第一章 ライフェン再訪 9
翌朝、とても良い匂いで目が覚める。知らない人の家で目が覚めると一瞬ここはどこだ? と驚くのだがすぐに昨日のことを思い出し、身支度すると私はキッチンへ向かった。
キッチンテーブルの上にはすでに朝食が並べられている。今焼けたばかりのバゲット、程よく半熟の目玉焼き、表面に塩と胡椒の粒が見える。噛むとプツンと弾け肉汁があふれそうなウインナー、新鮮で表面に水滴がキラキラ光るレタス、宝石のように赤いトマト、そして忘れてはならないかぐわしきコーヒー!
これ以上何を望むというのだろう?
「良く眠れた?」
老婆が聞いた。
「おかげさまで何年かぶりに熟睡したよ。夢も見なかった」
「そりゃ自分の家ですもの、私は昨日は何年かぶりに楽しい夜だったわ」
初めにあった居心地の悪さはとうに消えていた。しかしこのままというわけにはいかない。でも話は朝食の後だ。
バゲットの上に粒マスタードの入ったソースを塗り、ウインナー、目玉焼き、トマト、レタスの順で乗せそしてかぶりつく。なによりパンがうまい。もっちりしているし、外側はカリカリで存在感がある。普段は路傍の石のように硬く砂のような味のパンを食べている。自分にとってこれは全くの別物だ。大げさではなくこんな美味しい朝食は久しぶりだった。タパ氏はずっと心残りだったと思う。こんな素晴らしい朝食が食べられないなんて。
「口にあわなかったかしら? あなた野菜が嫌いだったものね」
私は激しく首を振った。
「こんなうまい朝食を食べられるのなら地の果てからでも帰ってくるさ」
私はタパ氏の言葉を代弁した。きっとタパ氏もそう言ったに違いない。
「そう言ってもらえると作った甲斐があるってものね。まだいくらでもできるから沢山食べなさいね」
香りたつコーヒーはその苦みもちょうど良く普段飲んでいるものは泥水なんじゃないかと思えるほどだった。
「話があります」
私は居住まいを正しテーブルの上に依頼品の小瓶を置いた。老婆はそれが何かすぐにわかったようだ。手に取るとそれを愛おしそうに撫でた。
「これをあなたに渡した日のことは今でもはっきりと覚えているわ。十五年前だったわ。私が唯一あなたの頬を叩いた日ね。あの時の痛みはまだ手に残っているわ。あなたは大火傷を負っているし突然王都に行くと言い出すし、しかもあなたの父親が亡くなった直後で私は気が動転してしまって…」
老婆は声を詰まらせて泣き出した。過去を思い出させてしまったらしい。どうやら十五年前のスダリアス討伐に現建設王とタパ氏は関与していたようだ。スダリアスを仕留めたのは前建設王によるものらしいが、私はグッケンハイムの一時雇われの身だったし、そのような末端の人間に詳しいことは何も知らされていなかった。私がライフェンに着いた頃にはもうすでに討伐後でしかも解体が始まっていたので巨大なスダリアスの全貌は見ていない。主に脚部を運搬したのだが恐ろしい重さで重労働だったのを覚えている。
「本当にごめんなさい、たとえどんな理由があろうとも叩くべきではなかったのよ」
私は老婆の肩に手をやった。小さい肩は震えていた。私はかける言葉が見つからなかった。タパ氏ほどではないにしても自分にも同じような身に覚えがある。両親に叩かれた記憶は胸を苦しくさせる。老婆が自分の母親のように感じられる。きっとその後悔を持って今まで過ごしてきたのだろう。少しでもその心の重荷を取り除くことができればいいと私は思った。具体的に何をすればいいか皆目わからないのだけれど。もし可能ならば私はいくらでもタパ氏の代わりを務めるつもりだった。
老婆は気がすむまで泣いた後、残っていた涙を拭いた。
「あなたは泣きながら何度も謝ってくれたけれど、あなたはなにも悪くはなかったのよ。でもあなたが王都へ行くという時どうして素直に送り出すことができなかったのでしょう。寂しいとかそんな簡単な感情ではなかったように思うわ。あなたのことを思って、と口では言っていたけれど結局のところ自分のことしか考えていなかったのでしょうね。報いだったのかもしれないわ。夫を失い、そしてすぐにあなたまでいなくなってしまう。あなたは最後まで気遣ってくれたけれど、あなたが王都へ行くことを辞めるとは思えなかったわ。あなたはもう後ろを振り返ることなく前を向いて進むのだとわかったから私は快く送り出すことに決めたの。私は次の日、市へ行って異国のキャラバンから一番高い香水を買ってあなたの出発に持たせたのよ。それは昨日のことのように覚えているわ」
それがこの瓶ということか。
「これを渡す時なんて言ったか覚えている?」
私は首を振る。亡くなった自分の息子の遺体から悪臭が放たれるのを不憫に思うから香水を振れということだろうか、しかし自分の息子が死ぬことを考える母親などいるだろうか。ここは当て推量で言うべきではないだろう。
「これはあなたにあげたのではないの。あなたの仲間が亡くなることもきっとあるでしょう。そんな時丁重に葬るなんてことは戦場ではできないでしょうからせめてもの弔いにこの香水をかけてあげなさい、そういう願いを込めてあなたに贈ったの。あなたは理解していたようね」
この瓶を全て使うということはいったい何度戦友との別れを経験してきたのだろうか。老婆も同じ思いなのか「よく頑張ったわね」と私の頭を撫でた。その手はシワシワで細く小さかったが、温かかった。
「香水を渡した時にあなたは笑って俺の最期にはこれをドゥラにかけてもらうことにするよ、なんて言うから私は縁起でもないことを言わないのって怒ったのよね、覚えてる?」
老婆はそう言って笑ったが、今ここに空瓶があることをわかっているのだろうか。なにより瓶を建設王が持っていたということは本来の持ち主のタパ氏はもうすでにこの世にいないということだ。
おそらく建設王が毎年タパ氏の母親に歩荷人を使って誕生日プレゼントを贈っていたのだろう。何故今年に限って空の香水の瓶を渡したのか意図はわからない。瓶は自分が持つべきではなく母親に返すべきだと思ったのかタパ氏が亡くなったことを認識させ負の連鎖を断ち切るつもりだったのか。もう潮時だと思ったのかもしれないし、違うのかもしれない。建設王自身も明確な答えを持ち合わせていたかは怪しい所だ。
私が家から辞す時、最後に老婆が言った。
「私のわがままに付き合ってくれてありがとうね。昨夜は本当に楽しくて久しぶりに笑ったわ。またいつでも帰ってきなさい」
老婆は振り返るといつまでもいつまでも私を見送っていた。




