西域は恨みの地
一
校尉李哆の責務は重大である。しかし彼は実のところ、不満であった。できることなら自分が煎靡とやらを相手に一騎打ちをしたい、と思っていたのだが、与えられた任務は二箇所の水源を破壊することであった。
——しかし、詮無いことよ。
彼はこれまで勢いだけで人生を歩んできた。どちらかというと調子のよい言葉を吐き、それによって人の記憶に自分の顔と名前を刻みつけてきた。しかし近頃は、まるで金箔が剥がれるように真の自分の姿が露呈しつつある。
李哆の武芸の実力では、教育を受けた仁栄に及びようがない。体格もさることながら、彼はその実力を評価されて皇帝と同じ剣を与えられるという経験はなかった。
無論、上には上がいるものだ。彼はそのことを充分承知しているつもりだったが、いざ命令を下されるとそれを消化しきれない自分がいることに気づいた。
——少童のようなものだ。
以前であれば、自分のことをそのように感じることもなかったであろう。この西域での経験が、彼を成長させていた。その原動力の大部分は、彼自身の失敗である。
勢いに任せて主戦論を戦わせ、常盤城では大敗を喫した。上官の李広利が彼を罷免しなかったのは、他に人物がいなかったからに過ぎない。少なくとも李哆はそのように思っていた。
彼は本隊に先行して水源に赴いたが、当然のことながら正面からこれに移動するわけにはいかない。敵兵に悟られないよう、大きく道を迂回して山の裏側から近づかなければならなかった。この行程に約一日を要する。さらにもう一つの水源を破壊しなければならないことを考えると、その行程にさらに一日……。そのためには実際の作業を一日で終わらせねばならない。
ところが彼は水源に到達すると、その日の夜のうちに作業に取りかかった。兵たちに与えた休息の時間は、半刻もあっただろうか。
「夜陰に紛れて作業をする方が、少しでも発見される恐れが少ない」
彼はそう言い、兵たちに不眠不休の作業を命じた。
作業自体は、そう難しいものではない。山の中腹にある渓流から引かれている水利施設を塞げばよいのだ。畦に積まれている石を崩し、それで水の流れをせき止めるだけで用は足りる。長江や黄河を利用した運河に比べれば非常に稚拙な作りで、この点だけでも李哆は漢の文化の優位性を感じたという。
「直ちに次の現場に向かう。夜明けには郁成の城内では異変に気づき、大騒ぎになるだろう。対処されないうちにもう一つの水源を断ち、とどめを刺すのだ」
李哆はそう言って部下を励まし、山を下って郁成城の裏側に道をとった。
——夜明けには両軍が激突する。
谷を降りて敵兵に発見されやすくなる頃には、本軍が正面から攻撃を仕掛ける。それによって彼らは比較的安全に次の目標に向かえるはずであった。
しかしそれも、李広利率いる本軍が、予定通り三日間持ちこたえてくれれば、の話である。
二
「李哆どのは首尾よく水源を断ったでしょうか」
そのようなことを聞いても明瞭な返答など期待できるはずもないというのに、私はそれを口に出して聞かざるを得なかった。案の定、李広利の返答は「わからぬ」というものであった。
「しかしこちらとしてはもう動かざるを得ぬ。李哆が成功したと信じて、進軍あるのみだ」
かくして彼は軍を前に進め、肉眼で郁成城が見える位置にまで達した。城の前には、情報通り敵兵が陣を固めている。李広利は、すぐに乱戦にならぬよう兵を戒めた。
「軽挙妄動はするな。この状態で少なくとも三日間、持ちこたえることが必要だ。相手の挑発に乗ることなく、粛々と前に進め」
じわじわと距離を詰め、次第に敵の様相が明らかになっていく。まず最初に我々の目にとまったのは、城内の中央にともされているとおぼしき、巨大な炎であった。
