征旅再び
一
塞をひととおり巡回したのちに李哆が放ったひと言は、彼らしく口調に嫌味が含まれたものであった。
「このようなところに潜伏していらしたのですか」
李広利はそれを受けて気を悪くしたが、ここに至るまでの帰途の苦労や、皇帝に長安入りを拒否されたことなどをいちいち説明することは面倒であったので、やはりひとことで彼の挑発的な物言いを退けた。
「ここは、安住の地だ」
言外に「貴様のような問題児がいなかったからだ」という意を含ませたひと言である。李哆がむっとした表情を見せたことは言うまでもない。
「次の機会は訪れるのでしょうね。もしそれがなければ、私が行ってきた西域の調査も無駄になります」
「まだわからぬ。それはともかく、調査結果を聞こう。目新しい事実は確認できたか?」
「それなりに結果は得られましたよ。もし次の機会があるとすれば、葱嶺越えをする道を辿って大宛に辿り着けそうです。亀茲国の西は想像以上に栄えていて、匈奴の影響も少ないようです」
「ほう……」
しかし自国の安全を自国の武力のみで保っている国だとすれば、匈奴の影響力は少ないかもしれないが、漢の影響力も不必要なはずである。そのような事態になれば、必死になって抵抗するのが自然な流れではないか。
「姑墨国や温宿国、尉頭国……そして疏勒国。いずれも商売が盛んで、多くの隊商の姿が市場には見られます。安息や大夏などの商人がよく訪れているようですが……これらの国々の連中は、自分たちより大国の商人たちにおもねる傾向がありまして……。常に足もとを見られながら、それに逆らえない現状に不満を抱いているようです」
「ではそれらの国々は、一様にどこかの大国の保護を求めている、というのか。しかしこれまでの流れからすると、匈奴にそれを求めるのが自然ではないのか?」
「それはその通りですが、匈奴はいま受降城の攻略に躍起となっていて、さらにはそのさなかに単于が死去したという状況にあります。これらの地域はもともと匈奴の根拠地からは遠く離れた位置にありますので、国内に問題が発生すると保護がおろそかにされる傾向があるようです。これまでもそういったことが繰り返されてきたようで、彼らはみな不満に思っています。彼らの安全と、商業活動を保護してやれば、漢は支持を得られます」
しかしそこに至るまでは、楼蘭や姑師、焉耆や危須などを無事に通過しなければならない。これらの地域は砂漠の東側に位置する国だが、匈奴の本拠地に近いため、その影響力を大きく受けている。
「砂漠の国々を威圧するほどの軍事力で通過することができればよいが……実際のところ砂漠の行軍は困難で、兵が多ければ多いほどよい、というわけではない。三万以上の兵数となっては、食わせることが困難だ。二十万や三十万の兵士を動員するには部隊を分けねばならないし、だいいち皇帝陛下がそれほどの数を動員してくださるかどうかが問題だ」
「将軍に再度の出撃をお許しになるかさえも疑問です。趙破奴が敗れて行方不明になったことで、朝廷に匈奴への復讐を望む動きが出てくるでしょう。出撃自体が無いのかもしれません」
「そのように事態が運ぶと、私は終わりだな。この塞の中でむなしく朽ち果てる日が待っているのかもしれない」
もと楽士であった李広利にとって、戦闘の指揮は苦しいものであった。よって、好んで戦いを望んだわけでは決してない。しかし、それ以外に彼は名誉を回復する術を知らなかった。
二
朝廷では、論戦が繰り広げられている。論点はもちろん浞野侯趙破奴の敗北についてであった。皇帝の前に公卿たちが集まり、口々に国力を匈奴征伐に向けるべきだと主張したのである。つまり、大宛に向けた兵力展開を中止すべきだと言うのである。
皇帝は、のちに武帝と諡される人物であった。姓名を劉徹といったが、誰も彼をその名で呼ぶことはしない。人外の域にあった彼を呼ぶとき、人々には「皇帝陛下」という呼称を用いることしか許されていなかった。
その皇帝は大将軍衛青を見出し、その甥である驃騎将軍霍去病を武将として育てた。そしてこの二人に命じて河西回廊の匈奴勢力を一掃させ、西域への足がかりを築いたのである。
