旅立ち
維心は、自分の対の寝台の上で跳ね起きた。全身が気だるい。一晩中、戦っていたような感じだ。傍の椅子で座っていた十六夜はこちらを見た。
「起きたのか。力を抜いてすぐだったな。やっぱりほっといたら、すぐに目を覚ますところだった。」
維心は慌てて窓を見た。もう、日が昇って来ている…我は、一晩中意識を失っていたのか。十六夜に、抑えつけられて…。
「十六夜…」
維心は絶望的な目で十六夜を見た。
「…何もかも、無かったことだと思やいい。」十六夜は言った。「相手は今日、お前が送るんだろ。しかも忘れちまうんだ。記憶を持っているのは、少しの間じゃねぇか。」
維心は歯を食いしばった。
「…維月の記憶には、残る。」と涙ぐんだ目で十六夜を見て言った。「我は…我はもう、維月と心をつなぐことが出来ない。維月の心に炎嘉が残っているからだ…そんなものを見たら、我は正気で居られぬ…。」
十六夜はため息をついた。
「あのなあ、維心、別に心なんてつなげなくてもいいじゃねぇか。オレは維月の話してくれたことで充分心がつながってると思ってるよ。そんなウソも付けないようなことしなくてもよ…何もかも縛り付けるのが、愛情じゃないと思うぞ。」
維心は首を振った。
「うるさい!主には分からぬわ!」
維心は腰に刀を差すと、炎嘉の部屋へ走った。そこにまだ維月の気がする。例えもう間に合わないのだとしても、一刻も早く手元に取り返したい…!
十六夜は仕方なくその後ろ姿を追った。見ておかないと、心配だったのだ。
炎嘉は、起き上がって身支度をする維月を抱きしめた。
「…なんと短い夜であったことか」と炎嘉は言った。「我がこのように余裕なく求めるのは、初めてよ。我が維心より先に主に出逢っておったなら…我の寿命がもっと長くであったなら…。主は間違いなく、我が求めておった女であるのに。」
維月は炎嘉を振り返った。
「…一夜だけと思われるから、そのように感じられたのですわ。私はそんなに大した女ではありませぬ。しかも、人から月になった者。なんら良いところなどございませぬ。」
炎嘉は首を振った。
「それでも主は、我にとって特別なのよ。」と維月の目を見た。「我が妃よ。これで別れであるな。」
維月は涙を浮かべた。
「炎嘉様…少しでも、お幸せでありましたか?」
炎嘉も涙ぐんで頷いた。
「ああ。我は幸福であった。もう思い残すことはない。主のおかげよ、維月。」と抱きしめた。「これが最後ぞ。炎嘉の記憶は転生と共に消える。主も我を忘れよ。」
維月は首を振った。
「…覚えておりまする。炎嘉様…あなたが確かにいらしたことは。」
炎嘉は維月に口付けた。これで最後だ。炎嘉は唇を離すと、言った。
「では、参る。達者での、維月。維心を頼んだぞ。」
維月は領黄の所へ向かう、炎嘉の背中を見送った。自分は、その瞬間には立ち合えない。維心が炎嘉の命を切り離す瞬間など、見たくはない…。
それと入れ違いに、維心が激しく息を切らせて駆け込んで来た。涙を流す維月を見て、維心は心を締め付けられる思いがした。
「…もう、向かわれましたわ。」維月は言った。「維心様を頼むと、言い残して…。」
追い付いて来た十六夜が、維月を抱きしめた。
「…維月、よく耐えたな。見送るのはつらかったろう。」
維月は頷いて、十六夜に抱き付いた。
「誰も悪くはないのに。なぜこんな悲しいことになるの…。」
維心はうなだれた。誰も悪くはない。その通りだ。我は自分の感情ばかりに溺れていた。炎嘉は最後に我の心配までしているというのに。
「…領黄の部屋へ向かう。十六夜は維月についていてくれ。」
十六夜は頷いた。維心は一人、友を送るために領黄の部屋へ向かった。
領黄の部屋へ入って行くと、炎嘉がこちらを向いた。維心を見て、目を細める。
「…主に、我を送る理由が出来たの。」
維心は険しい目で炎嘉を見た。
「そんな私情で主を送ったりせぬ。」維心は炎嘉の目が悲しげに光っているのを見て取った。「これが主の望みで、全てをおさめるために必要なものだと思うからこそ、送ろうと決断したのよ。」
炎嘉は頷いた。
「主は昔から、簡単には殺さなんだな」とフッと笑った。「時にそのほうが残酷であることも覚えておくべきであるぞ。」
維心は頷いて、領黄を見た。まだ意識を失ったままで、その横には紫月が座っている。昨日のまま、ずっとそこに居たようだ。
「あとは、任せるが良いぞ。」
炎嘉は微笑した。
「主には抜かりはない。わかっておるわ。我に心残りなどない。もうとうに死んだ身よ。」と一瞬、憂いがその瞳をよぎった。「…主の運命と、我の運命が、重なっておらなんだら、あるいはこんな結末にはならなんだかもしれぬのにな。皮肉なものよ…これも地の考えであったのか。維月を…あまり困らせるでないぞ。我にとっても、間違いなく特別な女であった。死者が何を想っても、もはや幻でしかないがな。」
維心は心を締め付けられる感覚に眉を寄せた。昨夜のことは、考えたくもない。だが、間違いなく炎嘉は維月を愛したのだ。その事実は消えない。幻であろうとも、維月の心に昨夜のことが残ることには変わりない…。
「…我は主が憎い。だが、同じように友として思ってもおる。まだ混乱していて、主を許すとは言えぬ…主が我の立場であったなら、おそらく同じ思いであっただろう。しかし炎嘉…ただ一つ、我はわかっていることがある。我は友を失いたくない…。」
炎嘉は驚いたような顔をした。思ってもいなかったらしい。