「何かを燃やしているのであろうか」
朝早くからご苦労なことだ、とでも言わんばかりの口ぶりで、李広利は呟いた。
「いえ……そういうわけではございません。以前にお話ししたこともありましたが、火が彼らの信仰の対象です。というより、火が善を象徴している、と考えているのです。おそらく、大宛の各城にはあれと同じような火が燃えさかっていましょうが、どれもその起源を同じくしたものでしょう。そして、決して消えることがないのです」
「なるほど。ではいっそ我々の手で消してしまおう。城内に侵入できたらの話だが」
「彼らの士気はぐっと下がりましょう。しかしいずれにしても、侵入できたらの話です。それに、我々が侵入できたとしたら、それは城内の水という水が枯渇したときでありましょう。消化するにも苦労するはずです」
「しかしいずれ、完全に郁成を屈服させる手段はそれが最上だ。その先に目の前の敵に勝たねばならない。さて……」
李広利は敵の布陣を見渡した。さすがに前面の敵は士気が上がっているようであり、騎乗する馬も非常に逞しい。
「あれが、汗血馬か……」
あれと正面から戦わないことが先決だ。その機動力を削ぎ、自由度を奪うにはどのようにしたらよいか……。
「方陣を布いて四方からの攻撃に備えよ。汗血馬に陣形を蹴散らされぬよう、密集隊形を崩さず、前に進め」
我が軍はその言葉の通りに前面に盾を並べ、じわじわと前進を進めたが、意外なことに郁成側の反応がない。双方の距離が縮まっても、仕掛けてくる様子が見えなかった。
「勇壮な馬と兵を揃えているというのに、防御に徹するつもりか。それともすでに水源の一つを断たれたことが影響しているのか……そうであってほしいところだ」
実際のところ、この時点での我々には李哆が無事に水源を破壊し得たかどうかわからない。しかし敵の動きの鈍重さはそれを示しているのではないか……そう考えたくもなるのであった。
「しかし我々としては、野戦である程度の勝利を収めない限り、籠城戦に持ち込めない。長弓で仕掛けろ。射程に入ったら、即座に射かけよ」
大宛などの西域世界で用いられている兵器は、主に短弓である。騎乗しながらの発射が可能であり、速射性にも優れているが、弦が短いため射程が短い。
一方長弓は、長いものでは人の背丈ほどもあるので、必然的に歩兵が利用する兵器となる。威力に優れ、射程も長いが、速射能力に劣る。なお、矢も長くなるので空中での安定に優れ、命中力が高まるという利点もある。
漢に限らず、歴代の中原国家は匈奴をはじめとする騎馬民族に対抗するため、長弓を使用することが多かった、とされている。今回は、その利点を大いに発揮しようという李広利の策であった。
やがて漢の陣営から、幾本もの矢が放たれた。矢はまっすぐに郁成の陣営へと突き刺さり、実際に数名が射貫かれたようであった。
「喜べ。はやし立てよ」
防御を固める郁成に対し、挑発しようとする李広利であった。罵詈雑言を浴びせても言葉が通じる相手ではないので、このような実力行使による挑発がもっとも効果的であった。
「馬を狙え」
突如、李広利はその指示を出した。射程がこちら側に優位なうちに汗血馬を狙い、その足を止めるつもりだろう。しかし中原に住む我々の感覚からすれば、戦場において馬を狙うことには躊躇いがある。あくまで不文律ではあるが、卑怯な戦法であるとされているのだ。
この指示に異を唱えたのが、趙始成であった。
「将軍、敵の馬を射殺すことは古来から禁じ手とされている戦法です。今一度ご考慮を」
我が軍の中で最も軍事経験の長い人物は、私を除いては趙始成である。その彼が経験の浅い李広利や李哆、その他にも浮浪者や犯罪人が中心となっている一般の兵士たちの誤った行動を正すこと自体は、なんら問題のない行為である。ましてや彼は軍正という立場にあったので、この指示に対して当然の如く、敏感に反応した。
