【第1話】沈黙のお茶会と、冷たいはずの婚約者様
やわらかな春の陽光が、ウェストブルック伯爵邸のサンルームいっぱいに降り注いでいた。
ガラス越しに見える庭園には色とりどりのゼラニウムが咲き乱れ、テーブルの上では銀のティーポットから湯気とともにアールグレイの芳醇な香りが立ち上っている。
だが――その優雅な光景とは裏腹に、テーブルを挟んだ空間には、針の落ちる音すら聞こえそうなほどの重苦しい沈黙が漂っていた。
「……カイル様。今週は穏やかなお天気が続いて、過ごしやすいですわね」
リリアーナ・ウェストブルックは、膝の上で握りしめた指先にそっと力を込めながら、できる限り穏やかな笑みを浮かべて声をかけた。
緩やかに波打つ亜麻色の髪に、大きなヘーゼル色の瞳。派手な夜会よりも静かな読書やお菓子作りを好むリリアーナは、社交界では「おっとりとして地味な令嬢」と評されることが多かった。
そんな彼女の正面に座っているのが、半年前に親同士の話し合いによって婚約者となったカイル・アシュレイ子爵だった。
カイルは彫刻のように端正な横顔を崩さず、伏せたまつ毛の奥にあるスカイブルーの瞳を、テーブルの上に置かれた純銀のシュガーポットへと向けたまま微動だにしない。
その眉間には、まるで刃物で刻みつけたかのような深い縦皺がくっきりと刻まれている。
「……ああ」
返ってきたのは、低く硬い、わずか一言だけの返事だった。
「子爵領の農地改良事業、順調に進んでいらっしゃると伺いました。春の種蒔きもお忙しいのでしょうね」
「……問題ない」
視線すら合わない。会話は完全にそこで途切れてしまった。
リリアーナは小さく息を呑み、胸の奥がきゅっと締め付けられるのを感じた。
カイル・アシュレイは二十二歳の若さで家督を継ぎ、荒廃しかけていた領地の財政を見事に立て直した、極めて有能で誠実な領主として知られている。
だが、同時に社交界では「冷酷な氷の子爵」「滅多に笑わない不愛想な男」と恐れられていた。
毎週土曜日の午後にこうしてウェストブルック邸を訪れてくれるものの、カイルは常に不機嫌そうに眉を寄せ、口を開けば素っ気ない単語を返すだけ。
社交界の友人たちからは、同情混じりに囁かれていた。
『リリアーナ様、アシュレイ子爵に冷たくされているのでしょう?』
『政略結婚を無理やり押し付けられて、ご不満なのだわ。可哀想に、嫌われているのね』
(やっぱり……カイル様にとって、私とお茶を飲む時間は苦痛でしかないのかしら……)
リリアーナは俯き、ヘーゼル色の瞳を寂しげに曇らせた。
自分には、社交界で殿方を喜ばせるような気の利いた会話も、目を引くような華やかな美貌もない。ただ退屈で、義務感だけで通ってきているのだとしたら、彼にとってどれほど重荷だろう。
けれど――リリアーナは、婚約破棄を言い出したり、彼を責めたりする気にはなれなかった。
どれほど不機嫌そうに見えても、カイルは約束の時間を一度たりとも破ったことがない。嵐の日でも必ず訪れ、リリアーナが席に着くまで立ったまま待っていてくれる。その不器用な誠実さを、リリアーナは知っていたからだ。
(せめて……私と一緒にいる時間くらい、少しでも眉間の皺を解いて、心安らいでほしいのだけれど……)
その時だった。
「失礼いたします、子爵様、お嬢様。温かいお湯をお持ちいたしました」
年配の給仕がサンルームに入ってきて、テーブルの上に新しい白磁のポットを置いて一礼した。
「ありがとう、トーマス。下がっていいわよ」
「かしこまりました」
給仕が静かに扉を閉めて出ていった。
サンルームには、再び二人きりの静寂が戻る。
リリアーナは立ち上がると、窓辺へと歩み寄った。
「少し日差しが強くなってまいりましたね。レースのカーテンを引きますわ」
そう言って、リリアーナは背を向け、窓枠のシルクの紐を引いた。
窓ガラスに、背後の室内の様子がうっすらと映り込む。
そして――何気なくそのガラスの反射を見た瞬間、リリアーナは息を呑んだ。
テーブルに残されたカイルが、素早く左右の扉を見渡した。
誰もいない。リリアーナも背を向けている。
その瞬間――カイルの動きが、目にも留まらぬ俊敏さで跳ね上がった。
シュッ、と音が出そうな勢いで銀のシュガートングを手に取ると、山盛りの角砂糖から、大きな塊を一つ。
ポチャン。
続いて、二つ目。
ポチャン。
さらに、迷うことなく三つ目。
ポチャン……!
(み、三つも入れた……!?)