さらには博望侯張騫に命じて大宛を発見させ、烏孫との同盟設立にも積極的に関わった。江都国公主劉細君を烏孫公主として派遣し、その関係を強化した。
その政策のどれもが、究極的には匈奴を征伐するためのものだったのであった。西域の支配権を握ることが、その最短の道だと考えたのである。
「お前たちの提案は、いずれも浅はかなものだ」
公卿たちを前に、皇帝は重々しく言い放った。
「西域は匈奴の食料庫であり、彼らが冬を越すための大きな財源でもある。当初からその財源を絶ち、もってそれを我々のものとしようとして始めた大宛遠征であることを、諸君は理解していないか、あるいは忘れているのだ」
「…………」
皇帝が反対の意を示していることを知り、公卿たちは絶句した。返す言葉がなかったばかりでなく、自分たちの失脚を意識したのである。
「大宛討伐は朕がすでに決定事項としていることだ。しかしそれが小国であるにも関わらず降伏させられないとあっては、大夏などの輩は漢を軽侮し、大宛の良馬も決して漢に来ることはないであろう。また烏孫や輪台なども漢を侮り、使者を苦しめるに違いない。やがては漢は諸外国の物笑いの種となり、その威光を世に示すこともできなくなるであろう。そうなってしまっては、匈奴を征伐することも不可能となるのだ」
かくて皇帝は西域撤退を主張した公卿たちを罰したうえで、獄に繋がれている者たちに大赦令を出した。一年かけてこれを兵として養成することにし、装備や馬牛も補充された。限りなく多い予算が、この事業に計上されたのである。
※
「皇帝陛下がまだ西域を諦めていないことは明らかになったのですね。これで……将軍さまに命令が下れば万事思惑通り、ということになるのでしょうか」
欣怡は思慮深い表情で李広利に問いかけた。その顔には、戦いの場などという危険な現場などに行ってほしくない、という感情が見え隠れする。
「君のお父上のこともある。つまりこれは……君のためでもあるのだ」
欣怡はこのとき驚いたようであった。
「知っておいででしたのね。お父様から将軍さまに直接の依頼がございましたか?」
「いや……。しかし、お父上が私に期待してくださっていることは自然にわかった。ほら、以前に私は人の気持ちに忖度すると言っただろう。お父上が敦煌を離れて長安に行きたがっていることは、すでに君から聞いて知っていたことだ。あの方が長安に戻るためには、軍功をあげた私が君を娶り、その親族として上洛への道に同行するしか方法がないだろう、と考えたのだ」
「厚かましいお父様の望みまで叶えようと……ご心労をおかけしてすみません。それで……それが私のためでもあるとは?」
李広利はこのとき、赤面したようだった。
「あらためて言わせるのか……? 君を娶りたいのだ。もちろん、軍功をあげたうえで正式に……以前のような無粋な言い方はしないつもりだ。そのときは、受けてくれるであろうな?」
欣怡は優しさに満ちた微笑みをみせながら、これに答えた。
「将軍のお気持ちにお変わりがなかったら。ほら、人は功績を挙げると性格が変わると言うでしょう? だから……」
「変わらない。大丈夫、変わらないさ」
二人はそのとき、砂漠に浮かぶ月の明かりを受けながら、抱擁を交わした。
三
再度の大宛遠征の命令が皇帝より下され、我々はその準備に忙しかった。李広利は再び指揮官に任じられ、彼はこれを快諾した。その裏には妹の死に対する恨みの感情があったが、それを表情に示そうとはしない彼であった。
「兵員は、どのくらいだ」
問われた李哆は、即座に答えた。
「六万ほどです。かつて漢の建国に関わった歴史上の英雄たちは二十万や三十万の兵を統率した、と言われていますが、今回の旅程は砂漠を横断するものですのでこのくらいが適当かと思われます。六万という数は、西域の小国を脅すに充分な数ですし、輜重部隊を別に編成すれば、食わせていくにも難しくない数です」
「輜重部隊が、別にあるのか?」
