決意
領黄を宮の部屋の寝台に寝かせると、維月から念で知らされた紫月が飛び込んで来た。
回りには構いもせず、紫月は領黄に駆け寄った。
「領黄様!なぜにこのような…」
十六夜は遠慮がちに言った。
「…死のうとしたんだ。こいつの身は人だ。オレが偶然気付かなきゃ、今頃崖下で冷たくなってただろうよ。」
紫月は領黄の手を握って、涙をこぼした。
「ああ、様子がおかしかったのに。私がお止め出来ていればこのようなことはありませんでしたものを。」
維月が紫月の肩を抱いた。
「領黄もあなたを想っていたのよ。深く想っているから、自分を卑下して、もっと相応しいかたと一緒になってほしいと…でもきっと、耐えられなかったのでしょうね。」
紫月はただ黙って涙を流しながら、領黄の手に頬を寄せた。
維心は、娘のやつれた姿に驚いた。お互いにこれほど思い詰めるほど、想っているのか。
維心は維月を見た。自分も、ただ想っているだけの時は、どれほどにつらかったか…。決して叶わないと思っていただけに、そのつらさは相当なものだった。それだけに、十六夜に許された時は、どれほど嬉しかったか。
維心は、前に進み出た。
「…それほどに想い合うのなら、我はもう何も言わぬ。これは鳥の宮の王族ぞ。何も憂いることはないゆえに。ただ…切り離した半神は元へは戻せぬ。これの罪が消えることもない…これによって、命を落とした者も居るからだ。主はそれを共に背負って行かねばならぬ。それが出来るのか?」
紫月はすぐに頷いた。
「元より、私はそのつもりでございまする。なのに領黄様は…それはならぬと…。」
領黄がゆっくりと目を開けた。回りに視線を動かし、紫月に目を止めると、握っている手に力を入れて、言った。
「私は、戻って来たのか。助けられたのか…無様にもこのように…。」
紫月は涙を流したまま、言った。
「なぜに私を置いて逝こうなどとお考えになられたのですか。そのようなことになっていたなら、すぐに後を追っておりました。置いて逝かれるのは耐えられませぬ。」
領黄は薄っすらと微笑んだ。
「…申し訳なかった。そうであるな。」
二人はじっと見つめ合っている。維月はその様子に、たまらず隣の十六夜の手を握った。十六夜は維月を振り返って、肩を抱き寄せて優しく言った。
「お前が泣いてどうする?オレが居るだろうが。」
維月は無言で頷いて涙をこらえている。紫月と領黄が不憫でならないのだ。本当に、十六夜が間に合ってよかった…。あのまま死なせてしまっていたらと思うと、心が締め付けられるようだ。
維心がそんな十六夜と維月を複雑な気持ちで見ていると、背後に気配がした。振り返った維心は、睨み付けた。
「炎嘉」維心の声に、皆が振り返る。「よく我に顔を見せられたものだな。」
炎嘉はフンと鼻で笑った。
「神の世は略奪社会ぞ。それは主も身に沁みておるはず。ゆえに妃は宮の奥深くに隠しておくのだからな。だが主の妃は、ちょろちょろとし過ぎるのだ。あれでは我も我慢は出来ぬ。わかっておろう…ゆえに主の怒りもこの程度で済んでおるのだからな。もっと教育せよ。狙うのは、何も我だけではないぞ。」
維心はグッと詰まった。それはわかっている。だが、維月が人であったため、じっとしているのを嫌うので、仕方がなかったのだ。
十六夜と維月はそれを聞いて思った。だから、維心は執拗なほど維月の気を読んで、居場所を探り、状況を把握しようとするのか…。
維心が無意識に維月の方へ寄り、十六夜と二人で維月を挟んでいるのを炎嘉は横目に見て、領黄に歩み寄った。領黄はそれに気付いて、炎嘉を見上げた。
「炎嘉様…私は…」
領黄が弁解気味にそう言うと、炎嘉はそれを遮った。
「良い。」とじっと領黄を見降ろした。「主の覚悟はわかった。それが命を懸けた想いというものぞ。我には、そんなものの存在など分からなかった。が、主のおかげで決心が付いたぞ。」と、息をついた。「我の命、主にやろう。」
その場に居た全員が驚いて炎嘉を見た。維心には、その意味がわかった。
「…やっと転生したというのに、その龍の命を身から切り離させるつもりか、我に。」と領黄を指した。「そして残った寿命をヤツにやるのか。生き直させるために。」
炎嘉は頷いた。
