待つ魂
維月は、急に気を失って十六夜の顔が見えなくなり、気が付くと、目の前には見たことのある四角い扉が開いていた。
これは、見たことがある…維心があの世に送る時に作る、門だ。自分は一度人の時に通って、向こう側に行ったことがある…つまり、自分は死んだのか?維月には訳がわからなかった。
向こう側から、佐月と美咲がこちらを見ていた。
「維月、やっと来たのね。いきなり呼び戻されてから、また随分と頑張ったのでしょう。」
維月は、やっぱり、と思った。
「…私、死んだの?」
佐月が頷いた。
「地が、もういいだろうって。元々あなたの責務はもうなかったのよ。いつ死んでもよかったの。でも、月や龍の王が必要としているからって…あなたは生きていたけど。」と下を向いた。「でも、あなたを取り合って王達や月が大変だったでしょう。それで、地を平定するのが遅れていると、地は言っていたわ。月はあなたにかまけて蒼を王に育てるのを怠けていると言っていたし。もうそろそろ、休ませても良いな、と言って、私達に迎えに来るように言い置いて行かれたの。」
維月は合点がいった。そうか、だから突然にこちらへ来てしまったのか…しかも、門のすぐ前に送られたのだ。
維月は、その空間の、見えない空を見上げた。十六夜…維心様…今頃、なんの心構えもなく、どれほどに悲しんでいるものか。維心様とは、一緒に逝くと約束していた。でも、地に許されなかったのだろう。きっと十六夜も然りだ。例え命を絶とうとしても、きっと死ねない。地が許さない…。
維月は、門の中を見た。佐月が微笑む。
「さあ、そこは寒いでしょう。こちらへ。いつかあの二人も責務を果たして、こちらへ来るわ。それがあなたの転生の前なら、きっと会えるから…。」
それは、転生してしまったら会えないということだ。転生したら、何もかも忘れてしまう。十六夜とのことも、維心様のことも。私はそれで楽になるのかもしれない。でも、あの二人はどれほどつらいか。
維月は唇を結び、その場に座り込んだ。佐月と美咲は驚いて顔を見合わせた。
「…維月?まさかあなた、そこに残るつもり?」
佐月が心配げに言うと、美咲が続けた。
「駄目よ、この門はずっとある訳ではないわ。しばらくすると消えてしまう。あなたはこの真っ暗で寒い空間に残されてしまうのよ。そんな中をさまようつもり?あの二人はすぐには来ないのに。」
維月は、口を結んだまま、頷いた。佐月が慌てて言った。
「何を言っているの!耐えられなくなるわ。それでは転生だって出来ないし、孤独でつらくて、魂が荒んでしまう…。」
維月は、じっと座ったまま言った。
「私は、この記憶を無くすわけには行かないの。それに、私よりもずっとつらい思いをして生きている二人が居る…私は、ここで待つわ。もう死んでるのだもの。これ以上死ぬことはないし。平気よ。私は大丈夫。」
佐月と美咲は、門を見た。
「維月!早くこちらへ!あなたがそんな風に言い切ってしまったら、消えてしまう…!」
二人は中から手を差し出そうと必死になっている。門は揺らめいていた。
「おばあちゃん、お母さん、ごめんなさい。」
二人はそれを聞いて、絶望的な顔をした。
門は揺らいで、消えた。
維月は薄暗く寒い空間に、たった一人残された。
維心は、十六夜と共に龍の宮へ維月を連れて帰っていた。
龍の宮では、全ての臣下が暗く沈み、維月は十六夜の力によって、死してなお美しく保たれていた。
これは、人として死んだ時に若月が維月におこなったのと同じ方法だ。
維月は薄いベールで全身を覆われて維心の居間へ安置され、傍には維心が、魂が抜けたように座って維月を見ていた。その手は血にまみれ、どれほど後を追おうとしても、叶わないことを物語っていた。涙は、枯れることはなく、まだ流れ続けていた。これほどに愛して、欲していたものを先に亡くすなど、思ってもいなかった。あの優しく暖かい気は、もう感じられない。冷たい頬や手に触れ、何度も呼び掛けるが、反応はなかった。
十六夜は、苦しんだ末に、月へ帰っていた。時々に戻って来ては維月を見てその手に触れ、そしてまた、涙を流しては月に戻った。
維心は、もうあれから一か月も経つというのに、葬儀を行うことも出来なかった。死んだのだと思い知らされるようで、とてもそれを命じることは出来ない。十六夜が居れば、維月はこのままの姿で居ることが出来る。ただ眠っているかのように、思っていたかった。なので、絶対に葬儀など行うことは出来なかった。
「…父上。」
将維の声がする。維心はそちらを振り返らなかった。将維は、維心に歩み寄った。
「父上…お手が汚れておりまする。」
維心は将維を見た。将維の目も、赤く腫れていた。維心は自分の手を見た。
「…どうあっても、死ねぬのよ。」維心は小さな声で言った。「どんなに斬りつけても、次の瞬間には傷は癒えておる。我は…母に付いて逝くと約束したのに。違えることになってしまう。」
将維はまた溢れて来る涙を必死で抑えた。
「きっと母上はお待ちであります…あの暗い空間で…。」
維心は首を振った。
「そうではない。地は門のすぐ前に維月を送ったと言っておった。今頃はもう、母達と共に話しているだろう。なんの心配もない空間で…。」
将維は、怪訝な顔で首を傾げた。維心はその表情が気になって訊いた。
「…なんだ?どうしたのだ。」
将維は首を振った。
「いえ…我の気のせいでございまする。」
維心は眉を寄せた。