「この敦煌を拠点にして、順次補給が可能なように部隊が集結するとのことです。各地の辺境の守備隊を動員して、その数は十八万にのぼる予定です」
その十八万は、罪ある役人、亡命者、あるいは入り婿などが中心となった部隊で、要するに、この任務に成功することによって名誉を得ることが目的の者たちである。李広利は、そのような彼らの思いにも応えなければならなかった。
かくして我々は、再度西域の地へ足を踏み入れることとなった。
以前とは異なり、充分な装備・人員を確保し、後方支援の面でも憂慮はない。出発を前に蝗害に襲われるなどという突発的な災難も訪れず、多くの敦煌の住民たちに見送られながら、我々は進撃を開始した。
「無事に戻ってきてくれたらいいけど……」
欣怡は不安そうに軍団の後ろ姿を見つめた。彼女は確かに李広利の成功を願って、その帰りを待つつもりだったが、よく考えてみると一方の成功は他方の失敗につながることに、改めて気付いた。漢の成功は西域の不幸につながるのではないか、だったら遠征などしない方がいいかもしれない、などと考えてしまうのであった。
「我々としては、匈奴に支配されている西域の現状を変える、と考えるべきであろうな。あくまで漢人としての我々の主観だが、それは西域を救うことになるのだ」
父親の尹慈は、そういって娘を慰めた。それは、戦いに赴く李広利も同じ気持ちであったことだろう。
玉門を抜けると風景は砂ばかりである。敦煌では木や草などの緑が点在していたが、当然のことながら砂漠にはそれがなかった。
そして砂漠には、誰もいない。無人の地を行く六万を越える兵団は、事実上無敵であった。たとえ砂山の影に匈奴が隠れていたとしても、何のことがあろう、我々はそれを容赦なく打ち砕く兵力を有していたのだ。
「多大な兵力を以て敵陣の中を行く……これが自らの身を守る最大の方法だな。威圧することでお互いに傷つけ合わずに済む。こちらも無益な殺生をしなくて済むから、精神的にも安定した状態で軍旅を続けられる。たしか孫子は戦わずして勝つ、という内容の言葉を残していたと思うが、私は今その本当の意味を知った」
天山南路を威風堂々と進軍しながら、李広利はそのようなことを言った。
軍団は西に向かい、諸国はそれをひれ伏して迎えることになるのだった。
四
以前に塩沢を訪れた際には全くの無人であったにもかかわらず、今回訪れたときには多くの楼蘭兵が我々を出迎えた。敵対する様子はなく、誰もが武器を地面に投げ出して無抵抗の意思を示している。歓迎すべき事態であったが、李広利はこれに不信感を抱いたようであった。
「通訳はいるか」
李広利の前に丘就卻が現れた。かつて露店の商人であった、あの店主である。
「楼蘭の言葉は、大体わかります。お任せください」
「うむ。では——」
李広利は丘就卻を前面に立たせると、以下のように告げた。
「以降、私の言葉を彼らに向かって訳して伝えよ。……お前たちは楼蘭国内のどの城の兵か!」
丘就卻は李広利が声に力を込めていることを察し、同様に彼らの言葉で力強く問うた。それに対する返答は、非常に弱々しいものであった。
「伊循城に属する兵団でございます」
李広利の頭の中に、過去の苦々しい経験の記憶が呼び起こされた。あのときの彼らは我々を歓迎せず、抵抗の意思をみせた。抵抗自体は形ばかりの小規模なものであったが、その後の面会は李広利にとって苦渋に満ちたものであり、自尊心を失わせるものであった。軍事で敵わぬことを知っていた彼らは、口で不満をぶつけたのだった。
「では、城主筆禍津は城にいるのか。訳長の于屡雁もいるはずだ。それに——」
李広利は記憶をまさぐり、名前を思い出そうとしたが、それは叶わなかった。
「楼蘭王の息子がいたはずだ。彼の成長した姿を見たい」
その質問に対して、伊循城の兵たちは一様に動揺を示したようであった。李広利にはその理由がわからなかったが、彼らの言葉をいち早く理解した丘就卻は深く頷いてため息をついた。
「彼らはなんと言っているのだ?」