「そうよ。思えばこのために転生したのかもしれぬ。我は、記憶を持って転生したことを後悔しておった。これから長い龍の命を生きねばならぬのかとうんざりしておったのだ。維心なら切り離せるではないか。そして領黄にそれを与えることも出来るではないか。」と維心を見た。「我は、今度こそ記憶を捨てて転生する。主とは…それで永遠の別れとなるの、維心。それが良いであろうが。我らは同じものを求めたり、あまり傍にあっては諍いばかり起こしてしまうのよ。」
維心はためらった。炎嘉がそんなことを考えていたとは。だが確かに…記憶を捨てて、他の者と同じように転生したなら、この炎嘉という命はそのままでも、記憶がなくなり、消えてしまう。維心が死しても会うことはなく、この世にあって呼び出そうにもあの世には居らず、それこそが、本当の別れになるのだ。
維心は自分の感情に驚いた。確かに、自分は炎嘉と別れたくないと思っている…維月を取られそうになっても、それでも炎嘉は自分の友であることに変わりはなかったのだ。
「炎嘉…我にそのようなことをさせるつもりか。」
領黄が身を起こした。
「そのような…私はこれ以上、人の命を取りたくはない。」
炎嘉は首を振った。
「そうではないのよ。これは我を救うことになる。無理を言って記憶を残したまま転生したが…後悔していた。余計なものは持って生まれぬ方が良い。炎嘉という神は、もうとっくに死んだのだ…我は、亡霊に過ぎぬ。なのに我は、未だに炎嘉と呼ばれておる。この命の使い道があっただけでも、儲けものよ。」
「しかし…!」
領黄が言い掛けたが、炎嘉は軽く手を上げた。領黄はそのまま寝台へ倒れる。紫月が慌てて領黄を抱きしめた。
「領黄様っ?」
炎嘉は維心を振り返りながら、言った。
「心配はいらぬ。眠っただけよ。気が付いた時には龍になっておるわ。」と真剣な目で維心を見た。「主はこれをせねばならぬぞ。それが出来るのは、主だけなのだからな。」
維心は険しい顔をした。炎嘉と永遠に別れることになることを、この手でせねばならぬとは…。炎嘉は少しためらいがちに、視線を動かした。
「が…明日まで待ってもらいたい。ここでの始末を付けねばならぬ。」と、領黄の方を見た。「…明日の朝、ここへ来てくれぬか、維心。」
維心は厳しい顔で炎嘉を見ていたが、目を逸らして頷いた。
炎嘉は、そこを出て行った。
その後ろ姿を見ていた十六夜が、維月に何か言ったのが見えた。維月はためらったように黙って考えたが頷いて、十六夜に何か返している。十六夜は頷いて維月を抱きしめた。そしてその腕を離れると、維月は維心を見た。維心は嫌な予感がした…維月も十六夜も、自分のことでもわかるように、とても寛大なのだ。
「…ならぬ」維心は言った。「例え一夜でも、我は主を手放すことは出来ぬ。そのことであろう?」
維心はこちらに歩み寄って来る維月に向かって、すがるような目で言った。わかっている。我だって主らの情けから維月を妃にした。子まで成した。そして十六夜から奪うように傍に置いている…だが、無理だ。
維月は悲しげに維心を見て、十六夜を振り返った。十六夜はこちらに歩み寄って来て、二人を伴って部屋を出た。ここでは話すことではない。
「…維心、気持ちはわかる。オレみたいに心と体を切り離して考えられないお前にとって、つらいだろうな。だが、お前が毎日維月を独り占めしてることを考えてみろ。オレだってあんまりいい気はしねぇんだぞ…体の交流は要らないが、心の交流はしたいんでな。」
回廊を抜けて歩きながら、十六夜は言った。維心は首を振った。
「我には無理だ。十六夜、例え炎嘉がこれが最期と望んでも、我にはそれを許すことが出来ぬのよ。己がどれほど心が狭いのかわかっておる。だが、維月だけは無理だ。頼む、十六夜。我には無理なのだ。」
十六夜は、維月と目を合わせた。維月は少し黙ってから頷いた。十六夜が軽く手を上げる。
維心は悟って、慌てて避けようとしたが、遅かった。意識が薄れて行く。
「…やめてくれ」維心は薄れて行く意識の中で必死に口を動かした。「頼む、維月…。」
維月が自分を抱きしめるのがわかる。その声は悲しげに言った。
「…大丈夫ですわ。明日になれば、全ては終わっておりまする。愛しています。私には、これしか炎嘉様にしてあげられないのですから…。」
維心は力を振り絞って維月を抱きしめた。誰にも触れさせたくない…。