ところが、李広利はこの趙始成の諫言を退けた。
「相手は異民族だ。どうせ我々の常識が通じる相手ではない。何の遠慮があろう、躊躇わずに指示通り馬を射よ」
しかし、思っていた以上に兵たちはその常識というものにとらわれていた。命令通り馬を狙った弓矢は微妙に目標を外れ、むなしく空を切る事態が相次いだ。李広利はこれに怒りを表し、兵たちを叱りつける。
「妙な良心にとらわれずにしっかり狙いを定めろ! そんなことでは勝つどころか、生き残ることも難しくなるぞ」
しかし、兵たちの意識は徹底しない。放たれる矢が無駄に消費される中、その合間を縫って郁成軍の突進が開始された。汗血馬の連隊が急速に距離を縮めてきたのである。
我が軍のそれまでの優勢は一転して、危機の情勢に晒されつつあった。
三
汗血馬の疾走力は、矢を跳ね返すほどの勢いを感じさせるものであった。我々は皆その迫力にたじろぎ、明らかに落ち着きを失っていた。軍は前進の速度を弱め、やがては完全に停止した。
「後退して、距離を保て。我々に有利な射程を確保しつつ、汗血馬の前進を阻め。——弩を持て。一斉射撃で敵の足を止めよ!」
弩の連射は非常に効果があった。引き金で発射される弩の矢は汗血馬の足を止め、それを長弓が射貫いた。郁成部隊の進撃速度は鈍化し、戦いは膠着状態に陥った。双方が効果的な敵の撃退方法を探るべく、攻撃の度合いを緩めはじめ、やがてはにらみ合いの段階に至った。
我が軍は盾を並べて地面に刺し、その隙間から時折矢を放つ。完全に退却しているわけではないことを敵に気づかせるためだ。改めてなぜこのようなことをしているのかを言うと、李哆が二つ目の水源を断つまでの時間を稼いでいるのである。
「どうにか予定通りに事態は進行しているが……状況は圧倒的に郁成に有利だ。向こうの騎馬隊が本気で攻めてきたら、我々としては守るしかない。これを打開するには先にこちらから攻めたいところだが、少なくともあと一日は時を稼がなければならない。難しいところだ」
李広利は愚痴をこぼすような口調でそのように呟いた。しかし、私には疑問が残る。
「彼らはなぜ、もっと積極的に仕掛けてこないのでしょう。我々の食が尽きるのを待っているのでしょうか」
「わからぬ。あるいは彼らは噂に言うほど野戦に長けていないのかもしれぬ。烏孫は郁成を打ち負かすことができなかったというが、彼らがどの程度の戦いをしたのかも私にはわからない。ただ、それは希望的観測だ。私は……彼らは我々の一番弱ったときを狙って攻めようとしているのだと思う」
勢いに乗って攻めまくる騎馬民族とは違い、大宛の軍はじわじわと相手を消耗させる戦いをするのかもしれない。もっとも、匈奴をはじめとする騎馬民族の勝利の勢いに乗っているときの攻撃はすさまじいが、一度敗勢にたたされると持ちこたえることができないとされている。おそらく大宛の軍には、そのようなところがないのだろう。
「夜間がもっとも危ない。どうこれを持ちこたえるかだ。おそらくお互いに防備を固めて、にらみ合いの度を高めるしかないであろう。不安ではあるが、翌朝になったら仕掛けてみようと思う」
そして夜を迎えた。両軍はお互いに目立った動きをできずに陣を固める。仮に李哆が水源の破壊に失敗していて、郁成の城内が豊かなままであったとしたら、先に飢えるのは我々だ。このままの状態が続くと、我々の敗北が決まる。
昼間の会戦における段階で、我々はすでに矢の半数の在庫を失っていた。我々の矢は主に長弓に対応したものであるから、短弓を使用する郁成軍にそれを再利用されることはない。また、弩の矢には構造上矢羽がないので、それも拾われて再利用されることもないであろう。しかし、それは我々も同じで、彼らの使う短弓から放たれる矢は短すぎて再利用できないのである。