「どうも……城内で意見の相違があったようですな。城主の筆禍津は我々を受け入れ、恭順の意を示すことを決めたようですが、訳長の于屡雁はそれをかたくなに否定し、最後には自害したと……。それに衝撃を受けた楼蘭王の息子は、匈奴に亡命したということを言っています」
「何だと……愚かな……」
以前に訳長の于屡雁と対面したときの、その丁重な態度と静かな受け答えが記憶に新しい。にもかかわらず、彼が密かに我々に対する反抗的な感情を持っていたことは驚きであった。それも、自害するほど強く……。
「漢の言葉を学んだということは、ある程度我々の文化にも通じていたということだろう。それなのに、なにも共感するところはなかったというのか。我々と通じるくらいなら死を選ぶ、などという考え方は、我々に対する侮辱でしかない。仮に生きていたら、血祭りに上げたいところだ」
李広利は毒づいたが、これは何も彼の独善的な考え方を表現するものではない。ただ、一方では英雄扱いされる行為が、他方では人を侮辱するものであったりする、ただそれだけのことである。互いに折り合いをつけずに主張するだけでは、往々にしてこのような事態が発生する。「正義はどこにあるか」という漠然とした問題であり、かつ正解のない問題であるに過ぎない。
「伊循城の城主が我々を受け入れるということは、楼蘭王もそうであると考えてよいものだろうか」
李広利は疑問を呈してみせたが、これに丘就卻が答えた。
「仮に受け入れていないとすれば、実際に赴いて兵力を見せつけることです。結局従う、従わないは兵の数によるものです。主義主張に共感できるとか、文化が優れているとかは、あまり関係がありません」
「そうか……そうであろうな」
その後我々は伊循城に入城し、城主の手厚い接待を受け、楼蘭王からの贈り物を手にした。大兵力を擁すれば、戦わずとも勢力圏は広がるものであり、我々はそれを実際に体験したのである。
ここにおいて楼蘭は、漢の完全なる勢力下に置かれた。
五
楼蘭を従えたことで後顧の憂いを排した我々は、姑師国に入った。かつて常盤城では惨敗したが、今回はおそらく戦う必要もない。丘就卻の言うとおり、彼らは強いと思われる相手に靡くだけで、そこに国家的戦略は何もなかった。考え得る我々の当面の敵は、この焼け付くような日差しと、砂からの照り返しによって生じる熱だけだろう。
「それにしても暑いな。このあたりは山が多くて、まだ本格的な砂漠ではないはずだが」
「本格的な砂漠は行軍不能です」
経験があるような口ぶりで、李哆が応じた。彼は偵察の必要上、試しに砂漠のただ中に足を踏み入れたのだという。
「塔克拉瑪干は、暑さ以外に何もない世界です。この地に住む人々の言語で、タッキリという言葉がありますが、これは死を意味しているとのことです。一方マカンという言葉もありますが、これは無限を意味していて、タクラマカンとはこれらを合わせた呼び名です。言葉の意味通り、死の世界ですよ」
「横断することは?」
「極めて困難です」
李広利には、思うところがあった。戦わずして楼蘭を勢力下に置いた彼であったが、そのことには彼自身嫌気がさしていた。軍威を見せつけることで、相手がひれ伏す姿……それに快感を覚える者もいるだろうが、彼自身はそう思わない。相手の卑屈さに虫唾が走るのであった。出来るのであれば、それを見ることなく通り過ぎたいが、それは不可能であった。
姑師国では、王自らが我々を出迎えた。戦わずに前に進めることは、本音を言えばありがたい。しかしどうにも釈然としない不合理さがそこにあるような気がして、李広利は落ち着かなかった。
「王と直接話がしたい。取り次ぐのだ」
かくして李広利は、王と対面することになった。王は穀物を中心とした補給物資に加え、葡萄や瓜などの現地でしか採取できない生産物を我々に賜った。それは確かにありがたいことだが、我々が本当に欲しいものは、確かな安全保障であった。
「王さまは、このように我々を出迎え、もてなしてくださいます。しかしこれは本当の意味で我々に味方してくださる意思表示なのでしょうか。このまま王さまが我々を受け入れてくだされば、やがては後続部隊がここに到達し、進駐することになるでしょう。大宛に向かう我々のために、あなた方の地は補給の拠点となるのです」
