絶望だって、水を注いでくれるんでしょ?」


 震える笑美の声に、サイードは大きく息を吸いこみ、吐きだした。身の震えを誤魔化すように大きく横に首を振る。


「覚悟もない癖に、そのようなことを口に出さない」

「私、サイードのそばにいたいよ」

「それは甘えというのです。選択肢のひとつとして選ぶのなら、勇者にでもしておきなさい。ともに困難を乗り越え、同じ地、同じ世界に帰る――まさに恋の相手に相応しい」

「そうかもしれないけど、しょうがないじゃん。サイードがいいんだもん!」

 わかってよ、わからず屋! と続けた笑美に、サイードはくすぶる熱を厚い雪で閉じ込めたような情熱を抱えて告げた。


「では、妻になるのですか」


 サイードが幾度目かになる問いを笑美に向けた。いつも湾曲な言葉遣いをするサイードらしくない言葉を。


「私のために、あちらの世界を切り捨てるのですか」


 サイードの氷のような言葉に、けれども笑美は負けなかった。


「――そんなこと、できない」


 顔を歪めて今にも泣きそうな笑美に、サイードは優しく微笑む。


 ――私を、連れて帰るつもりですか?

 そう尋ねた時と、同じ苦笑だった。


「これが最後の譲歩です。帰りなさい。貴方はまだ、戻れる」

「―― 一緒に、考えて!」


 自己完結して微笑むサイードの髪を、笑美は強く握りしめた。絹の髪は笑美の手に当たり前のように吸い付く。


 髪は、結ばれていなかった。その意味を、私にちょうだい。


「何を」

「私が、あっちとこっちを、捨てないですむ方法」


 とりあえずほら、私まだ高校生だし。高校無事に卒業して、狙ってる短大卒業して、ちょっと一度は社会に出て荒波にもまれて。親孝行に旅行なんかも連れていって。

 そんで、そんで。10年くらいたってお嫁に行く感じで、お願いします。盆と正月、年に2回は家族みんなで里帰りして。それで、それで――


 夢物語を語る笑美を、サイードはポカンと見つめていた。今回の送還も、前回の送還も、重なり合う類稀なる奇跡があったからこそできたことだ。そんなにぽんぽん、出来る事ではない。


「……貴方は、何様ですか」

「聖女様!」


 サイードはもう口を開くこともやめてしまった。


「だって、私は。サイードとの幸せを、犠牲の上に成り立たせたくないの」

「……」

「それにほら、私まだちゃんと覚悟できてないし。サイードも一緒でしょ? この姿を最初にちらっと見てたけどさ。それだけじゃん。あとは壺で、しゃべれなくて、意思の疎通も出来ないぐらいで……」


「――貴方は、だから愚かだと言うのです」


 沈黙していたサイードが溢した言葉に、笑美は固まった。


「……え?」

「誰が術をかけたと思っているのですか」

「……えっと?」


「貴方は独り言も多かった」


 今度は笑美が絶句する番だった。サイードの放つとんでもない言葉に、思考が追い付かない。


「幻覚は、使用者には利きませんよ」



 ―― サイードのこと、好きだったんだ



 まさか。


 見られなくて済んだと思っていた赤らんだ顔も。離れたくないと泣き叫んだ声も。

 あれも、これも、それも――全部。


 全部聞かれていたというのか。


 瞬間湯沸かし器のように瞬時に顔を赤らめた笑美は、パッとサイードの髪を手放した。もたつく足で必死に部屋の隅まで逃げ、小さく丸まって蹲る。


「笑美?」

「みみみみみみみないでぇえ」


 笑美は顔を両手で覆った。

 その両手の隙間から、ゆでだこのように赤い耳が覗いている。


 聞かれる覚悟のない、愛の告白。妻、なんていう現実味のない話ではない。笑美の心からの言葉を、サイードに聞かれていたのだというその事実が、笑美に堪らない羞恥心を抱かせた。


「……だから、帰れと言ったのに」


 その言葉は、もう帰るなと言っているように、都合のいいゆでだこには聞こえた。


 期待が恥ずかしさで追いやられる。絨毯がサイードの足音を吸い込んだ。しかし、衣擦れの音でサイードが近づいてきていることが笑美にはわかっていた。

 サイードは信じられないほど近くにしゃがむと、笑美の体を覆って壁に手をついた。壁ドンである。懇願するかのように、愛を注ぎ込むかのように、あやすように、笑美の耳元に唇を寄せる。


「十年後、貴方の告げた予定を全てこなせば、妻になるのですか」


 押し込まれた熱を逃がすように、笑美の口から吐息が零れた。


 かつて、これほどまでに直接的なサイードの言葉を、聞いたことがあっただろうか。

 サイードの熱が笑美の中を突き抜ける。過去の愚かな自分も、触れる温もりも掠れた願望も、全てが堪らなかった。融けた脳は、ねだる愛を包み込む。笑美は眩暈を感じた。しゃがんでいるくせにおぼつかない足で、ふらつかないことに精いっぱいだった。

 か細く震える笑美に気付いたのか、サイードは笑美の体を持ち上げる。途端に香る懐かしい香りに、笑美は、涙が浮かんだ。彼のかけらを夢中で吸い込む。あまりにも嗅ぎ慣れた、サイードの香りだった。


 笑美の体を持ち上げたサイードは、ラピスラズリの瞳で笑美を射止めた。瞬間、襲う胸の苦しさに、笑美は死んでしまうかと思った。

 この程度の距離、大したことなどなかったはずだ。毎日彼の胸に頬を埋めて眠っていたはずなのに、笑美は今、目を瞑り身を縮こまらせても抗えないほどの、息苦しさと羞恥に身を貫かれていた。


常世(とこよ)現世(うつしよ)の溝に橋を架ければ、妻になるのですか」

「で、できるの?」

「私は、妻になるのかと、聞いているのです」


 殺される。死んでしまう。

 笑美は耳から脳に届いた彼の声が、ぐずぐずに自分を溶かしていると感じた。


 冷たく淡々とした、雪のような声。

 その声が、笑美を抱き上げる腕が。緊張のために強張っていることを、ろくにものも考えられなくなっている頭で笑美は気づいていた。

 笑美は喘ぐような吐息混じりの声を、必死に舌にのせる。


「……なる。して。してください」


 小さな小さな、愛しい懇願。

 確かに聞こえたその声に、サイードは深く長い息を腹の底から吐き出した。


「十年、私の睡眠時間は無に等しくなりますね……」


 笑美はサイードを見下ろした。耳や首どころか、目まで真っ赤にさせた笑美に、サイードがそっと微笑む。その顔を見て、笑美は口が戦慄き涙を零した。


 ずっとずっと、見たかった。このために、やってきた。

 鼻先を掠めるサイードの熱を感じると、笑美は迷わず飛び込んだ。





 花が咲いて、雪は解けた。


 季節は、そう――……春だった。






 終わり







評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