彼らの矢は、少なくなれば城内から補充されるであろう。一方我々は、失うものばかりであった。長期戦は甚だしく漢に不利である。
「仁栄……覚悟のほどを聞かせてくれ」
李広利は呂仁栄を呼び出し、暗にその出陣を告げた。
「ご命令があれば、今すぐにでも出陣します」
仁栄は力強く応じた。
この男は、もう何日も前から死を覚悟している。
三
翌朝、仁栄は軍の先頭に立ち、ひとり剣を持ちながら舞を披露した。それはいわゆる剣舞という芸術的なものではなく、実技の演習のような印象を与えるもので、非常に荒々しい。それだけに戦場での迫力が際立つというものであった。
「誘いに乗りますかな?」
私は傍らの李広利に問いかけたが、彼の返事ははっきりしない。
「うむ……」
仁栄の舞いを見ながら、李広利はため息をついた。
「仁栄の舞いは見事だ。武勇自慢の者が郁成にいれば、彼に挑もうとする……そう思いたい」
仁栄は腰から抜いた剣を手に、鋭く風を切る。時折彼は大きく飛びすさりながら、叫んだ。
「我と手合わせをせよ!」
しかし郁成の兵とは言葉が通じない。この上は雰囲気だけでその意図を感じてもらいたかった。
「煎靡が最初から出てくればそれに越したことはないが、おそらくそうはなるまい。仁栄は、煎靡が自らしびれを切らして出てくるまで、何人もの敵を倒さねばならない。つらいところだが……しかし、あの演舞を見ている限りでは、想像以上に仁栄は強そうだ。きっと煎靡は出てくる」
どれほどの時間が過ぎただろうか。仁栄が大いに見栄を切った場面で、郁成の仁栄からひとりの武者が進み出た。片手に太刀を持ち、汗血馬に騎乗している。
「手強そうだ。仁栄は対処できるかな。我々も彼の実力を知るよい機会となるであろう」
相手が太刀を構えているのを確認した仁栄は、自らも腰の剣を抜いた。馬上で構え、名乗りを上げる。
「我は漢の武人、呂仁栄である。この剣に最初に斬られるのは貴様か!」
仁栄はまだ若いにも関わらず、その迫力は味方でさえも震え上がるほどのものであった。恫喝の仕方もさまになっていて、実戦慣れしている印象を受ける。皇帝から直々に評価を受けたという事実にも、なるほどと納得させるものがあった。
相手が名乗りを上げたらしい。しかしその言葉は聞き取れず、結局相手の姓名がわからぬまま戦いは始まろうとしていた。おそらく敵の武者も相当な勇者なのであろうが、少なくとも我々の世界に名が残ることはない。
郁成の武者は、青く光る鎧を身につけていた。戦場の中で異様な煌びやかさを放つその鎧は、否応なく人の目を引く。仁栄に劣らぬ大柄な男であり、我々は勝利を確信できなかった。
じりじりと相手との距離を詰めながらお互いの出方をうかがっていた双方であったが、やがてまるで呼吸を合わせたかのように突進を開始した。
「……始まった」
我々にとっては息も詰まる思いであるが、一般の兵士にとっては熱狂を駆り立てる場面である。兵たちは情熱的に声援を送り、それは郁成の側も同じであった。
第一撃。
西極に騎乗する仁栄は、汗血馬に乗る相手に若干の後れをとり、相手の太刀を受ける形となった。仁栄の剣がそれを受けた際の金属音が激しく場に響いた。
しかし仁栄は全く体勢を崩すことがない。彼は剣を大きく振るって馬上で構えると、相手の左手に握られている馬の手綱を迷うことなく切り払った。
「あっ……!」
体制を崩した敵が弾かれるように落馬し、転倒したのを見て、郁成の陣営から抗議と思われる罵声が沸き起こった。やり方が汚い、というのであろう。
「構わぬ。蹴散らせ!」
