最終話 桶、旅立つ!
桶さんが。
自分の決意を皆に伝えてから。
一週間が経った。
その間。
桶さんは、湯けむり亭でいつも通り過ごしていた。
ただ。
今までと、一つだけ違うことがあった。
新しく覚えた。
【湯源継承】
そのスキルを、桶さんは皆に説明した。
「つまり」
ミリナが確認する。
「桶さんがいなくても」
「この温泉は」
「桶さんと同じような効果を持つんですね?」
『そういうこと』
「すごい……」
ルーナが湯けむり亭の源泉を見る。
「じゃあ」
「これで本当に」
「桶さんがいなくても大丈夫なんですね」
『まぁな』
そして。
その日のうちに。
桶さんは【湯源継承】を使った。
何か、大きな変化が起きるわけではない。
光ることもない。
音がすることもない。
ただ。
湯けむり亭の源泉へ。
静かに。
桶さんの力が受け継がれた。
そして。
翌日。
湯けむり亭には、いつものように常連達が集まっていた。
「ふぅ……」
「やっぱりここの湯は最高だな」
「最近ちょっと忙しくなったけどな」
そんな、いつもの光景。
だが。
しばらくして。
一人の常連が、不思議そうな顔をした。
「……あれ?」
「どうした?」
隣の男が聞く。
「いや」
男は、桶さんを見る。
そして。
浴場に置かれている普通の桶を見る。
「この桶」
「前と違わないか?」
「え?」
「いや」
男は、自分の手で湯をすくう。
「昔から」
「俺はこの桶を使ってただろ?」
「そうだったな」
「最初の頃から」
男は、もう一度桶さんを見る。
「でも」
「今」
「普通の桶で湯をかけても」
「……あまり変わらない気がする」
「まさか」
別の常連も、桶さんを見る。
「効果が」
「なくなったのか?」
その言葉に。
ミリナが少しだけ困った顔をする。
「えっと……」
どう説明しようか。
迷っていると。
『やっぱり』
桶さんが、嬉しそうに念話を送る。
『昔から来てる人達は』
『すぐ気づくな!』
ミリナは、思わず笑ってしまった。
「ふふっ」
「桶さん」
「やっぱり」
「昔から来てくださってる方は」
「すぐ分かるみたいですね」
『だろ?』
『俺がどれだけ』
『この人達に湯をかけてきたと思ってるんだ』
『そりゃ違いにも気づくって』
桶さんは。
なんだか。
誇らしそうだった。
そして。
ミリナは。
常連達へ。
少しずつ。
新しい湯のことを説明した。
桶さんが。
これまで湯に与えていた力。
それが。
源泉そのものへ。
受け継がれたこと。
常連達は。
最初こそ驚いていた。
だが。
「なるほどなぁ」
「だから」
「最近は普通の桶でも」
「昔の桶さんと変わらなかったのか」
「便利になったもんだ」
皆。
どこか。
嬉しそうだった。
その様子を。
桶さんは。
静かに聞いていた。
(……これでいいんだ)
自分が。
ここにいなくても。
湯けむり亭の湯は。
これからも。
人を癒していく。
そう思うと。
少しだけ。
寂しくて。
それ以上に。
嬉しかった。
そして。
桶さんの。
旅立ちの日が。
やってきた。
最初。
ミリナは。
「私も行きます!」
と言っていた。
『いやいやいや』
「行きます!」
『湯けむり亭はどうするんだよ』
「ルーナさんもバルミナさんもいます!」
『いや』
『それでも店主がいなくなるのはダメだろ』
「でも……」
ミリナは。
何度も。
ついて行きたいと言っていた。
けれど。
最後には。
皆で話し合って。
一つの結論になった。
まずは。
シャルネが。
桶さんを連れていく。
そして。
新しい場所に。
桶さんが落ち着いたら。
シャルネは。
湯けむり亭へ戻ってくる。
「じゃあ」
「しばらくよろしくね」
シャルネが。
桶さんを抱える。
『ああ』
『こっちこそ頼む』
「ちゃんといい温泉を見つけるんだよ?」
『もちろん』
『俺だって温泉好きだからな』
「ふふっ」
「それは知ってる」
そして。
旅立ちの時。
湯けむり亭の前には。
大勢の人が集まっていた。
常連達。
湯けむり亭の仲間達。
リリィ。
そして。
リリィの父親。
最初から。
桶さんのことを知っている者達が。
皆。
集まってくれていた。
普段。
桶さんの念話が聞こえるのは。
限られた人だけ。
だが。
今日は違う。
桶さんは。
皆に。
最後の挨拶をするため。
念話の声を。
この場にいる全員へ。
届くようにした。
『……みんな』
突然。
頭の中に。
桶さんの声が響く。
「……!」
「聞こえた!」
「桶さんの声だ!」
皆が。
驚く。
桶さんは。
そんな皆を。
静かに感じていた。
『今日』
『俺は』
『湯けむり亭を出る』
『だから』
『最後に』
『みんなに伝えておきたい』
桶さんは。
まず。
常連達へ。
『みんな』
『今まで』
『ミリナのことを気にかけてくれて』
『本当にありがとう』
『ミリナが一人で湯けむり亭を守ってた頃から』
『ずっと』
『ここへ通ってくれた人もいる』
『経営が苦しい時も』
『客が少ない時も』
『湯けむり亭を見捨てなかった』
『俺は』
『それがすごく嬉しかった』
常連達の中には。
もう。
涙を拭っている者もいた。
『これからも』
『ミリナのことを』
『よろしく頼む』
「任せろ!」