「…維心、仮に我がここで生き延びたとしたら、我は維月を想い続けるぞ。隙を見ては奪おうとするだろう。もう我の妃であると思うておるからの。このまま逝く方が良い。さっさと済ませるがよい。」
維心は首を振った。
「我はあれを守り切る自信がある。昨日は月に不意を突かれたせいで動けなんだだけよ。二度はない。炎嘉、考え直さぬか。領黄には、修行をさせて仙人になれるよう、我が力添えをするゆえ。」
炎嘉はため息をついた。
「…維心よ、それこそ我にとっては針のむしろよ。仮に主が、月に妃を奪われて触れることもかなわず生きて行けと言われたら、それに耐えられるのか?無理であろうが。同じことを我に強いておるのだぞ。我を送るがよい。それが一番良いのだ。」
維心は思い詰めた顔をした。炎嘉の言うことはもっともだが、自分は友を失いたくない。しかし、そうするより他ないのも、維心にはわかっていた。維心は、ゆっくりと刀に手を掛けた。やはり、切り離さねばならぬのか。
維心は、刀に手を掛けたまま、迷った。これまでで一番つらい仕事になるー。炎嘉はこちらをだまって落ち着いた表情で見ている。が、その表情が、一瞬で驚きの表情に変わった。
それを見た維心は、後ろを振り返った。
「…ほんにもう、これだから、個に付き合うのは嫌であるのよ。」地が、そこに立っていた。「我は基本、神は神、人は人として大きなくくりで見ておった。個々の生き様などを知ると、干渉してしまうゆえの。まさか、このような事になるとは。」
地はため息をついた。炎嘉は言った。
「これが、主の描いた結末ではないのか。我はこのまま維心に命を切り離されるべきなのだろう。」
地は首を振った。
「維心の助けになるだろうと申したではないか。蒼の手助けをし、うまく流れ始めたと思うておったのに。ここに来て、また我の娘の取り合いではないか。維月はそのようは目的で作ったのではないわ。始めは強い力を持つ人を生み出させるために、我の片割れに似せて作った。死して後は月のために生かした。それがこうして主らを巻き込んで軌道を狂わせる。あまりに酷い…我はあれを返してもらわねばならぬぞ。あれの血族も、かの地で待っておる。もうそろそろ、連れて参っても良い頃合いよ。」
維心の背筋に、冷たい物が流れた。それは…維月をあの世へ連れて行くということか?
「地よ、まさか、維月を…。」
維心が我知らず震える声で問うた。地は頷いた。
「死して後に逝く場所よ。心配せずとも、向こうは安らかな場所だ。維月はよく頑張ったゆえの。悪い場所には逝くまいに。あれの母も、その母も待ちかねておる。そろそろ休ませてやるのが良かろう。そして、新しい命として転生するのを待つのだからの。何もかも忘れ、浄化された後の。」
維心は必死で訴えた。
「地よ、ならば我も逝く。共に逝くと維月と約束したのだ。」
地は首を振った。
「…主にはまだやることがあろう。元より維月には、もうこの世に責務はない。月と主のために生かしておいただけのこと。」地は軽く手を上げた。「もう充分であろう。我の娘が地を乱すことは、あってはならぬ。」
維心は足を地の方に踏み出した。
「そのようなこと…!」
十六夜が、瞬時に目の前に現れた。腕に維月を抱いている。
「維心、急に維月が…!」と地を見た。「地の仕業か!お前、維月に何をした!」
維月は十六夜の腕の中で目を閉じたまま微動だにしない。地は十六夜を見た。
「主もそろそろそれから離れねばならぬ。責務を果たせ。さすれば、維月が転生するまでにもう一度あの世で会えるかもしれぬゆえ。」
十六夜は、全てを悟って維月を抱いたまま膝をついた。
「…送ったのか…オレに一言もないままに。」
地は頷いた。
「苦しみはしなかったろう。今頃は向こうで、母親たちが出迎えておる。歩かず済むように、門のすぐ前に送ったゆえな。会いたければ、我の言った責務を果たすのだ。でなければ、転生して全て無になる。何もかも忘れ、真っ白な命として生まれ出るのだから。」
維心は、まだ信じられずに維月の顔を見た。気は消え去り、何の生命の兆候もない。炎嘉は地を睨んだ。
「…なぜにこのような事をする。維月はまだ生きていたかったはず。必要としておるのは、何も維心や月だけではなかったのに。」
地は無表情に答えた。
「主もであろうが。転生した時の約束を思い出せ。主は地を平定する助けとして転生したのだ。勝手に死ぬことは、叶わぬぞ。」
十六夜は、維月を一度亡くした時の事を思い出した。また、無くすのか。もう取り戻せないのか!
「戻せ!維月を戻せ、地よ!出来るはずだ、お前に出来ない事などないだろうが!オレは今度こそ蒼を育てる!だから、維月を返してくれ!」
地はそれを無表情に見た。
「我が息子よ、それはならぬ。あの世で維月が待つ間に、王を育てよ。」と、目を伏せた。「ではな。」
地は、その場から消えた。
「待ってくれ!」十六夜は叫んだ。「頼む!維月を返してくれ…!」
維心は、維月の頬に触れた。まだほんのり暖かいその顔には、もはや血の気はなかった。
「維月…」維心は叫んだ。「維月!維月!逝かないでくれ…!」
維心は回りの何もかもを構わず、泣いた。紫月も口を押えて涙をこぼしている。
炎嘉も、その場に膝間づいて、下を向いたまま涙を流した。
維心も十六夜も、ただ維月の亡骸を抱きしめながら、泣いた。
維月は決して瞼を開けることはなかった。