李広利は叫び、馬上の仁栄もそれにかすかに頷いたようであった。彼は西極を操り、まずは乗り捨てられた汗血馬を追い払うと、大地に横たわったままの敵を踏み潰したのである。
「…………!」
喚声や罵声をあげていた両陣営は、それで静まりかえった。
聞こえたのは、西極の前足で二度三度と踏みつけられる敵兵の骨が砕ける音……。仁栄はそれに何の感情も示さず、相手が絶命したことを確認したあと静かにその首を切り落とした。
彼は高々と敵兵の首を掲げ、郁成の陣営にそれを示した。そして不遜に言い放つ。
「次に殺されたい奴、前に出ろ」
四
静まりかえっていた。鬼神のような仁栄の姿に郁成の陣営からは声も出ない。そればかりか、漢側も仁栄の残虐さが予想を超えていたことに圧倒されていた。それまでの物静かな語り口、愛嬌のある素振りとは裏腹に、その戦闘行為は徹底していた。
「……褒めそやせ。喚声を上げろ」
李広利も驚愕のあまりしばらくの間自失していたが、やがてそのように兵に指示した。しばらくすると兵たちは我を忘れたかのように興奮し、絶叫した。
「なるほど強い……。これほど味方に頼もしさを感じたのは初めてのことだ」
李広利はそう言葉を漏らした。しかしその声はいまや兵たちの熱狂の声にかき消されつつある。私はかろうじてその声を聞いたが、その瞬間思い出されたのは昨夜交わされた彼らの会話であった。
李広利はやはり仁栄の覚悟のひと言が気になったのであろう。決戦を前にしたその晩、彼らは食事を共にしながら語り合っていた。
「煎靡を相手に死ぬ覚悟だと君は言ったが……その言葉は心強い一方で、私としては後味の悪さを覚える。私は、是非とも君に生き延びてほしいのだ。煎靡は勇猛な将軍だそうだが、実際に剣を交えてみない限りその実力のほどはわかるまい。君が勝ち残る可能性だって充分あるだろう。なのになぜ自分が死ぬことを前提に話をするのか」
「将軍。お言葉はありがたく思います。ですが、死ぬ覚悟を持たぬ者に大事を成すことができましょうか。私は自らの命を惜しんで、目の前の敵から逃げたりはしません」
「それは確かにそうであろうが……中途半端な覚悟では煎靡に対抗できない、それもわかる。しかし、人というものは本能的に生き残ることを第一に考える生き物だ。君は私よりも若いが、それを超越している。どのようにしてその境地に至ったかを知りたいと思うのだが、聞かせてもらいたい」
「あえて意識していることはありませんが、私は常日頃より生に執着してはおりません」
「だから、それがなぜかを聞かせてもらいたいのだ」
仁栄のこのときの返答は常に短く、決戦を前にした夜だというのに会話が弾んでいるとは言えなかった。李広利はやや語調を強めて呂仁栄に言い放った。
「よいか仁栄。もし明日君が、君の言葉通り——死に至ることになったとしたら、私はその事実を公主にお伝えしなければならない。あるいは帰還したあとに皇帝陛下へ報告せねばならないかもしれぬ。遺族へ恩賞を与えるためだ。そのためには、君がどういう男で、どのような考えで戦いに臨んでいたかを知っておく必要がある。私は、それほど武芸に長けているわけではないので、明日の一騎打ちに加勢することはできない。しかし功績があった者をしかるべき人物に報告することはできる。それも将軍としての私の勤めなのだ」
「お心遣いはありがたいのですが、私はすでに親を失っております。ですから遺族への恩賞の問題も起きません」
「後顧の憂いがないことが、君が自身の命を軽視する理由なのか。……しかし君の年頃から言えば、親はまだそれほど年寄りではないはずだ。早逝したのか。そのあたりの話もぜひ聞いてみたい」
すると仁栄は気が進まぬような顔をしたが、やがて話し出した。