「そんなの言われなくても分かってる!」
「帰ってくるまでちゃんと守っとくぞ!」
『ありがとう』
桶さんは。
次に。
湯けむり亭の仲間達へ。
『バルミナ』
「……うん」
『最初の頃から』
『いろいろ助けてくれてありがとう』
『経営のことなんて』
『俺には全然分からなかったからな』
『何度も頼りにさせてもらった』
バルミナは。
少しだけ。
笑った。
「こっちこそだよ」
「桶さんが来てから」
「毎日が忙しくなったけどねぇ」
『それは悪かった』
「ふふっ」
次に。
『ルーナ』
「はい」
『予約制にした時も』
『湯土産を始めた時も』
『いつも真面目に働いてくれてありがとう』
『サウナにまでハマってくれて』
「そ、それは!」
ルーナが。
顔を赤くする。
「桶さんのせいです!」
『俺のせいかよ』
皆が。
笑った。
『シャルネ』
「うん」
『これから』
『俺を連れて行ってくれるんだよな』
「もちろん」
『しばらくの間』
『世話になるけど』
『頼りにしてる』
「任せて」
シャルネは。
桶さんを。
しっかりと抱える。
『でも』
『俺が新しい場所に落ち着いたら』
『ちゃんと湯けむり亭に戻るんだぞ』
「分かってるって」
「桶を置いてくるまでが私の仕事だからね」
『言い方が雑だな……』
「ふふっ」
『……ありがとう』
「うん」
「こちらこそ」
『ミア』
「はい!」
『掃除も接客も』
『いっぱい頑張ってくれてありがとう』
『湯けむり亭を支えてくれて』
『本当に助かった』
「こちらこそです!」
『エナ』
「はい!」
『新人の面倒を見るのも』
『いつも元気いっぱいで』
『湯けむり亭を明るくしてくれた』
「えへへ!」
『そのままでいてくれよ』
「任せてください!」
『ドロシィ』
「はい!」
『元気いっぱいで』
『皆を笑わせてくれてありがとう』
『これからも』
『湯けむり亭を頼む』
「はい!」
そして。
最後に。
ミリナ。
桶さんは。
しばらく。
何も言わなかった。
ミリナも。
何も言わず。
桶さんを見つめていた。
『ミリナ』
「……はい」
『ありがとう』
それだけで。
ミリナの目から。
涙が溢れた。
『俺が』
『この世界に来てから』
『最初に会ったのが』
『湯けむり亭だった』
『そして』
『俺がここで過ごせたのは』
『ミリナが』
『この温泉を守ってきたからだ』
『何度も』
『もう駄目かもしれないって思うような時があった』
『それでも』
『ミリナは』
『湯けむり亭を諦めなかった』
『だから』
『俺も』
『この場所が大好きになった』
ミリナは。
涙を。
何度も。
拭おうとする。
けれど。
止まらない。
『これから』
『俺がいなくても』
『大丈夫だ』
『湯けむり亭には』
『みんながいる』
『ミリナがいる』
『だから』
『心配するな』
「……はい」
『ミリナなら』
『大丈夫だ』
「……はい……」
『俺が』
『いなくても』
『この温泉を』
『守っていける』
ミリナは。
もう。
我慢できなかった。
「桶さん……!」
ミリナは。
桶さんを。
両手で。
ぎゅっと抱きしめた。
「ありがとうございます……!」
「本当に……!」
「本当にありがとうございました……!」
「私」
「桶さんが来てくれて」
「本当に良かったです……!」
「最初は」
「ただの桶なのに」
「なんでこんなに話せるんだろうって思って……」
「でも」
「いつの間にか」
「桶さんがいるのが当たり前になってました……」
「一緒に温泉に入って」
「一緒に笑って」
「一緒に悩んで」
「一緒に湯けむり亭を大きくして……」
「私」
「全部覚えてます」
ミリナの声が。
震える。
「桶さんが」
「私を助けてくれたこと」
「何度も」
「私を励ましてくれたこと」
「私が諦めそうになった時も」
「ずっと一緒にいてくれたこと」
「今回だって」
「私を助けるために」
「神湯を探して」
「いろんなところへ行って……」
「本当に」
「ありがとうございました……!」
桶さんは。
何も言えなかった。
ただ。
ミリナの腕の中で。
静かに。
その言葉を聞いていた。
そして。
『……ミリナ』
「はい……」
『俺も』
『ありがとう』
『湯けむり亭に来られて』
『本当によかった』
「……はい」
『じゃあ』
『ちょっと行ってくる』
「……はい」
『また必ず戻ってくるから』
ミリナは。
涙を拭いながら。
何度も頷いた。
「待ってます」
『うん』
シャルネが。
桶さんを抱えて。
歩き出す。
湯けむり亭を。
離れて。
新しい旅へ。
皆が。
見送っている。
桶さんは。
最後に。
皆へ。
念話を送った。
『じゃあ』
『ちょっと』
『温泉旅行に行ってくるわー!』
「「「いってらっしゃーい!!」」」
湯けむり亭に。
大きな声が響いた。
シャルネと。
桶さんは。
ゆっくりと。
街の外へ向かっていく。
その先に。
どんな温泉が待っているのか。
どんな人達と出会うのか。
桶さんには。
まだ分からない。
けれど。
ただ一つ。
分かっていることがある。
温泉がある限り。
桶さんの旅は。
終わらない。
――こうして。
一つの温泉宿から始まった。
黄色い桶の物語は。
新たな旅へと。
続いていくのだった。