「なんだ、申せ。母がどうかしたのか。」
将維はためらったが、維心の強い調子に気おされて頷いた。
「我は、母上の夢を見ました。まだ、あの空間で歩いたり、座ったりしながら、過ごしておられた。一か月も前に亡くなったかたが、まだ門に辿りつけぬのかと、我は思ったのでございまするが…我がただ、母を心配するがゆえの、ただの夢でありまするな。」
維心は、将維を真剣に見つめた。
「我はあれから眠っておらぬゆえ。夢を見ることはなかった。主、それを見たのか? 維月は未だあの空間を歩いておったのか?」
将維は困った。やはり、話すのでなかった。ただの夢であっただろうに。
「父上、確かに見ましたが、我の夢に過ぎませぬ。地は、門の前に送ったと申したのでしょう。では、母上はもうあそこにはおりませぬ。既にあの世へ逝っておられる。ですので、あの空間へ行っても、母上にはお会いできませぬ。まして、そこを探し回っている間に、帰る道が分からなくなっては、死でも生でもない状態で永遠にさまようことになる。そうなっては、永遠にお会いすることは叶わないでしょう。」
その通りだった。維心も、いつもあそこで迷ってはならないと意識を集中しなければならなかった。まして今の状態の自分がそこへ入ったら、維月を探すあまり、戻る道が見つけられなくなってしまう。維月がそこに居る確信もないのにかかわらず…。
「行こう、維心。」十六夜の声がした。維心が振り返ると、十六夜が立っていた。「もしかしたらでもいい。オレはもう、じっとしていられない…苦しくて仕方がないんだ。お前もそうだろう?オレは思い出したんだが、地はオレらに干渉し過ぎたら、しばらく力を無くす。そしてオレらは、それを元へ戻せるんだ…もしかしてこれが干渉しすぎたことであるなら、きっとオレらは元に戻すことが出来る。だから行こう。僅かな可能性にも賭けよう。それであの空間でさまよったって、オレはあいつを探してるならいい。何もしないままこのままで居るより、絶対いい。」と将維を見た。「オレは一人でも行くぞ。空間を開けてくれ。」
将維は戸惑って維心を見た。明らかにやつれた維心は、力強く立ち上がった。
「参ろうぞ、十六夜。我も維月を探すなら、どうなってもよい。こうして座っておるよりは…」と、眠り続ける維月を見た。「我は維月に会いたい。どうなっても良い。もう…待つのは辛抱ならぬ。」
将維は慌てた。自分があんな夢を見たばっかりに。
「そんな父上!ただの我の夢でありますのに!」
維心は将維を見た。
「よい。主に居らぬ間の代理を頼むぞ。今も務めておるがな…父がもし一年戻らなかったら、主が王座へ就くのだ。」
維心は手を上げた。空間に亀裂が入る。将維は追うように言った。
「父上!では我も…!」
「ならぬ」と維心は言った。「主は我の跡取りぞ。父が戻らぬ時、主が龍族を守るのだ。頼んだぞ。」
「父上!」
将維が叫ぶのも聞かず、維心と十六夜はその亀裂に向かって飛んだ。
維心も十六夜も、少しでも希望が欲しかった…。ただそれだけであった。
魂が凍る。
そんな気がした。空間はだんだんと温度を下げ、維月は身がないはずなのに痺れて動けない気がした。じっとしていてはいけないと歩いていたが、この暗い空間は本当に何もなく、そして果てもなく、気分も萎えた。あの二人が来るまで、あと何百年あるのだろう…そう思うと気持ちもくじけそうだったが、今頃維心と十六夜がどれほどに悲しんでいるのかと思うと、頑張らなければと思えた。
しばらく歩くと、何か暗闇に動くものが見えた。維月はビクッとしてそっとそちらを伺った。
それは、人のようだった。
手を前にぶら下げ、まさに亡霊のようにふらふらと闇を歩いている。維月はその人に、ぞっとするような気を感じた。あれは…きっと正気を失っている。自分と同じような魂だ…おそらくは、自分の門を探して、この闇の中を歩き回っているのだ…いったい何年何百年ここに居るのか想像もつかないが、その間に魂がおかしな方向へ固まってしまっていてもおかしくはない。
維月は気配を気取られぬように、そっとそこから離れた。怖い。一体何人のあのような魂が、ここでああやってさまよっているのだろう…。
「維心様…十六夜…。」
維月は呟いた。自分は今まで、どれほどあの二人に助けられて来たのか。自分がどれほどに弱い存在であったのか、思い知らされていた。だが、待っていなければ。必ず、もう一度二人に会わなければ…。
寒い。維月は、いつしか気を失った。
維心と十六夜は、その空間へ足を踏み入れた。
維心にすれば、人や神を助けるために通った空間だ。ここでのコツは覚えているが、しかし、既に門の中へ入っているかもしれない維月を探すのは至難の業だった。
しかも、その送られた場所すらわからない。ここは無限に広がる空間だ。
「…維心、維月の気を感じるか?」
維心は首を振った。
「駄目だ。ここはただでさえ気を通さぬ。かなり維月に寄らぬと感じ取れぬな。」
十六夜は頷いた。
「近くって、どれぐらいだ?」
維心は十六夜を見た。
「…そうよの。主らの単位で1kmぐらいか。」
十六夜はため息をついた。
「…ここは無限なのにな。気が遠くなるぞ。」と顔を上げた。「だが、維月がどこかに居るかもしれない。オレは探すぞ。」
維心は頷いた。
「我も行く。見つけた時に戻る道がわかるよう、必ず道は見失わないようにする。」
二人は、その暗い空間を並んで歩き出した。