「博望侯張騫どのが西域諸国を発見して以来、諸国の食い詰め者や成り上がりを夢想する者が競って使者となることを願い出たそうですが、私の父もそのひとりでした。父はそれほど教養もなく、田舎の商人でしかありませんでしたが、それなりの名誉欲があったのでしょうか。意気込んで使者となって旅立ったのですが、それきり帰ってきませんでした。今では砂漠に骨をさらしていることでしょう」
「ふうむ。母親はどうした」
「逃げました。父親が帰ってこなかったので、私のことを養えなかったのでしょう。商人の家でしたから、田畑もないので……仕方ないです」
「兄弟は」
「かつては妹がおりましたが、もういません。母親がいなくなって間もなく病気で死にました」
「……それで君自身はどのように成長したのだ」
「盗みを働いて牢屋に入れられました。囚人となったわけですが、あるとき恩赦を受けて兵士となり、教育を受けている間に近衛兵に選ばれました。そのときの私はまだ若すぎたので、実戦は無理だと判断されたのでしょう」
李広利は鼻を鳴らし、深く同情の意を表した。しかしそれを仁栄が求めていたかどうかはわからず、彼もどう声をかけるべきか悩んだようであった。
「なかなか……壮絶な人生を送っているな。思うに、君の生き急いでいるような発言には、その人生が影響しているように思う。死んだ父や、母親に対する君の思いがどのようなものなのかが知りたい」
「どちらも考えが浅はかな人たちです。ですが、父親に関しては……砂漠に飲まれることなく無事に帰ってきていたら自分の人生も違ったものになったかもしれない、と思うことはよくあります。だから私は、西域を恨む。この地の気候、住民、空気……すべてが恨みの対象です」
「……………」
「無論、公主さまに対しても同じように思います。この地がなければ、公主さまはあのような運命をたどることはなかった。傍に使えた者として我慢なりません」
呂仁栄の残虐さは彼の思いに裏付けされたものであり、私はそれを責めようとは思わない。むしろ彼には思いの限りをぶつけてほしいとさえ思った。
「仁栄、今こそ恨みを晴らせ! 敵に慈悲を与えないその姿、実に美しいぞ!」
傍らの李広利はそう叫び、彼を激励した。少なからず、彼も仁栄と思いを同じくするところがあったのだろう。
五
二番目の敵が姿を現した。今度は赤い甲冑を身につけた背の高い男である。どうやら郁成軍は鎧や兜の色が派手な者が実力者らしく、今度の男も周囲から期待と尊敬を受けているようであった。
しかも仁栄の行為は相手の怒りを誘うに充分なものであり、よほど注意してかからないと痛い目に遭うだろう。また、再び馬の手綱を切るという意表を突いた芸当が相手に通じるとは思えなかった。
馬は栗毛の汗血馬である。馬上の男の赤い鎧とよく調和して、敵である我々の目にも美しく映った。強敵であろう。
手にしているのは長柄の槍である。接近を許さない構えで、剣では対処が難しい。
しかし仁栄は、この場面でも斬馬剣は使わなかった。煎靡が出てくるまでの秘蔵兵器としておきたいのだろう。
——しかし、勝てるか。
敵は鋭い突きを連続し、仁栄の接近を妨げる。仁栄は体を右に左に傾けながらそれを避け、間合いを詰めようとしたが、なかなかそれもできないでいた。槍の風を切る音が場にこだまし、一見すると仁栄には手も足も出ないように思われた。
しかし仁栄は体を反らせながらその突きをかわしたと思うと、左手でその槍先を素手で掴み取り、右手にある剣でそれを叩き折った。
敵は一瞬、丸腰になった。
慌てて腰の剣を抜こうとする敵の動きを察知した仁栄は、あろうことか手にしていた剣を敵に向かって投げ放ち、その瞬間に勝負は決した。放たれた剣は鋭く回転しながら飛び、そのまま敵の首もとに突き刺さったのである!