そこで、意識は無くなった。
維月と十六夜は、維心を維心の対に運ぶと、そこの寝台へ寝かせた。維心は、額に汗を浮かべて必死で意識の喪失と戦っている。十六夜の力で抑えつけているものの、維心の力は絶大で、必死に抗おうとしているので、今にも意識を戻しそうだ。十六夜は苦笑した。
「…確かにこいつは最強だな。オレの力でここまでしか抑えられないとは。もし不意打ち出来てなければ、意識を失わせるのも難しかっただろうよ。それに、気を抜いたら意識を取り戻しちまう。オレはここから離れられねぇ。お前、一人で行けるか。」
維月は維心を見ながら頷いた。
「私は大丈夫よ。維心様…私、迷ってしまうわ。」
十六夜は維月の肩を抱いた。
「そうだな。あんまり必死に頼むから、オレもどうしようかと思った。だが、炎嘉の記憶は次の転生で無くなるんだ。本人は自分を亡霊だと言った。それがどれほどつらいことか。記憶なんて持って生まれるもんじゃねぇ。これが最期なんだ。維心は自分の感情に溺れているが、オレから見たら、炎嘉が記憶を持って転生したのは維心のためだと思うぞ。こいつは死んでからも炎嘉を呼び出してただろうが…炎嘉は維心をずっと心配して、先に死んだことに罪悪感を持っていたんだ。オレはあいつと、月の宮で過ごして来て折々に話しを聞いて知ってるんだよ。それでこんなことになって…たった一つ望んでいるのが維月なら、最後の夜ぐらい、譲ってやってもいいんじゃねぇか?」
維月は頷いた。
「わかっているわ。維心様の意識を、戻さないようにしていてね、十六夜。お辛い想いをなさるのは、おかわいそうだから…。」
十六夜は頷いた。
「大丈夫だ。安心しな。」
維月は維心を振り返り振り返り、部屋を出て行った。
炎嘉は、暗い部屋で、明かりも付けずに気配のない月を見上げていた。
これで、炎嘉としてこの記憶で月を見るのは最後だ。長かった…しかし維心はもっと長かっただろう。一度死んだ自分に比べ、あいつは生きてこの地を統べていた。今もまだそれは続いている。それで転生したが、役に立つどころか心配の種でしかない。しかし、それがわかっていても、自分はそれを律することは出来ない。生身の体で生きているからだ。
領黄を見ていて思った。自分は一度死んだのだ。この記憶は重すぎる。なら、この命は領黄にやるべきなのだ。同じ血筋の男なのだから…。
炎嘉は覚えのある気に振り返った。まさかと思った…あり得るはずはないのだ。今ここには維心も居る。やつが許すはずはない。
だが、そんな考えとは裏腹に、炎嘉はその気の方へ速足で歩み寄った。
「…維月!」
カーテンを除けて維月を見た炎嘉は、驚いて後ろへ下がった。維月はきまりが悪そうに両手を胸元で組んで炎嘉を見ている。
「炎嘉様…お仕事は終わりましたか?」
炎嘉は首を振った。
「…元よりそう仕事などないのだ。それに、我が逝くことを蒼に知らせるべきではないと思うたのでな。あれは我を頼っておるので…だが、維心がおる。わからぬことは、やつに訊けばよい。」
維月は頷いて、炎嘉に歩み寄った。炎嘉はためらいながら、維月を見降ろした。
「維心は…?月はどうしておるのだ。昼間のことを忘れた訳ではあるまい。」
維月は目を伏せた。
「維心様はお休みになっております。十六夜が共におります。朝までお目覚めになることはございません。」
炎嘉はその意味を悟って目を見開いた。
「主…そんなことをして、目が覚めた時、維心がどれほどに…」と目を泳がせた。「月まで我に、主を許すというのか。」
維月は下を向いたまま頷いた。炎嘉はためらっていたが、維月の手を取った。維月は言った。
「今宵だけ…私は炎嘉様の妃となりまする。転生される時忘れてしまいまするが…今生で、それをせめてもの良い記憶として、ほんの少しの間でもお持ちいただけましたら…。」
炎嘉は涙が浮かんで来るのかわかった。
「では…今生での、唯一の妃であるの。やっと出逢えた運命の女だ。」と維月を抱き上げた。「感謝するぞ。主にも…月にも。そして維心にも。我は願いを、最後に叶えることが出来るのだからな。」
維月は頷いた。このかたは明日旅立って逝かれる。この世と別れて、そして全てを忘れて転生し直すために…。
維月は、降ろされた寝台の中で、その口付けを受けた。