リリアーナは目を丸くしてガラスの反射を凝視した。
カイルは音を立てないよう慎重にティースプーンで紅茶をかき混ぜると、カップを両手でそっと持ち上げ、口元へと運んだ。
一口、コクリと飲む。
その瞬間――。
奇跡のような光景が、リリアーナの視界に飛び込んできた。
カイルの眉間に刻まれていたあの深い縦皺が、まるで春風に撫でられた雪のように、ふわりと跡形もなく消え去ったのだ。
切れ長のスカイブルーの瞳が、とろけるようにうっとりと細められる。
キュッと結ばれていた薄い唇が、ほんのりと緩み、至福の吐息が小さくこぼれ落ちていた。
まるで、世界中のすべての幸福を手に入れた子猫のような、無防備で甘やかな表情。
(か、可愛い……ッ!?)
リリアーナの胸が、ドクンと激しい音を立てた。
冷酷無情な氷の子爵? 不機嫌な政略結婚の被害者?
違う。そうではない。
この男は――ただ単に、甘いものが大好きなだけなのだ!
カーテンを引き終え、リリアーナが振り返ろうとしたその刹那、カイルは電光石火の速さでカップをソーサーに戻した。
そして――何事もなかったかのように、再び眉間にこれでもかと言わんばかりの激しい縦皺を寄せ、腕を組んで窓の外を睨みつけた。
その素早さと、あまりにも必死な誤魔化しぶりに、リリアーナは口元を押さえて笑い出しそうになるのを必死に堪えなければならなかった。
「……お待たせいたしました、カイル様」
リリアーナが席に戻ると、カイルはわずかに視線を動かした。
「……ああ。すまないな」
声は相変わらず低く硬かったが、リリアーナの目には、もう先ほどまでの冷たい威圧感は見えなかった。
カップの中に残された紅茶には、角砂糖が三つも溶け込んでいる。
(そうだったのね……。アシュレイ子爵家は代々厳格な家風で、甘味を嗜むことなど軟弱だと禁じられていると聞いたことがあるわ。きっと、公の場では甘いものが好きだなんて口が裂けても言えなくて、必死に我慢していらしたんだわ……!)
そう考えると、毎週のお茶会で彼が口にしていたのは、砂糖もミルクも入れない苦いストレートティーばかりだった。
眉間に皺が寄っていたのは、リリアーナを嫌っていたからではなく、ただ純粋に苦いお茶に耐えていただけだったのではないだろうか。
そう気付いた瞬間、リリアーナの胸の中にあった不安と恐怖は完全に霧散し、代わりに愛おしさと温かな勇気が湧き上がってきた。
やがて、お茶会の終わりの時刻を告げる鐘が鳴った。
カイルは静かに立ち上がり、上着の裾を整えた。
「……では、今週はこれで失礼する」
「お見送りいたします、カイル様」
二人は並んで屋敷の玄関ポーチへと向かった。
車寄せには、すでにアシュレイ子爵家の黒塗りの馬車が待機している。
御者がステップを降ろし、カイルが馬車に乗り込もうとした、その時だった。
「あの……カイル様!」
リリアーナは思わず呼び止めていた。
カイルが足を止め、怪訝そうに振り返る。
「……何だ?」
相変わらずの仏頂面。
だが、リリアーナは怯まなかった。胸の前で両手をぎゅっと握りしめ、ヘーゼル色の瞳で真っ直ぐにカイルを見上げた。
「もし……もしご迷惑でなければ、なのですが……。来週のお茶会には、私が手作りしたお菓子をお出ししてもよろしいでしょうか?」
「……手作りの、菓子?」
カイルの喉仏が、小さく上下した。
「はい。私、昔から焼き菓子を作るのが好きでして……。いつも同じようなお茶ばかりでは退屈でしょうから、もしよろしければ、カイル様にお召し上がりいただきたくて」
リリアーナが微笑みかけると、カイルは雷に打たれたように完全に硬直した。
スカイブルーの瞳が限界まで見開かれ、唇が微かに震えている。
数秒の沈黙の後、カイルは乱暴に顔を背けた。
「……好きにしろ。口に合うかどうかは保証できんがな」
そう低く吐き捨てるように呟くと、カイルは逃げるように馬車へと乗り込み、扉を勢いよく閉めてしまった。
ガラガラと音を立てて馬車が走り出す。
だが――リリアーナは見逃さなかった。
窓のカーテンの隙間から見えたカイルの横顔。
彼の耳たぶから首筋にかけて、隠しきれないほどの鮮やかな朱色が、カッと真っ赤に染め上がっていたことを。
「……ふふっ」
走り去る馬車を見送りながら、リリアーナの唇から、こらえきれない愛おしい笑みと温かな吐息がこぼれ落ちた。
(来週は……とびきり甘くて、とびきり美味しいお菓子を焼いてお待ちしておりますわ、カイル様)
春のそよ風にドレスの裾を揺らしながら、リリアーナは弾むような足取りで屋敷の厨房へと向かったのだった。
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