喉元に剣を突き立てられたまま、もんどり打って落馬する敵を尻目に、仁栄は郁成の陣営を不敵に見やった。どうだ、といわんばかりの表情である。
そして彼は相手の首から剣を抜き取ると、改めてその首を切り離した。大地には二人の首が無造作に置かれている。
郁成の陣営からはひと言も発せられなかったが、その周囲には怒りの空気が充満しているように思われた。
「驚いたな……。近衛兵の鍛錬では危機に陥ると剣を投げ放つという技を教えたりするのか」
李広利は呟いたが、もちろんそのようなことはない。仁栄はあくまで自分の瞬時の判断でそれを行ったに過ぎず、このようなことは教本に示されていたりはしないものである。仁栄は対応力に優れ、その能力は郁成の兵に比べて一日の長があると言えそうであった。
「しかし考えてみれば、郁成側がこのような一騎打ちに付き合う理由はない。彼らが意地になって仁栄個人を倒そうとしてくれれば、時間を稼ごうとする我々にとってはありがたいことではあるのだが……。だが本当にそのようなことがあるのだろうか」
李広利は、裏に何か隠されているのではないか、と言いたいようである。指揮官としては心配の種が尽きないのだろう。まして彼の指揮は、今のところ仁栄の個人的武勇を頼りにしているのみである。それが望み通りうまく運ぶはずがない、と考えても不思議はなかった。
「郁成にしても士気の低下は避けたいところでしょう。しばらくはこの調子でいくものと思われます」
「だが、今まで出てきた武者は二人とも高級士官と思われる人物だ。そのような者たちが次々と出てきて、どれも仁栄の手にかかって命を落とせば郁成は終わりだ。果たしてそのようなことがあるのだろうか」
「将軍、それこそ我々の望むところではないですか。我々は着実に、一人ずつではありますが勝利に近づいている……ほら、次の武者が現れたようです」
「ふうむ……。煎靡はまだ出てこないのか。我々にとっては助かるが、どうも意図が読めぬ」
六
それが煎靡ではないとわかった理由は、甲冑の色が黒ではなく、紫であったからである。体格はさほどでもなく、馬も先の二人のものよりは大きくなかった。どうやら郁成側は仁栄に対抗し得る武者の種が尽きたようである。
「貴様、本当にこの私と剣を交えるつもりか」
仁栄はその武者の歩調が弱々しかったことを見かねて、そのように問うた。が、当然のことながら言葉は通じず、相手が弱々しくも身構えたので彼も戦闘態勢に入らざるを得なかった。
「無駄に命を捨てるな、と言いたいところだが、命じられて出陣してきたとあっては名誉もあろう。相手をしてやる」
仁栄は尊大な態度で敵に対したが、李広利はこれに何らかの意図を感じたらしい。彼は、後方から仁栄に声をかけた。
「仁栄、気をつけろ。何かを仕掛てくるかもしれぬ」
その声に気を取り直した仁栄は相手の様子を注意深く窺ったが、その構えが隙だらけであることを確認すると、改めて気を緩めた。
彼は二、三の敵の攻撃を悠々とかわし、接近するとまるで悪戯をするように素手でその体を押しやった。相手はよろめき、数歩後退する。
そのまま敵は仁栄の出方を待っているのか、構えたまま動かなくなった。
「どうした。かかってこい」
声をかけたが、依然として敵は構えたままである。一撃の機会を狙っているのか。
そのとき、敵の剣先に蝿がとまった光景が仁栄の目に映り、彼は思わず笑いを漏らした。
——なんと、蝿がとまる鈍重さよ。
そう思いながらその光景を眺めていたが、相手は自らの剣先に蝿がとまったこと自体に気づいていない様子である。そのまま身じろぎもせず構えていた。