「それは、構わない」
王は、にこやかな笑顔で李広利の問いに応じた。以前、この二国の間に戦いがあったことなど、すでに忘れているかのような表情である。
「だとしたら、確約が欲しいのです。我々としては、この地に再び匈奴がやってきたとき、あなた方に意趣返しをしてもらいたくない。つまり、後続の部隊は我々の補給のためだけではなく、あなた方を監視する役目も負うのです。結局のところ、あなたは自分の意思で国の政策を定めることが難しくなる」
「それは、昔から変わらない。ただ相手が変わるだけで、匈奴が漢に変わるだけの話だ。この地は、砂漠の中の楽園ではあるが、過酷な自然環境によって国土の拡張が難しく、人口が多くなれば産児制限も考えなければならない。我々だけでは国の維持も難しく、隣国と生産物を売り買いしてようやく成り立っている状態なのだ。匈奴は軍事的には強力な国ではあるが、物資に乏しく、その点ではあまり当てにならぬ。これからは漢の方が、我々を助けてくれるのではないかと期待しているところだ」
漢はその度量を試されているのだと、李広利は感じた。かつてこの国との戦いに敗れた鬱憤を晴らしたいという思いは確かに彼の中には存在し、せめて言葉で相手を屈服させたいと思っていたのである。しかし、王はその彼の気持ちを見透かしたような口ぶりで、漢側に度量を求めた。
「これ以降、王国も繁栄することでしょう。産児制限などとんでもない。漢からもたらされる物資で、国民すべてが豊かになる道が開けたとお考えください」
そのような言葉で、李広利は会見を締めくくった。漢が西域を経営するには、安全を保証すると同時に、現状よりもよい暮らしを彼らに与えねばならない。支配下に置いたにもかかわらず、彼は難題を突きつけられた気持ちになった。
そのような調子で危須国を抜け、焉耆国も通過した。どの国も我々に敵意を示さず、旅程の遅れもない。
「さて……前回の遠征では、ここから天山を抜け、烏孫を目指したわけだが……烏孫はすでに名目上は漢の同盟国だ。今回は通過する必要性を感じないが、皆はどう思うか」
李広利は軍の首脳部を集めて会議を開き、各人の意見を聞いた。軍正の趙始成はこの李広利の行為に疑問を抱いたような口ぶりで、逆に質問した。
「本来であれば、将軍が決めたからには、我々はそれに無条件で従うものです。それをわざわざ確認させるとは……もしや将軍は、烏孫に心残りがあるのではないでしょうか」
これを受け、李広利は苦笑いを含んだ表情で答えた。
「軍正は私の痛いところを突く。実は、まさにその通りだ。公主の姿や、呂仁栄の墓を見たいという思いが断ちきれずにいて……生前の仁栄は、公主が慢性の病気を抱えていると言っていた。ご健勝かどうかだけでも確かめたいのだ」
「しかしこの先の亀茲国や姑墨国、あるいは疏勒や莎車などについては、我らの武威を見せつけて従える必要性がございます。それに対して烏孫はすでに漢の同盟国でありますので、このたびはわざわざ訪れる必要はないかと……天山を越える行程もこのような大兵団では危険が伴います」
「確かにその通りなのだが、私には先ほど述べたこと以外にも考えがあって……つまり、郁成を打ち負かしたいのだ。あの出城を攻略した上で大宛に入城したい、と」
改めてそう言われると、始成も返す言葉を失った。仁栄を失ったあの悔しさを晴らしたいという気持ちは人として当然であり、苦労して郁成城の弱点を探り出すところまで到達したのだから、今回は目標を完遂したいという気持ちも自然であった。
「もし、亀茲国以西の国々を従えることが重要だというのであれば、大宛を征伐してからでも遅くはない。むしろその方がやりやすいのではなかろうか」
確かに見かけだけの軍威によるものでなく、その軍威が大宛征伐の成功という実績を伴うものであれば、諸国が靡きやすいことだろう。郁成を下し、大宛を征伐すれば、目的と復讐を同時に果たせるというのものであった。
六