ところが、である。剣先にとまった蝿は、急に変色し、硬化して地に墜ちた。これに気づいた仁栄は、言葉を失ったかのように歯がみした。
「貴様……」
敵は必死に機会を窺っている。その理由を仁栄は、今やっと知り得たのだった。
「剣に毒を塗っているな!」
そうとわかると距離をとらざるを得ない。漢の陣営もこれを機に色めき立った。言葉がわからず、状況だけで自分の策が露呈したことを悟った敵は、一気に攻勢へと転じた。
「剣技で敵わぬと知って一撃の機会を狙っていた敵が、一気呵成に攻撃している。しかし……ただ闇雲に剣を振り回しているに過ぎぬ。仁栄、落ち着け! 刃に触れなければどうということはないのだ!」
李広利は叫び、仁栄に主導権を取り戻そうとさせた。傍らに控えていた趙始成は、
「卑怯な手を使う相手には、それ相応の対応をしてもよろしいかと。こちらから弓で狙撃しましょう」
と、一騎打ちの場をあえて乱す策を提案した。が、李広利はこれを却下した。
「いや、軍正。仁栄に任せておけばよい。この程度の策略でやられる男ではない」
そう言って成り行きを見守った。その目には余裕の色があり、仁栄の武勇を信頼している彼の心が映っていた。
仁栄は振り回される敵の剣をかいくぐり、ついに敵の懐に飛び込んだ。馬を激突させ、相手の動きを封じ、その上で剣を持つ敵の手首を鷲掴みにした。
「いいぞ、とどめを刺せ!」
周囲から喚声が飛んだが、仁栄は自らの剣でそれを行おうとせず、掴んだ敵の手首を力づくで捻りあげ、ついには両手でそれを支えた。敵が自分の剣で自分を傷つけるよう仕向けたのである。
「…………!」
敵はものも言えずに必死にそれに抗おうとしたが、仁栄の力がそれを制した。じわじわと自分の顔に近寄ってくる毒入りの剣を、その男は逃れることもできずに身を硬直させている。
最後には絶叫がこだました。敵の顔は自らの剣で押し切られ、その傷口が変色して顔全体が紫色に変化した。仁栄はその剣に触れぬようそそくさとその場を離脱し、あとにはもがき苦しむ敵の姿だけが残った。
毒に犯された敵の顔は紫色に変色したが、それは彼が身に付けている甲冑の色と同色であった。その口から漏れる白い泡だけが、その男の死を象徴していた。
※
日はすでに最も高い位置から傾きつつあり、早朝に仁栄が剣舞を行っていた頃合いから半日以上が経過していた。予定通りに作戦が進行していれば、李哆は二つ目の水源の破壊に成功している頃であろう。時間はうまく稼げていた。この上は、敵将である煎靡を倒し、総攻撃への弾みを付けたいところである。李広利はこのとき、勝利の可能性に思いを至らせた。
そのとき敵の陣営の中央に黒い影が動いた。ようやく煎靡が自ら腰を上げたようであった。
現存する馬の種でアカール・テケあるいはアハルテケと呼ばれるものがあるが、これが汗血馬の子孫だという説が一般的である。汗血馬は「血の汗を流す」という習性からその名がつけられたことは有名だが、実際に寄生虫にその皮膚を犯された馬はその刺激によって走り続けることがあるらしく、それが名の由来になったという説もある。
アハルテケの特徴としては筋肉質・金属調の毛並み・長い耳の他、尾やたてがみはまばらであることが挙げられ、トルクメニスタン原産と言われている。現在ではロシア地域が中心となって約3500頭の育成が行われているが、中国も200頭あまりを育成している。持久力のある馬として現在でも障害レースの出場馬として尊重され、サラブレッドの原種とされることもあるようだが、その起源については諸説ある。