しかし、李哆はこの意見に反対を表明した。
「罰せられることを覚悟で申せば、私は反対です」
李広利は、この意見を受容し、それを実際に言葉にして表した。
「意見が異なることで君を罰したりはしない。そもそも私は、自分の中でもどうすればよいのか決めかねている。よって、皆の意見が聞きたいのだ」
「では、申します。やはり我々に与えられた使命は、大宛の征伐と、西域の支配権の確立です。この二つが最優先である以上、烏孫の情勢の確認はあとからでもよろしいかと思われます。公主さまの健康状態も気になることではありますが、我々が任務を完遂すれば、容易にそれは確認できます。今現在、公主のご病気が一刻を争うものだという情報は入っていないのですから」
李広利は納得したような表情を見せた。
「それは確かにその通りだ。しかし……郁成のことはどうする? あの城の弱点を見出したのは君自身だ。決着をつけたいという気持ちはないか」
「ないと言えば嘘になります。ですが、それより先に大宛の都城である弐師城の弱点を見出すことが先でしょう。郁成を陥落させたはいいが、弐師城攻略には失敗したという事態は避けたい。郁成に関しては、弱点がはっきりしている以上、後続の部隊に任せてもよいかと」
「……決まりだ。烏孫には寄らず、砂漠を行く」
李広利は方針を定め、全軍に通達した。
私は李哆を呼び止め、二人きりで話した。その本心を聞きたかったのである。
「王恢どの。決定に不服なのですか?」
「いや、そういうわけではないが……これから先、道案内は君の役目となるだろう。私の知識は楼蘭・姑師で終わりだからな。烏孫に行かないとなると、偵察を経験した君の領分となる。大丈夫なのかと聞きたかったのだ」
李哆は躊躇いもなくこの質問に答えた。自信があるのだろう。
「問題ありません。むしろ、六万以上の兵力で山越えをする方が危険です。季節は夏とはいえ、天山は高く、山頂には氷河が存在する。それが溶ける時期でもあるので、洪水に飲まれる恐れもあります。麓を行った方が安全です」
「それはそうだが……」
「烏孫とは遠く離れていますが、北の地には匈奴がいます。受降城は陥落にまでは至っていませんが、浞野侯趙破奴さまは捕らわれたと聞いております。それを救う任務を帯びているのであれば話は別ですが、そうでない限り匈奴には近寄らないでおくのがよいでしょう。大宛と匈奴を同時に敵に回すことは不可能です」
李哆の言い分は理にかなっており、私は別の問題を提起することしか出来なかった。
「ならばそれでよいが……では、君が行った偵察の結果は安全だということなのだな? 亀茲や疏勒は通過できると?」
「戦うことなく、という意味ですか? そうは言っていません。亀茲国は西域諸国でも繁栄している国で、匈奴が弱体化しているいま、完全なる独立と自治を謀っています。おそらく我々が行けば、戦うことになるでしょう」
李哆はこういうことをさらりと言った。おそらくは偵察の結果、勝つ自信があるのだろう。
「李哆、貴様……戦いたいのだろう?」
私は冗談めかして言ったつもりだったが、当の李哆は真剣なまなざしでそれに頷いた。
「まさしく。……しかし戦いを欲しているのは私ばかりではありません。将軍は、楼蘭・姑師の強者に媚びる態度は変節だと感じている節があります。おそらく気骨ある国を相手に、一戦交えたいと思っているでしょう」
孫子の書には、戦わずして勝つが最善、とある。しかし軍人というものは、戦って勝ってこそ自分の能力が発揮され、美意識を満足させることができる生き物なのであった。
李広利もついに軍人となったか……私はそう感じざるを得なかった。
武帝は李広利の再遠征を決断したが、その際に大宛征伐を中止するよう主張した公卿たちを処断した。意見を異にする部下たちを放置しておくことはこの時代にはできない。彼らは私的勢力を保持しており、放っておくと政治的・軍事的な力を利用して皇帝の地位を脅かそうとするからである。軍中における将軍の意思決定の際もこれは同様で、李広利が李哆の意見を聞き入れた事例は稀有である。